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2006年06月04日

『私・今・そして神 -開闢の哲学』永井均

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 久しぶりに永井均さんの本を読みました。

『私・今・そして神 -開闢の哲学』永井均『私・今・そして神 -開闢の哲学』永井均

 平均的日本国民の一万倍くらいの頻度で「神」という単語をみだりに口にする不信心者としては、大変ありがたいタイトルです。こういう「神」は極めて当たり前でしっくりくる使い方なのですが、全然人に通じなくて苦労します。
 また時間についての言及が始まったあたりで「そういえば永井さんだったらマクタガードをどう読むのだろう?」と思っていたらずばりマクタガードの話をしてくれていたり、新宮一成先生への言及があったり、個人的にとてもオイシイお買い物でした。
 思えば『<私>のメタフィジックス』でも精神分析に触れていた永井先生。この問題意識の流れは少なくともわたしには非常に自然なのですが、他に似たテクストを紡ぐ論者が見当たらないことを考えると、やはりマイナーな発想なのかもしれません。アカデミズム内的に適切な場が見当たらないことは別として、書籍としても数が少ないということは、そもそも需要があまりないと言えます。不思議でなりません。
 そしてこの不思議な地球の、しかも大学という場でサバイバルしてきた永井均さんという人物が、本当に気になります。

 永井先生ご自身がたびたび繰り返していますが、このような論の立て方、アプローチの仕方というのは、少なくとも大学の哲学科という場所ではまったく一般的ではありません。もしかすると『<子ども>のための哲学』などを読んで希望に燃えて哲学科などに進学してしまう青年がいるかもしれませんが、100パーセント間違いなく、失望のどん底に沈められることでしょう。わたしも似たようなグルグル疑問をだっこしてうっかり哲学科に行ってしまった一人ですが、本当に失敗しました
 だからといって、アカデミズム的な哲学研究がダメだと言っているわけではありません。ただ永井さんの言う<哲学>と「○○大学文学部哲学科」の「哲学」は、少なくとも表面上は別物です。そして重要なのは、二つの「哲学」があるように見えて、しかもアカデミズム的ではない方の<哲学>こそが真正なようで、さらに実際それがなければ哲学も何もないにも関わらず、二つの哲学は明白にリンクしている、ということです。ちょうど<わたし>(単独的わたし)が「わたし」(個別的わたし)に誤読されることによってのみ流通するように!
 それゆえ、永井均の偉大さは、その<哲学>の平易さと徹底ぶりよりはむしろ、これだけ<哲学>ができる(ついやってしまう)にも関わらず、大学で「哲学」をやり続けた、一社会人としての強さにあるように思います。。ご本人も「みだりに口にしないようにした」という問題系を内に抱えて、それでもアカデミズムを離脱せず、最終的に両者を接合する語らいを作り出し、それを給与や印税といった形で換金するにまで到達した裏には、類まれなる忍耐と努力があったのではないかと思います。
 これは全然皮肉などではありません。
 確か永井さんご自身が「自分の欠点を職業にしてしまうのが一番幸せ」といったことをどこかで書いていた記憶があるのですが(違ったらすいません)、基本的にこういう「哲学」をグルグル考えてしまうのは社会的にはむしろマイナスです。つまり普通の社会人にとっては欠点でしかありません。大学というものには、そういう困った人を扶養するシステムとしての役割があるわけですが、さすがの大学もただグルグルしているだけの人を養ってはくれないでしょう。そこで見たところ<哲学>とはさっぱり関係ないようにしか見えない「哲学」について、辛抱強く付き合い続け、キチンと接合したところが抜きん出いているのです(言うまでもなく、アカデミズム内的なお勉強だけできる方は沢山いらっしゃいますが、ほとんどの人はただの気の利かない人なので論外)。
 例えば、おそらく最初にカントを読んだとき、永井さんはちっとも面白いと感じなかったと思います。ご本人に聞いたわけではないのでわかりませんが、カントのテクストに「アホちゃう?」とツッコまないでいられない永井さんではない、と勝手に想像しています。で、そこで投げてしまってはそれまでなのですが(ちなみにわたしは大学一年生の時投げましたw)、永井さんは辛抱強く接点を探したんでしょうね。いや、もしかすると一度くらい投げたのかもしれませんが、しばらくすると床に転がった『純粋理性批判』を拾ってまた取り組むだけの根性と大人心があったのでしょう。

 この本は一般向けの新書ですが、正直最後のあたりはロジックについていけなくなりました。
 かつてであれば非常な焦りを感じていたのですが、最近は割りとどうでもいいです。むしろほんにゃら楽な気持ちでエンジョイできました。ほとんどの日本国民と同様、わからなくて職業上不利をこうむることもないですし、わからないことに適応してしまった方が、一社会人としては優秀だからです。
 哲学を水泳にたとえていたのも確か永井さんだと思うのですが、泳げない人が必死でもがくのが哲学であって、悠々と水泳するのは「思想」であっても哲学ではありません。
 もっと言ってしまえば、泳げないなら海になど行かなければ良いのです。


 思い出した関連書籍をメモ。
 マクタガードに最初に触れたのは、中村秀吉さんの『時間のパラドックス』でした。
 「時間」という問題系がグルグルしだしたのは高校の始めくらいのことでしたが、とりあえず手に取ったのがこれ。で、非常にがっかりしました。わたしの気になっていた「時間」とは全然関係のないことしか書いていなかったからです。
 「じゃぁ薦めないでよ!」と言われるかもしれませんが、第一にこの論がしっくりくる形で「時間」を気にされている方もいるかもしれませんし、第二に仮に違ったとしても、うまく既存のディスクールに乗せて問題系を展開できるなら、とことん活用すべきと思うからです。加えて、「少なくともコレではない」という確証なら得られるかもしれません。

 永井さんは、
『時間は実在するか』入不二基義『時間は実在するか』入不二基義
 を薦められていますが、読んでいないのでなんとも。

 マクタガードの論の立て方がさっぱり納得いかない、「わたしの気にしている『時間』はそんなのと全然関係ないよ!」という方は、
『時間を哲学する時間』中島義道『時間を哲学する時間』中島義道
 を試してみるも吉。時制という視点は非常に重要です。ただ、この視点を獲得した後、狭い意味での(言語学的な)文法に還元してしまっては元も子もないです(自然主義的還元?)。
 大切なのは、時制というシステムの成立する<この言語>こそが世界の地平である限りでの時制です。諸言語の中の一つとしてのある言語、という見方の中で時制に時間の問題をリンクさせても、気休めにもなりません。

 永井-新宮-精神分析というコアなラインで興味を持つ方なら、気合を入れて『エクリ』収録の「論理的時間と予期される確実性の断言」を読んでみるのも良いと思います。たぶんあなたの問題系はここに集約されています。

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