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2005年08月28日

わかることとわからないこと 意味・理解・翻訳

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 よく語学について「訳さないで考える」などと言われます。
 確かに英語を日本語に置き換えて考えていたりしたら間に合いませんし、やっていれば誰でもそれなりな反応力がついてきます。その反応力にも、語彙に対する反射、構文に対する直観力などがありますが、要は「考えずに理解する」ということです。いずれにせよ数をこなすことが重要でしょう。わたしはこなせていませんが。
 と、普通はここで話は終わります。

 しかし考えてみると、「考えずに理解する」とは奇妙な言い回しです。
 考えてもいないものがどうして理解できるのでしょう。
 昔英語の授業で「英語を日本語にするのではなく、英語の意味をとり、それを日本語にする」と言われました。英語でも日本語でもない「意味」という第三項がある図式です。中学生が言葉を符号のように一対一対応させてしまおうとすることに対する諌めです。
 もちろんこの場合の教育的効果としては十分なのですが(わたしもそう説明しました)、では英語とも日本語とも独立した「意味」とは何か、という話になります。もちろんそんなものはありません。
 辞書を引くと言葉の「意味」が載っています。その「意味」を辞書で引いてもまた言葉があります。「意味」を見つけたと思ったら、その「意味」も別の言葉に回付されるだけで、終わりはありません。「意味」とはこの回付する働きそのものとも言えます。
 だから実は、「訳さないで考える」というのは危険な言説でもあるのです。というのも、わたしたちが「意味」を理解するときには翻訳的な作業をせざるを得ないからです。ある言葉を理解できているかどうかテストするには、それを説明させてみるのが一番早いです。説明するとは、ちょうど言葉を辞書で引いたときのように他の言葉で置き換えてみることです。つまり「翻訳」です。
 言葉の意味と語学の問題を混乱しているようですが、ことの本質は同一です。もちろん、一般の語学訓練のレベルでこんなことを考える必要はなく、「訳さないで考える」という格言だけで十分なのですが、その向こうにある種の翻訳作業(言い換え)を抜きにした絶対的「意味」が存在すると思ったら大間違いです。
 回付としての意味作用しかない、という考えはとても不安で、人を絶対的意味に走らせます。言語外的な確かな価値を求めるのです。
 伝統的な思想や様式然りですし、最も典型的なのが身体です。人はわけがわからなくなると身体に帰ります。身体だけは確かなものに見えるからです。時にこれが暴走して、パラノイア的な体系が構築されます。狂信的な健康法や「修行」などです。すべてが身体という物質を介して再解釈されるのです(中華系の「小宇宙」「大宇宙」的発想も同様)。
 別段こういったスタンスを否定しようというのではなく、わたし自身心が不安になるとわかりやすい習慣や身体に頼ります。ただし、本当にそこに価値や意味があるというわけではありません。たまたまアンカーを打ち込んだ場所を確かめているだけです。実際、このアンカーポイントは人によって異なります。もしも「確かなもの」が本当に確かなもので、言語経済の外に根拠を持っているなら、このような多様性(「文化」によるバラつき、様々な健康法、様々な宗教的禁忌・・)などありえないはずです。

 話を戻すと、「考えずに理解する」というのは、実は理解しないことです。
 アカデミズムでは翻訳の語学が長い間重視されていて、時に批判の対象になっていますが、これは訳そうとしてみると自分が理解していないことを理解できる、という重大な長所があるからです。何らかの「翻訳」作業を経ずして理解を表すことはできません。
 「考えず」に外国語を扱っているときでも、ある程度のことは「翻訳」できるでしょう。この場合の「翻訳」とは日本語にすることではなく、訳そうと思えば訳せる、あるいは外国語内部での言い換えができる、とういことです。それ以外の場合はやはり「理解している」とは言えないように思います。
 ここまで来るとあとは閾値の問題だけになってしまうかもしれませんが、逆に言えば別段理解していなくても言葉は喋れるのです。わたしたちはベラベラとお喋りをしているだけであって、意味を理解しているわけではありません。あるいは、お喋りしている間だけは意味について考えないで済みます。
 意味とは、何かがあることではなく、何かが欠如していることに気づくことです。そしてその何かとは、実ははじめからどこにもないのです。つまり「無くても今まで気づいていなかったけれど、ふと見ると無いのに気づいてとても不安になった」ということです。
 「わかる」ということは言い換えることであり、翻訳することです。翻訳のためには、「そこに何かが無い」ことを感じる必要があります。「無いのに気づいて不安」になって、次の場所へジャンプした瞬間に「わかった!」と人は叫ぶのです。もちろん、少し時間が経てば、そこにも確かな「意味」などないことがわかって、また不安になる、つまり「わからなく」なるわけですが。
 この連続ジャンプ作業の果てに夢見られるのは、身体を軸にしたパラノイア体系のような絶対的理解です。これ以上先はない、という確かな根拠です。言うまでもなくこれは桃源郷でしかありませんが、もし一番近い状態があるとしたら、それは「無いことに気づかず」お喋りをしていたあの瞬間より他にないでしょう。
 わかっていない事が一番わかっているのであって、「わかる」という瞬間は「わからない」にしか支えられないのです。

 ちょっと思い出したので、以前書いた落書きにリンクしておきます。

「意味の意味」
「〈飛び出す〉倫理」


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