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2005年11月23日

「身体で覚える」というよりはむしろ「身体が覚える」

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 ものごとの習得に関して、「身体で覚える」という言い回しがあります。座学ではなく実践の中で学習していく方法のことです。
 時に、このような学習方法や訓練の仕方について、「身体で覚える」というよりはむしろ「身体が覚える」と言いたくなることがあります。

 「何が違うの?」というかもしれませんが、要するに主体のありかがどこにあるか、ということです。
 もちろん「身体が覚える」という言い回しも珍しいものではありません。昔やったスポーツを「身体が覚えている」ということもありますし、オヤジエロ的文脈で「身体が覚えてるからのぅ」みたいなのも一緒でしょう(すいません・・)。
 日本語表現としての両者の違いについて触れたいわけではなく、「身体が覚える」「身体が覚えている」というのは少し奇妙な感じがします。
 「忘れたとばかり思っていたけれど、身体は覚えているんだよねぇ」というなら、「わたし」は忘れているけれど、「身体」は忘れていない、ということになります。
 すると「身体」は「わたしの身体」ではあるものの、「わたし」とイコールではないわけです。
 もちろん、「身体」が「わたし」と不可分であって、「身体」あっての「わたし」だということには誰も異論がないでしょう。
 「わたしの身体」というくらいですから「身体」は「わたし」にとって従の関係にあるはずです。ただ、「身体」は「わたし」に先立っています。また、「わたし」が思いも寄らぬところで「身体」が覚えているくらいですから、従とはいっても完全なマスター・スレイヴな関係にはないようです。「わたし」は眠ったり気絶したりしますが、「身体」はその間も消滅していません(と「わたし」は信じています)。そして「わたし」が(目覚めて)戻ってくるのはいつも同じ「身体」です。
 これはなかなか不思議な間柄です。「わたし」は「身体」より後から来て、しかも「身体」のすべてを掌握しているわけでもなく、「身体」次第で「わたし」そのものすら消滅してしまうかもしれないのに、「わたし」が主であると信じているのです。
 「頭も身のうちだから身体を大切にね」などということが言いたいのではありません(もちろん身体は大切ですけれどw)。
 この関係のロジック自体に、「わたし」というもののそもそものあり様、位置づけがよく表れていることを指摘したいのです。

 「わたし」は「責任者」に似ています。
 「責任者」は「母体」「組織」に後からやってきます。「責任者」ですから「組織」のやったことには責任を持たないといけませんが、「組織」のすべてを掌握し切れるわけではありません。物理的な限界もありますし、もとより「責任者」とは正に責任を取ること自体のために成立するものです。その責任は、取れる保障があるから責任者に任せられるわけではなく、とにかく責任が派生して、それを取る人が必要だから責任者という存在が召喚されるのです。
 「社長は会社より先にいるじゃないか」と言われるかもしれません。しかし、「創立者」としての社長と、創立させられた「会社」にとっての「責任者」という彼は論理的には別の存在です。二つの時点のロジック上の時間差があります。
 ただこの指摘にはなかなか鋭いところがあって、「創立者」と「責任者」が論理的には別物のはずなのに、実体としては連続して見える、というところが「わたし」「責任」と見事にパラレルになっています。

 「わたし」が「身体」の主であるらしい、ということは「わたし」が「身体」を制御している、という幻想に支えられているのですが、本当の主としての「わたし」は既に失われた「わたし」であって、責任を取らされる「わたし」とは別物です。それは創造者のような「わたし」、責任者としての「わたし」を絶対的に根拠付ける「わたし」なのですが、そちらの「わたし」は「身体」の誕生と同時に消滅しています。いわば「伝説のわたし」、綿々と受け継がれてきたものの果てがわたしなのだ、ということを証明する「わたし」、「父なるわたし」です。
 この「父なるわたし」という(おそらく初めからありはしなかった)存在が信じられるからこそ、「わたし」は「身体」の責任というまるで謂れのない代物を引き受けることができるのです。「わたし」は「身体」に後からやってきただけで、「身体」のことはさっぱりわかりません。それでも「身体」の主が「わたし」であり、責任者が「わたし」であると言えるのは、赴任を命じた権力が信じられているからです。
 子会社にやってきた現場を知らない「責任者」でも一応「責任者」として通るのは、赴任を命じたものがいるからです。現場は面白くなく反発もします。それでも表立って文句を言わず、また何より責任者が責任者としての任を果たそうとするのは、責任者が個人にあって個人でなく、より大いなる(失われた)父なる責任者の命を受けている(と信じられている)からです。

 逆に言えば、「父なる責任者」が弱くなってしまったとき、「身体」と「わたし」の関係はうまくいかなくなります。現場は言うことを聞かず、「責任者」も右往左往するばかり。これは「どうしてこんなことになってしまったのだろう」というパニックと絶望です。自分でもさっぱりわからないものの主となり、責任を取らなければならないことに対する当惑です。
 こんなとき、「わたし」は自分の責任をどう扱ったらよいのでしょう。
 一つはもう一度「父なる責任者」を呼び出すことです。自分は「父なる責任者」の厳しい選抜を潜り抜けたのだ、選ばれてここに赴任してきたのだ、ということを確認するのです。試練を越え、自信を取り戻すのです(スフィンクスの謎を解くオイディプス)。
 しかしもう一つ方法があります。それは権威のことはもうあまり期待せず、「身体」の方に向いてしまう方法です。現場と向き合うのです。
 とはいえ、権威を全否定するわけでは決してありません。ここでの目標は新たな権威の創造であり、言わば自分がもう一度「父なる責任者」となることなのです。
 これを達成するには、主体は失神を体験しなければなりません。つまり、「掌握」が幻想に過ぎないことを一度認め、「すまん、わからない、現場に任せる」として、リセットをかけるのです。そしてもう一度「父なる責任者」の場所からフロアに入りなおすのです。「わたし」は一度自分自身の父となり、再び死に、ただの「わたし」(子なるわたし、弱いわたし)として復活します(パスワードを忘れたときのルータのリブートみたいですねw)。

 学習における「身体が覚える」はこれに似ています。
 「身体が覚える」でも結構なのですが、「覚えさせる」とうい自分もおぼつかなることがあります。
 そういうときは、もういっそ「身体」に丸投げしてしまうのも一手です。現場を信じ、「わたし」は一度撤退し、もう一度門から入りなおすのです。

 それくらいなら、いっそ現場だけで世の中成り立つようにも見えます。権威なんていらない、というわけです。
 しかし実際には、お飾りでも何でも「責任者」がいてくれた方がまとまるというものです。「責任者」の強度はバランスであって、強すぎても弱すぎても問題でしょう。重要なのは、彼が本当に現場をわかっているかどうかではなく、とにかく「責任」を取れて、彼が「責任」を取ることに現場が同意していることです。

 そんなわけで、「わたし」たちはこの世界に呼び出されました。
 何のために? もちろん、責任を取るために。
 何をどうやっているのかさっぱりわからず、興味すらわかない技術バカどもの尻拭いをすべく、父の命を受けて。

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