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2005年10月10日

バイクと身体、バラバラだったわたしの思いで

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 なぜか、わたしの気になるヒトにはバイク好きの方が多いです。

 わたし自身、単車に乗っていた時期がありますから、バイク好きの気持ちがわからないわけではありません。少なくとも、車好きよりは大分親近感があります(ちなみに自動車は好きではありません)。
 あまり余計なものがついていない感じ、「基本的に一人、でもちょっと二人乗りもできる」なポジションが素敵だと思っています。込み入った形のものをチョコチョコいじって少しだけ改良してみたり、といった作業は基本的に好きですし、バイク好きの心理にも通じるように感じます。
 とはいえ、やっぱり内燃機関ものは苦手で、きちんと整備したりできるわけもなく、それほど入れ込んでいたのでもありません。本物のバイク好きの方の脳の中身は、手のとどかないところにあります。

 わたしの場合、この「いじって調整・改良」な志向が身体や言語に向かっているようです。
 武道にしても、一番関心があるのは「こことここ、実は別に動くんだ!」「このタイミングで体重をシフトするとめっちゃ力が出る!」といった身体操作の部分です。本当に新鮮な驚きというのはそうそう出会えるものではありませんが、十年一日のように同じことを繰り返していて、時々はっと発見することがあります(最近あまり稽古できていませんが・・)。
 身体操作だけではなく、身体の入力とその効果や、そもそも身体がある感じ、というのが気になって仕方ありません。身体が連なって心に響いてきますから、一体どこがどうなって「こんなことになってしまったのか」という因果関係とういか、関数の中身のような部分が気になるわけです。

 重要なのは、こうして分解していったところで、ほとんどの場合、完全に明解な答えは得られない、ということです。
 とりあえずの要求を満たす程度の「仕組み」はわかるかもしれませんが、そもそも身体の生理的メカニズムなどというものはアナログで連続的なものであり、それを因果の連鎖に還元しようとしてもできるわけがないのです。
 実はこれはおそらくバイクについても同じことで、バイク自体は身体と違って人間が作り出した機械ですが、彼または彼女が「バイク」として認識しているパワーは純粋な機械ではなく既に言語化された「すごいエネルギー」であって、部品の集合を合計した以上のもののはずです。それをなんとか部品に還元して分析・理解しようとするのですが、この営みは永遠に追いつきません。
 あるコラムで、少年がバイクに惹かれる心理について「容易に大きな力を手にして、身体の延長を得る」といった言及の仕方をしていました。これは少しナイーヴすぎると思うのですが、バイクが身体の延長物であり、バイクいじりをするヒトの衝動が、わたしが身体に向かう時のそれと並行的であるのは外れではないでしょう。

 すると、この営み全体は言語の活動そのもののアナロジーとなっていることがわかります。
 というのも、わたしたちの受け取る世界というのは、何であれ既に言語化されたものであり、その向こうにある「モノ」を常に十分には掬い取れていないからです。
 正確には、その向こうにある「モノ」自体には永遠に手が届きませんし、「モノ」なるものは、言語に対して遡及的に想定される仮構的「実体」にすぎません。また、「受け取る世界も言語的とは限らない、イメージやアナログ的なもので認識しているではないか」と言われるかもしれませんが、そのようなイメージ的なものは言語の「後」で再度生成されたものです。A/D変換をかけて、それからもう一度擬似的なD/Aをしているようなものです。わたしたちは常に、操っているイメージに対して名前を付けることができます。
 この三段階プロセスについてラカンの「現実界・象徴界・想像界」などを援用してもっともらしいことを言うことはできるかもしれませんが、ややこしいことはやめましょう。

 ただ言えるのは、この「既に手が届かなくなってしまった不定形のパワーに追いつこうとする営み」は、どこかノスタルジックな響きがある、ということです。
 これまたラカンの鏡像段階論ではないですが、わたしたちはモノであることから引き離されて、抹消された主体として言語経済に参入します。この過程で主体は従属的な形で統合を得るのですが、鏡像段階論ではこれを「バラバラの肉片が鏡像イメージによって統合される」と語られます。
 乳児は未だ一つの身体としてのまとまりを持ちませんが、それが鏡像の中にあるイメージを「あれがわたし」と先取りすることで統合される、ということです。この鏡像とは、もちろん文字通りの視覚的鏡などではなく、大人たち(人間たち)の語らいの中で「一つのもの」として語られる(受動的・・)ことを示唆しています。またこの「段階」は必ずしも発達心理学的な意味での歴史的位置を持つわけではなく、わたしたちの存在の構造そのものを指し示しています。

 統合を獲得して「人間」になってくれないと困るのですが、「人間」になるということは(なんだかわからない)「わたし」として経済における貨幣のように言語経済の大海を永遠に漂流する流木となることです。ですから、常に「変わらないモノ」であった「かつてわたしであったモノ」に対する郷愁のような力動が人間活動には働いています。
 大分遠回りしましたが、バイクや身体に向かうとき、そこには「この向こうにあのすごいパワーがあったはずなのに・・」という想いがあるような気がしてなりません。
 だからといってモノに戻ろうなどというわけではなく、これはちゃんと「人間」になるための通過儀礼であり、また練習や確認作業でもあるのです。こうしたことをほとんど必要とせず、すっきりと「人間」になれる人もいるのですが、その辺りが今ひとつ優秀でなかった人々は、何度も何度も分解して確かめながら、ゆっくりとオトナになっていくのではないでしょうか。

 まぁ、わたしなどがそういうガキンチョの典型ですね・・(笑)。


精神分析の四基本概念 「精神分析の四基本概念」 ジャック・ラカン(ジャック=アラン・ミレール編纂)
ラカンに関心を持たれた方は、このセミネールの十一巻が圧倒的に入りやすいです。全体を眺めていくと偏っているところはありますが、少なくとも最初に「エクリ」に取り組んで発狂するよりマシです(笑)。
訳もとてもわかりやすいと思います。ちなみに「エクリ」は原文を傍らに読まないと厳しいです(訳が悪いのではなく、現在と訳語のスタンダードが異なる)。

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