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2006年05月27日

『ユダヤ人大富豪の教え』

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 驚きですね。
 わたしがこんな本を買う日がやってくるなんて。
ユダヤ人大富豪の教え 幸せな金持ちになる17の秘訣ユダヤ人大富豪の教え 幸せな金持ちになる17の秘訣
 以前だったら、電車の中で読んでいる人間を見かけただけで、つけていって夜道で襲撃するくらいのこともやりかねない勢いで不快だったんですけれど。
 今でも基本的に気分が悪いのですが、一つには若い友人が勧めていたこと、今ひとつには不愉快なものこそ敢えて距離をとりながら覗いてみよう、というくらいのオトナ心が芽生えてきたこと、そんな理由で試しに読んでみました。
 「成功本」初体験。

 正直、この著者や読者たちの考える「成功」について、ほんのちょっとでも興味を持ったのがこの一二年程度で、若い頃はそもそも発想の引き出しの中にもない、というかこんなことにネタ以外で関心を持つ人間がこの世に実在することすら信じていませんでした。
 今でも、原則としてかなりバカにしています。
 ただまぁ、それを否定して他になにか信じるものがあるのかというともちろん何もないですし、そんな「成功」がうまくキマって飛べているまま一生を終えられるなら、それも悪くない人生だと思います。
 実際、普通に労働していると、これくらいのノリの方が気持ちが休まることもあります。
 この手の書籍をまったくバカにしないという人も理解できませんが、一方でバカにする気持ちを疑わないでいられる人にはより一層の懐疑と侮蔑を感じます。そういう人々は大抵、特権的な安全圏からしかものを考えていないのです。statementとしては真っ当であっても、状況に参加していないものの言葉はperformativeであり得ず、リアリティを持ちません。要するに小賢しいだけだということです。
 そういう意味では、(内容はともかく)これを読む人、読まないでいれない人の「歩き出してしまっている感じ」があるだけ、少しはマシな気もします。

 この手の書籍が(書籍自体として)値打ちのない理由を一つ指摘するなら、結果しか書いていないということです。
 「教え」を下さるのは結構ですし、別段一つ一つの「指針」に対し異を唱えようというのではありません。それどころか、素直にうなずける部分も沢山あります。
 ただ是か非かについては結局は個々人の価値観次第ですから、大して重要な問題ではありません。
 問題なのは、過程が記述されていないことです。ある「教え」がどのような定理から導かれるのか、式を書いてくれとまでは言いませんが、思考のプロセスがどのように辿られたのかちっとも見えてこないのです。
 「いや、書いてある、経験から導かれた重みのある教えではないか」と言われるかもしれません。しかしそれはただの一個人の体験です。ここでプロセスと言っているのは、個人の体験と教えを結びつける思考の流れであって、検証事例のことではありません。
 そもそも、人間というのは何かが一度うまくいくと、その時の方法に執着し、過剰に評価してしまうものです。カンナで殴ってケンカに勝った男が、別のケンカでもわざわざ走って行ってカンナを取ってきた、という話を聞いたことがありますが、この人が「カンナ格闘術」を教え始めたとしても、きっとその道場はあまり流行らないと思います(笑)。
 「教え」だけでは「正しいと思う」「わたしの経験とは違う」「なんか嫌い」等の「感想」を言い合うしかリアクションのしようがありません。そういう性質の書籍に何ら価値がないとは言いませんが、少なくともわたしはあまりドキドキできないです。

 と言いつつ、一応具体的な「感想」を一点だけメモしておきます。「三種類の味方」という下りについてです。
 「味方には三種類いる」とあります。
 一つは肯定的に応援してくれる人、今ひとつは批判を加えてくれることで切磋してくれる「味方」。この二つは良いでしょう。
 最後にもう一つ、「何も声をかけてくれるわけではないけれど、陰ながら応援してくれている人たち」。これにはちょっとハッとさせられました。
 「陰ながら」な人をポジティヴにとらえる、というのはかなり決定的な問題です。

 正直、「陰ながら」が苦手です。
 少しでも広義の「表現」に携わったことのある人ならご理解頂けると思いますが、作る人間というのは、受け取るとされる人やお客さんに対して、二律背反的な複雑な想いを抱いているものではないかと思います。
 当然、どういう形であれ受け取ってもらえて嬉しい、というのはあるのですが、黙って覗かれている感じに対する不安・不快感、さらに誤読・曲解に対する恐れがあります。「表現」は常に誤読・曲解されるからこそ流通するもので、むしろそこにこそ「表現」の命があるのですが、一人のか弱い人間としては、離れていく我が子を寂しく眺める面もあるわけです。
 例えばこういうサイトといったささやかなものでも、運営していて古い知人などに見られている可能性があります。そこで黙っていられてしまうのは寂しいというだけでなく、一方的に知られてしまっていることに焦りや気味の悪さもあります。
 もちろん、「見てもらう」ためのサイトですから「見世物じゃないよっ」と意味不明なことを言うわけではありません(笑)。また「お便り」や「感想」が欲しいわけではまったくありません。むしろ「感想」ほどバカバカしいものはないと思っていますし、特にweb上でのコメントのやり取りなど、ほとんどのケースでは百害あって一利なしだと信じています(註)。
 じゃぁどうしたいねん!とツッコまれそうですが、そこがスッキリいかないから容易ではないのです。

 「三種類の味方」では、忘れがちな大切な味方として、この「陰ながら」を数えています。
 これは簡単なようで、実はものすごいことです。
 単に信じる心を強く持つ必要がある、というだけではなく、論理的なジャンプがあります。
 擁護者や批判者であれば、そこには何であれ意見の表明があり、これを何らかの形で糧にするという意味で、肯定的に捉えることは可能です。価値判断とはそういうものです。
 しかし「陰ながら」はそもそも何を考えているのかわかりません。それどころか、存在するのかどうかすらはっきりしません。
 そんないるのかいないのかもわからない対象から向けられてくる「想い」を肯定するというのは、一切の情報ナシで知らない会社の株を買うようなもので、普通の神経でできることではありません。
 「でも信じた方が総じて得だから」というパスカル式は受け入れがたいです。「陰ながら」の肯定とはそういうことではなく、むしろ判断できなさに対しバンザイしてしまうことです。「迷惑かけてありがとう」で触れた「自己破産」です。
 弁済を諦めると言ってしまうと聞こえが悪いですが、わたしたちはそもそも返せる見込みのない借金を背負うことから生を営み始めるのです。これをどうにか理屈付けようともがきながら生きるわけですが、最後の最後のところには力なく「ありがとう」と言うより他にない閾があります。

 とはいえ、それが簡単にできるくらいなら苦労しないわけですけれどね・・。


註:なんかものすごい拒否なことを書いてしまったので後悔して書き足すと、直接の知人等を除くと、何ら共通のディスクールの想定もない断片的な「コメント」のやり取りだけでは批評として機能せず、誤解ばかりが膨らむ危険があり、とてもリスクを引き受けきれない、ということです。
もちろん「良い」感想をもらえれば素直に嬉しいです。単純な人間ですから。
ただそれはそれだけのことで、「悪い」感想にはやっぱり凹みますし、いずれにせよ生産性があるようには思えません。
せめて一度顔を合わせてからweb上でのやり取りを始めるなら、大分状況が違うと思いますけれどね。

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