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2006年06月29日

『斜めから見る』スラヴォイ・ジジェク

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 ちょっと自分で驚いたのですが、よく考えると『斜めから見る』を読んでいませんでした。

斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ スラヴォイ ジジェク『斜めから見る 大衆文化を通してラカン理論へ』スラヴォイ・ジジェク

 やめようやめようと思いつつ、またジジェクなど読んでしまうダメなわたし・・。
 でもジジェクはエンタテイメントとして非常に優秀なのでOKとしましょう。一冊読んだら全部一緒なのですが、それこそ良き娯楽の証です。一見新しいものに挑んでいるようで、結局は我田引水、常に自分の場所で勝負してかつキチンと読者を引き付けられるヒトが良いもの書きでなくてなんでしょう。
 わたしたちは(口でそう言ったとしても)本当に「新しいもの」など望んでいません。結果のわかっているものこそ「でも、本当に本当にそうなるの?」という払いがたい魅惑を放つのです。時系列的に最も「最近」の場面から始まり、遡及的な語らいが展開されるタイプの映画のように・・と、既にジジェクの論(笑)。

 「ラカンへの良き導入」「否、世俗化にすぎない」などというしょうもない議論は大学一年生に任せて、気になったことを少しだけメモしておきます。

 われわれの象徴的現実を支える役割を果たす<現実界>は、作られたproducedように見えてはいけないのであって、発見されたfoundように見えなければいけないということである。(p69)

対象がリビドー空間の中に自分の場所を見出すためには、その恣意的性格は隠されたままでなければならない。(・・・)「対象は恣意的なのだから、私は自分の良く同の対象として、好きなものを何でも選ぶことができる」とは言えない。対象は発見されたように見えなければならない。(p70)

 基本的ですが重要な点です。
 本文中ではレンデルの小説が引かれ、(例によって)わかりやすく説明してくれているのですが、要するに「王様はタダのヒトだが、王様だから王様」とは言えない、ということです。
 王が王であるのは、端的に王だからであって、王のいかなる属性にも還元できるわけがないのですが、当事者がそう思ってしまっていたらやはり王は王であることができません。王が「実際のところ」ただの「作り物」であったとしても、臣民には王の王たる根拠がもっともらしく語られ、かつ信じられている必要があります。つまり「発見された」自然として、<現実界>のかけらとして。

 一方、わたしはたびたび「王様はタダのヒトだけど、それを知ってなお王様を王様として扱おうよ!」という内容のことを言っています。根本敬の「でもやるんだよ」ではないですが、ファンタジーをファンタジーと知ってなおそれを手放さない態度こそ、最も勇敢だと考えるからです。
 しかしこれは「かけら」を拾って「別に何でも良かった」と看破してしまう姿勢であり、上のジジェクの論によれば不可能ということになってしまいます。やはりファンタジーの周りを巡るためにはファンタジーを信じていなければならず、「でもやるんだよ」などという斜に構えた態度はあり得ないのでしょうか。

 いくつかの回答があります。
 一つは、「でもやるんだよ」な精神自体が、既に一つのファンタジーだということです。
 少なくともわたしは既にこのファンタジーに取り込まれており、その限りにおいて、やはり「王はタダのヒト」と言う他ありません。つまりファンタジーの相対論で、自分のファンタジーを防衛するために、他の(大多数の人の支持する)ファンタジーを攻撃している、ということです(布教)。
 しかしこれだけではやはり片手落ちです。なぜなら、ここでまたわたしは自分の信念を「ファンタジー」と断じてしまっているからです。これでは無限背信に陥っているだけです。
 だから、むしろ「でもやるんだよ」と言うこと、「王はタダのヒト」と看破してしまうこと自体が、実は「王は特別なヒトだから王なんだ」というファンタジーの一部と考えるべきでしょう。巨大なファンタジーを支えるには、常に無力なツッコミが必要です。万年野党は万年野党であることが重要なのであり、村上首相などが出てきてしまうと、どうして良いやらわからなくなってしまうのです(異論は沢山あるでしょうが、ここは「政治」の話ではないので無視)。
 それでもなお、残りがあります。
 「万年野党は万年野党だからイイ」と言ってしまっては、これまた「野党」の意義がなくなってしまうからです。少なくとも建前だけは政権を取る意欲を見せないとマズイですし、依然として「王はタダのヒト」と言うことは「万年野党」を最初から標榜するあり得ない政党になってしまいます。

 だから答えは、「でもやるんだよ」な態度は可能だ、ということです。
 「それは不可能と言ったばかりじゃないか!」とツッコまれるでしょうが、気取った言い方をするなら、不可能性の可能性としてそれはファンタジーに内属しているのです。
 これを端的に表しているのがラスコーリニコフの悪夢です。
 『罪と罰』の最後で、ラスコーリニコフは夢を見ます。
 世界中の人々がある病に冒され、誰も人を信じられなくなります。皆が疑心暗鬼に陥り、凄惨な殺し合いが始まります。これに抗おうと団結し立ち上がろうとした人々も、たちまち自分たちが何のために集まったのかわからなくなり、足の引っ張り合いをして自滅していきます。
 そんな中、「限られた人々」だけがこの病を逃れ、その道を歩みます。「しかしその人々を見たものも聞いたものも一人もいなかった」。ラスコーリニコフの悪夢はここで終わり、『罪と罰』を締めくくります。
 「限られた人々」のことは確かにここで語られ、実在のものとして記述されています。つまり少なくともそう語る者が存在した、ということです。
 にもかかわらず「見たものも聞いたものも一人もいなかった」というのは、明らかな矛盾です。「それならアンタはどうしてそれを知っているんよっ」と誰でもツッコミたくなるでしょう。
 しかしこれは民話や小説などではありふれた表現であり、別段新奇なことでも何でもありません。日常的な論理で考えると破綻しているのですが、敢えてこう指摘しなければ疑問を抱かれることもありません。常に一人、抜け出る者、どこかで語っている誰かがいます
 これが奇跡の場所であり、ある不可能性が不可能と唾棄されずに留保される「あり得ない」空間です。

 確かストルガツキーがこんなことを言っています。
「大きい声で『わたしは知っている』という人は沢山いる。だが詩人は『わたしは知らない』と言う。小さな消え入りそうな声で」。
 「王はタダの人」と思ったのなら、やはりそれを口にすることができます。
 しかし大きい声ではいけません。声を張り上げた途端、ただの「万年野党」になってしまいます。
 できるのは小さな声でつぶやくことです。
 誰にも記憶されない、「見たものも聞いたものもいなかった」者として。


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