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2006年05月29日

『ジャパニメーションはなぜ敗れるか』

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「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか 大塚英志「ジャパニメーション」はなぜ敗れるか 大塚英志

 うまいですよね、まずタイトルが。
 最近この手のタイトルが多くなってちょっと鬱陶しいのですが、「ジャパニメーションはなぜ敗れるか」は頭一つ抜けています。「え、というか敗れるの?」というツカミだけでも秀逸ですが、「議論の大前提を味方につけたものが勝つ」(ルールを決められる人間が一番強い)というケンカの法則をよくわきまえています(笑)。
 しかも筆者の関心は狭い意味での「ジャパニメーションの勝敗」になどなく、国策としての「ジャパニメーション振興」など論外と切り捨て(これはこれできちんと論証しています)、歴史性への無知によるナイーヴなナショナリズムとは一線を画しながらなお非ハリウッド的なものを語るにはどうすれば良いのか、というところに向かっています。とはいえ、それを考えるにはまず「ジャパニメーション」や日本のコミック・カルチャがいかにハリウッド帝国主義の釈迦の掌にいるのかをよく認識する必要があり、本書の中心課題もそこにあります。
 一見すると岡田斗司夫を筆頭とするオタク文化論系の書籍に見えますが、論の性質としてはほとんど正反対です。

 ここでは本書中盤で取り上げられている村上隆「リトルボーイ」展と「かわいい」概念について少しだけメモしておきます。

 「リトルボーイ」展とは、現代美術アーティスト村上隆がNYで行ったカタログ展ですが、この展示についての以下のような村上の発言が朝日新聞から引用されているので、さらに孫引きします。

 まずこの展示会のタイトル「リトルボーイ」は二つの意味を持つ。一つは広島に投下された原子爆弾のコードネーム。もう一つは子供のままの精神年齢国家日本を象徴する名前として、このプロジェクトの趣旨の中心を貫く。
 原爆の影響による心のトラウマと、アメリカが真に行いたかったであろう、戦闘意欲喪失のプログラムが施行され、子供的なる脱力社会が完成した。ネガティヴな未来しか謳われないこの状況の中に、実は芸術の真髄が育まれているのではないか。

 要するに、

原爆投下(によって象徴されるアメリカ支配)>去勢>でもそのお陰で「かわいい」やおたく文化が育って良かったじゃん!

 といった論旨です。
 わたしは原爆投下自体にとりたてて神経質になるつもりはありませんし、なんであれアメリカ支配を冷笑的ながらも無理やりポジティヴに持っていっていることは、とりあえず笑えて面白いとは思います。ただ、大塚氏と違って結構ナショナリストなので、そんな素晴らしい原爆なら、アメリカにも是非落とし返してあげよう!とは思いますが。
 ただ氏の指摘する通り、この発言は明白に戦後以降の歴史性にしか目を向けておらず、かなり稚拙というか、それこそ「かわいい」ですね。

 そう、この「かわいい」がすごく気になります。
 以前「かわいいという言葉は自分より弱い相手にしか使わない」と言ったところ、相手の男性に全否定されてしまったことがあります。わたしは別段、彼の考える「かわいい」(や「萌え」?)の価値が理解できないわけではありません。「かわいい」自体が抗いがたく強力な魅力である、という認識なのはよくわかっています。
 さらに言えば、「かわいさ」が武器として活用されていることも認識していますし、また「かわいい」と言われて素朴に感じる嬉しさが無いわけではまったくありません。
 それをおいてなお、「かわいい」は弱い相手にしか使わない言葉です。
 「かわいい」の強さは、か弱さ自体を武器へと作り変えるロジックにあります。
 比較的最近、日本語の堪能なドイツ人男性と「かわいい」について話す機会があったのですが、彼はこの概念がしっくりこないようで、「子供にしか使わない」と言っていました。彼の日本語理解がどれほどのものなのかを調べる術はありませんが、少なくとも「文脈上子供にしか適用しがたいように感じられる概念があるが、実際は大人にも使われている」と彼が感じていることだけは確かでしょう。
 こんな切れ端のような体験を根拠にすることはできませんが、わたしたちが日常使う「かわいい」は、明らかに「綺麗」や「美しい」とは異なるもので、未成熟なものを愛でる意味があります。それだけであれば特殊日本的とは言えないわけですが、未成熟であってはちょっと困るものにまで「かわいい」を称揚する価値観が拡大しているところは、やはり独特でしょう。
 そして「リトルボーイ」の思想は、原爆投下に象徴されるアメリカによる去勢にその端緒を求め、なおかつこれを肯定的に読み直そうとしているわけです。
 わたしが「自分より弱い相手にしか使わない」と言うことで指摘したかったのもこの歴史性(堆積性?)だったのですが、当の歴史によって涵養された文化の内側にいる人々の多くには、かえって届かないものなのかもしれません(「貨幣それ自体の価値」を直感的に感じないではいられないように!)。

 確かに「かわいい」には撹乱的機能があります。
 以前にpro-sexなフェミニズム運動に携わっている方が、家父長制的「強さ」の序列を脱臼させる装置として「かわいい」を使おうとしているのを目にしたことがありますが、戦術的には一定の効果があると思います。
 しかしまず第一に、それでもなお、「かわいい」の原点には弱さへの参照があることを忘れてはなりません。それがなければ「弱さ」を「強さ」に転換することもできません。弱く支配可能であるから、「かわいい」は好ましいのです。小さな子猫だから「かわいい」のであって、トラなら「かわいい」どころではありません。
 これは「強い-弱い」という単線的な価値基準にすべてを還元してしまおう、というわけではまったくなく、「かわいい」はこの数直線を一度経なければ成り立たない、と言っているだけです。
 「かわいい」がポジティヴな意味を持つとしてもそれは二重否定的で、否定のロジック自体は常に観察者が握っています。最終的に是と取るか非と取るかではなく、是とか非とか言うために使われる尺度(ルール)の時点で先取しているにも関わらず、そのことにまったく無自覚であることが問題なのです。
 加えて言えば、女子的体勢全般について、「対象として評価して欲しい」という心理と、「ただの対象になってしまったら主体としてのわたしはどうなるの?」という二律背反があります。少なくとも女子にとっての「かわいい」はこの矛盾を暗黙的に前提としているはずですが(言語化できる人は極めて希少ですが)、例えば上で村上が称揚している「子供的カルチャ」の主体は、この二律背反には目もくれていません。要するにどこまでも「男の子」の遊びだということです。

 そこまで全部計算づくで、自覚的・暴力的に「かわいい」を使うならまだ面白い、というかそういう「かわいい」なら受けて立とう、とワクワクしてくるのですが(笑)、「かわいい」という人の99%はその人の方が余程「かわいい」ので、なんだかちっとも楽しい気分になれないんですよね。

 と、例によってレビューにならないまま終了。


追記:
 「ハリウッド・キャラクターの身体性の無さ」が本書の重要な要素の一つとなっていますが、この問題系は『押井守』KAWADE夢ムック(河出書房新社)にわたしが寄稿したテクストと通底します。これについて書き始めると長いので、またの機会に。
 ちなみに筆者が指摘している手塚の習作『勝利の日まで』で血が流れるコマは、確かにものすごい衝撃です。これは是非本書を手にとって確かめてみてください。

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