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2005年09月17日

「チョーク!」チャック・パラニューク

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 友人が日記で紹介していたのに「面白そうですね」とコメントしたところ、なんと進呈されてしまいました。
 「ファイト・クラブ」原作者として知られるチャック・パラニュークの「チョーク!」です。

「チョーク!」チャック・パラニューク「チョーク!」チャック・パラニューク

セックス中毒の僕は、毎晩カウンセリング集会に通い、中毒から抜け出そうと悪戦苦闘してる。だけど、知り合った売春婦や教師やナースたちの誘惑をやっぱり僕は断りきれないんだ。だって、セックスより気持ちいいことなんてこの世にあるかい? しかも、ママがいかれてしまって月に3000ドルの入院費を払わなきゃならないんだ。世の中うまくいかないね。しかたなく、僕は毎晩レストランに出没し、「ある演技」をして金を稼ごうと思いついたんだけど……


 アマゾンの紹介文はこんな感じなのですが、狭い意味でのセックス中毒の話題が中心というわけではありません。セックスは非常に重要なのですが、むしろ世界を性的に読み込んだり、性的であった世界が別様に展開していったり、と解釈したいです。いきなりややこしい言い方で恐縮ですが、要するにアメリカ流に通俗的に解釈されたフロイディアンな世界観、これに対する風刺、しかし一定の敬意、といった感じでしょうか。
 これと交わりながらストーリーを牽引していくラインが「救済」です。
 「救済」について考えるには、主人公と母親の関係に表されたコードと解釈について整理する必要があります。

 主人公は母親の過剰な期待を込められて成長します。母親は極めてパラノイア的人物で、彼女の世界観を貫く原則は「現象の背後には別の意味がある」ということです。つまり世界はコード化されており、「赤い車はCIA」のような「本当の意味」が絶え間なく読み込まれていくのです。そしてこれら「本当の意味」を巧みに解読することで、人に先んじることを息子に教えようとします。
 しかしこのような「教育」を受けたからといって、優秀な「解読者」に育つとは限りません。むしろそんなケースはほとんどあり得ず、大抵は「解読している自身に対する懐疑」を抱き続ける思弁的人物へと成長するものです。
 これは「イカれた」母親とその息子の特殊なエピソードというより、世間一般でも珍しくない教育法を戯画的に拡大したものと言えるでしょう。普通の親は、子供に優秀に育って欲しいと願います。人より優れている、「うまくやれる」ということは、人の知らないコードの解読法を知っている、ということです。「こういう時はこうするものなのよ」という「秘密」を伝授しようとするのです。
 すると彼女あるいは彼はその秘密の素晴らしい使い手に育つかというと、そうではありません。このコード体系教育に対して幼い生徒が必ず抱く疑問とは、「ではなぜ<こういう時>は<こうする>のか」という、現象と意味の間にある関係性です。「赤い車」が「CIA」であり、「お茶漬けでもどうどす」が「そろそろ帰れ」だとしても、この記号と意味の間に必然的関係はなく、その明証性を主張されればされるほど、子供はますます「なんでそうなの?」と疑問に思うのです。
 この教育が極めてパラノイア的であると、子供は疑問を言葉にする余地がなくなります。「そんなことを尋ねても無駄」ということを先に学習してしまうのです。しかし疑問は残ります。さらに重要なこととして、疑問がありながらも、コードを否定してしまっては親の否定になってしまい、自らの根拠を抹消してしまうことになる、という点です。
 その結果、世界について常に意味を読み込もうとし(つまり自分の人生を物語化しようとし)、それでいて常にその意味や物語を疑い信じきれない、という二律背反的状態に追い込まれることになります。

 主人公は医師教育を受け、人を「救う」人物になることを期待されます。
 この期待は単純な母親の息子に対する期待ではなく、彼自身もそのように期待したはずなのです。
 しかし彼はドロップアウトし、医者どころか食うや食わずのチンピラへと成り下がってしまいます。おそらくその背後には、「救う」という使命に対する過剰な意味付けがあったのではないでしょうか。
 普通医者になる人物というのは、「人を助ける」ということも考えはするでしょうが、一方で慈善事業でないこともわきまえています。救いはするものの、それは数ある労働の一形態であり、対価を得るための単なる生活手段でもあるのです。逆説的にも、この「割り切り」がどこかになければ、現実的に人を救うことはできません。
 しかし彼の考えた「救済」は、絶対的な意味を携えることによる無限の救いだったはずです。彼は人一倍世界に対し強く意味を読み込みながら、そこへの懐疑から自由になれないため、結果として中途半端にすら人を救うことができないのです。本当に人を救える人間というのは、一人か二人をそこそこ助けられる人物であって、一万人を解放する人間ではありません。

