前の記事< ish >次の記事
2005年10月03日

「狂気」という言葉、名前をつけること

はてなブックマークに追加  delicious_s.gif  このエントリをlivedoorクリップに追加

 町田康「告白」についてのエントリの続きです。

 なんだかすっかり話がズレつつありますが、

・心情的「共感」による解釈に逃げないこと(浪花節的・・)
・「狂気」という語で説明しないこと

 このうち、前者についてはそれなりに触れられた、とういことにしておきましょう。
 後者についても、実は前の問題と表裏一体になっています。
 というのは、「狂気」という語は理解しがたいものや受け入れがたい対象に出会ったときに、非常に便利なキーワードだからです。 心理的「共感」が、「似たもの」という連帯感やカタルシスで構造的な美しい真理を覆い隠してしまうのと同様、「狂気」という言葉もまた、問いを封印してしまう方便です。「あのヒトはおかしいから」「病気だから仕方ない」で終わりにされてしまうのです。
 もちろん、世の中には精神疾患というものが実在しますし、脳の器質的変性が人間を常軌を逸した言動に走らせることもあるでしょう。
 しかし、まず第一に「狂気」という語が用いられる時には、往々にして疾患としての認識にすら至っていないこと、第二にそれが「病気」だとしても、依然としてそこで語られようとしている人間存在の性質の普遍性は損なわれていないこと、があります。
 そして一番重要なのは、「そういう人もいるよね」という安い相対主義で流れてしまう危険性です。
 「色々な人がいる」「人それぞれ」といった言い回しは、一見「多様性」を重んじ相手の人間性を尊重しているかのように見えます。しかしこれは、「良い人もいる、悪い人もいる」といった「真実」と同様、妥当ではあっても何一つ意味のあることを表していません。ほとんど自同律同然です。
 「そういう人もいるよね」は、一見理性的で礼節を保ったスタイルをとりながら、何も語らないことで手を汚すのを避け、本来は自らの存在と連続的であるはずの問題系から目をそらしてしまいます。
 「色々な人がいる」。そんなことはわかっています。
 色々な人がいた上で、一緒にやっていくのが難しかったり、どうしても存在を許せなかったり、ただ単に目障りだったりするから問題なのです。人間は透明な存在ではなく、誰でもそれなりな歴史や立場、好悪といったものを背負ってこの世の中に存在しています。そうした「色」があれば、「色々な人」の中にはどうしても共存しがたいと感じられる存在がある方が当たり前です。
 それでも何とかやっていく、場合によっては相手を倒してでも自分が生き残るから人生なのです。
 そこまでわかって、「いや、ただ単に面倒で臭いものには蓋をしておきたいから、方便として『色々な人がいる』と言っているのだ」とまで言明できたら、少なくともその人は一つの立場を選択したのであり、パフォーマティヴィティを持つ何事かを成してはいます。
 しかし多くの場合、「色々な人がいるよね」という人は、そこで自分は何ら価値判断を下していないと信じています。「中立」と言うと聞こえが良いですが、結局彼/彼女は状況から身を引いて高みの見物を決め込んでいるだけなのです。


 「名前なんてどうでもいい」という考え方もありますが、名づけるということは力であり、社会的にどうであれ構造的には非常に重要な問題です(これに一番共感してくれるのはプログラマ様ではないかと思うのですがw)。
 「それは狂気のなせる業である」と言ってしまった途端、問いは一度閉じられてしまいます。それでも尚「では狂気とは何か」と問うことは可能ですが、既に一つの方向付けを与えられてしまって、最初の輝きは失せています。「意味に堕ちた」とでもいう状態です。フランス語ではsensという語に「意味」「方向」という意味がありますが、正に方向付けられ意味付けられることにより、問題は囲い込まれ、最初に持っていたこちらの領野を侵犯し生きる地平そのものをゆるがせていくような圧力を去勢されてしまうのです。

 もちろんわたしたちは、日々名前を付けながら生きています。
 名づけることにより危険なものを囲い込み、身を守っているのです。
 しかしそれは無償で得られた平和ではありません。「手を汚す」ことを徒に称揚するわけではなく、そこで暗黙的に支払った代償とは、他人を傷つけるといった生ぬるいものではなく、わたしがわたしであるために、わたしを殺したということなのです。
 わたしたちは何者かとして言語経済に(流動的に)位置づけられ、社会的にも存在します。しかしそれは、名づけえぬモノであったことを殺し、切り刻み、捨てたということです。

 名前を最初につけたのは神様ですが、わたしたちは神様を裏切り、何度も何度も名前をつけなおして死に至る恐慌から身を守ります。
 人生の最後に神様の誘惑に屈するまで、神様に謝り続けながらホメオスタシスに揺られているのです。

 しかし逆説的にも、罪を犯さず死を選ぶものより、名づけ切り刻みその罪を一身に背負いながら多くの借財をこの世界に残すものこそ、最も輝いています。
 必要なのは、名づけないことではなく、名づけてしまった罪を墓場の底まで持っていく覚悟のように思います。


 またまた激しく話がズレたので、次のエントリではやっと本文についてのことを書きます・・。

とりかえしのつかないこと、「どうしてこんなことになってしまったのか」

告白 町田康 「告白」 町田康

はてなブックマークに追加  delicious_s.gif  このエントリをlivedoorクリップに追加 FC2ブックマーク ニフティクリップ Yahoo!ブックマーク .

カテゴリ:文学・思想 <この記事を気に入って頂けたら、同カテゴリの過去ログを参照してみてください
よろしければクリックしてください>人文blogランキング  ランキングオンライン にほんブログ村ブログランキング


「狂気」という言葉、名前をつけること

« 「告白」 町田康 | ish☆手作りスキンケア・サイボーグ | とりかえしのつかないこと、「どうしてこんなことになってしまったのか」 »

コメント

サイン・インを確認しました、 . さん。コメントしてください。 (サイン・アウト)

(いままで、ここでコメントしたとがないときは、コメントを表示する前にこのウェブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)


情報を登録する?