 セックスは外部をもたらすものです。正確には、そのように誤読されがちなものです。
 「死の欲動」ではありませんが、人にはホメオスタシス的原則と同時に、その安定状態を決定的に破壊してしまおうとする衝動があります。これを単純に「個/種」や「生/死」と図式化してしまうわけにはいきませんが、そういう破滅、生活=人生lifeの外部を導入する契機としてしばしば期待されるのがセックスです。
 これは必ずしも狭義のセックスである必要はなく、アルコール(口唇的退行・・)やハードスポーツであっても構わないと思うのですが、あたかも似非フロイディアンがすべてを狭い意味での性的に解釈するように、主人公はセックス依存へと走ります。「すべての意味はそこに終着する」というわけです。
 これに対し大抵の人は「人生には他にも意味があるよ」などと言うでしょうが、実は正しいのは主人公の方です。なぜならその他もろもろの「意味」を還元できる唯一の点として「外部」=セックスが選らばれたのであり、世の中一般に他の価値もあることなど先刻承知、読み込み済みなのです。
 そのような「諸意味」を内包する生そのものに対する外からの意味付けがセックスなのです。いわば世界の内部にある法則(How)に対する、世界そのものが存在する理由(Why)です。
 少し話しがズレますが、実はこの点から、因果論的世界解釈は暗黙的に「世界の目的」を保存してしまいます。よくある「科学はHowを、宗教はWhyを」という分業です。世界の法則(意味のコード・・)に対する過度の執着は、一見すると法則に殉ずるリアリズムのようですが、逆説的にも(法そのものを制定したものという)「無いものを信じる」甘いニヒリズムを生み出すのです。

 痴呆状態に陥った母親の入院費をまかなうために彼がとった手段とは、レストランで食べ物をのどに詰まらせた(choke)フリをすることです。それを助けた人々は、一生彼を忘れず、何かにつけ彼を助けようとします。不思議なことですが、救われた人間が救った人を忘れることはあっても、救った方の人物は「こいつは俺が命を助けたんだ」とずっと思いを抱き、その後の人生でも援助し続けようとするのです。
 これは単にささやかなヒーロー願望に火をつけた、ということでしょうか。それだけではないでしょう。人は常に「救い」たいのです。つまりある生に対して外部を与えることによって、自らの外部を求めるのです。親の子に対する期待とは、畢竟自らの外部を読み込み、そこに意味を託すことで自らの人生を意味づけ安心する、ということです。
 なんという皮肉でしょうか。人を救おうとして救えなかった主人公は、人に救われることで対価を得るのです。
 逆説的にも、彼はここではじめて本当に人を救えているのです。つまり「一万人を救済するのではなく、一人か二人の人間をそこそこ助ける」ということです。この「そこそこの救い」(つまり唯一の「救い」)とは、「救い救われ」、すなわち生活していくことです。
 しかし彼は依然として「平凡なヒーロー」には落ち着くことができず、この「救われることで救う」をエスカレートさせていきます。

 そんな時、彼は自分がイエス・キリストの生まれ変わりかもしれない、という情報を得ます。
 パラノイア的な母親が妊娠したのは、イタリア某所に残る「イエスの包皮」によるらしい、と聞かされたのです。
 もちろんそんなことを素直に信じるほど愚劣ではないのですが(実際この「情報」はその後変遷を辿るのですが、それは読んでの楽しみに)、どこかで「本当に救済者かもしれない」という気持ちがあります。
 救われることで救うことが、救われすぎて破綻をきたしそうになる一方、「今度こそ決定的に救えるかもしれない」という基底トーンが響きを増していきます。しかしどんなセックスにも終わりがあるように、「決定的な外部」は訪れません。生はホメオスタシス的に閉じており、開くとしたら一度だけなのです。息の詰まりそうな(choke)現実に解放も救済もありません。

 最終的に彼が辿る道は何でしょうか。
 具体的なことをここに書いてしまうわけにはいきませんが、それは「無意味と知りながら、なお続ける」ということです。
 意味の過剰に気おされるのでもなく、虚無に溺れるのでもなく、果てしない物語のなさ、ただただ物語の期待だけがあり一向に外部の訪れない閉塞性から抜け出せないまま、ささやかな「意味に見えるもの」を紡いでいく方法です。
 これは決定的な無意味、どうしようもなくバカバカしい空虚ではありますが、実は人生には他にやることなど何もないのです。


 人はパンのみによって生きられます。
 重要なのは、パンのみによって生きられてしまうこの現実を生き抜けるか、ということです。


(以前にリンクした「意味の意味」は、この問題に深く関係しますが、読みやすくはありません。ただ、このテクストを書かせたわたしの内的衝動は、結局上の問題系につらなる疑問でした)


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