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2006年07月21日

『誇りを持って戦争から逃げろ! 』 中山 治

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誇りを持って戦争から逃げろ!  中山 治『誇りを持って戦争から逃げろ! 』 中山 治

 「普通の国」を拒み、憲法九条改正に反対。武装中立を理想とするが、それが果たせないなら、庶民には国家に逆らって逃げて逃げて逃げまくることを勧める。
 と書くと、どこかのナイーヴな左翼のようですが、著者は元々右翼青年として政治生活を出発し、今は「脱政治イデオロギー」を標榜している方です。
 上の主張だけで「ナンセンス」と思う方はいらっしゃるでしょうし、実際、文体的にはかなり荒っぽいというか、政治的なスマートさに欠けています。「元右翼」というのもうなずけるような唾の飛んできそうな口調には、正直わたしもあまり良い気分になりませんでした。
 議論のディテールについても洗練されているとは言えず、気持ちばかりが先走って論拠の薄弱な感が否めません。まるで受け付けないという人も少なくないでしょうし、世間の大勢が「普通の国」志向を隠しもしなくなっている状況では、「説得力」としてどれほどの力を有しているのかは微妙なものがあります。
 ですが、主張の核となる部分には相応の含蓄があり、うなずけるところが大きいです。

 「普通の国」は必然的に防衛線の拡大と先制攻撃能力の保持を目指します。防衛ラインは少しでも領土・領海から離れている方が「安全」だからです。現時点でも領土問題等には微妙なところがあるのに、九条の足枷が外れてしまえば、より一層の緊張が生まれるのは間違いないでしょう。
 確かに憲法九条にはおかしなところがあると思います。少なくともわたしには矛盾をはらんで見えます。
 ですが、そのヘンテコな九条のお陰で、随分色々と言い訳がきいたのも事実です。アメリカはさぞかし後悔しているでしょうが、わたしたちがあまり優秀な「属国の軍隊」を持てなかったのは、この憲法の力があったからでしょう。
 「一人前」の国になって「国際貢献」すると言えば勇ましいですが、そういう態度をあからさまにすることが周辺国に与える刺激を考えなければなりません。例えば中国は今後ますます力を増大し、米国との対立を深めていく可能性があります。もし日本が「普通の国」「一人前」になったところで、これに軍事力で対抗し得るとは考えられません。
 もちろん「一人前」でなくても自国を守れるかどうかは微妙です。アメリカが助けてくれるでしょうか。「日本の地方都市がいくつか核攻撃されたところで米中が手打ちにする」という著者のシナリオは、かなり現実感があるのではないかと思います。古森義久氏がコラムで取り上げていた『ショーダウン』という書籍でも、同じような展望が示されています。『ショーダウン』の著者の一人ジェッド・バビン氏は先代ブッシュ政権の国防副次官、もう一人の著者エドワード・ティムパーレーク氏もレーガン政権時代の国防総省の動員計画部長であり、中国の軍事動向に詳しいエキスパートです。決してその辺の三文小説家の考えただけの絵空事ではないのです。
 「そんな危険があるなら、ますます武装を強化しなくては」というのはとんでもない誤りでしょう。腰抜けの日本と「一人前」の日本、攻撃するならどちらが楽でしょう。「普通の国」を宣言してしまえば、同じ日本攻撃でも圧倒的に説得力を持つことになってしまいます。中国軍部上層には、憲法九条放棄をもろ手を挙げて喜ぶ人たちが沢山いることでしょう。

 わたし自身が必要以上に「強い」「弱い」でものを考えてしまう質なので、自戒を込めて書いておきたいのですが、「強く」なれば安全になるほど、世の中単純ではありません。武器をとってしまうということは、攻撃を加える側にも「正当性」を付与してしまうことです。もちろん強くても弱くても武器があってもなくても、やられるときはやられます。ですが「それなら強くないと」というのはやはり誤りです。アメリカのように世界最強を目指すならともかく、中途半端な強さではかえって攻撃の口実を与えるだけになるでしょう。「普通の国」派の方だって、日本が今更ケンカでのし上がれるとは思っていないでしょうし、百歩譲って可能だったとしても、そのために犠牲とするものの大きさを考えれば、どう考えたって今の方がマシのはずです。
 大体、「普通の国」「一人前」などという発想が、いかにも少年的というか、はっきり言えばマザコン的で、とても見ていられません。「立派な男の子」になったら認めてもらえるとでも思っているのですか? どこまで行ったら「一人前」なんですか? まぁそんな小さなプライドで自己満足できるならなかなかリーズナブルで結構だと思いますが、そんな箱庭的理想は、一歩外界に出れば何の価値も持っていないものです。「劣等感の克服」なんてものにエネルギーが注ぎ込めてしまうこと自体、ぬくぬくと暮らしている証左ではありませんか。
 もちろん、「ぬくぬく」結構です。わたしも大好きです、「ぬくぬく」。でもこの箱庭は、蹴られても踏まれても笑ってやりすごしてきた大人な方々のお陰で成り立っているのを忘れてはいけません。彼らの方が、「普通の国」などという安い理想で意気高揚しちゃっている坊やなどより余程「男」です。

 もう一つ著者の指摘で重要なのは、「応援愛国心」と「戦争愛国心」は違う、ということです。ワールドカップで日本代表が戦っていれば、応援したくなるのが人情です。別段「戦い」ではなくても、海外に行った途端、普段はまるで持ち合わせていないナショナリズムスピリットが芽生えてきて、「日本人として恥ずかしくないように」などとムダな気を利かせてしまった経験のある方もいらっしゃるでしょう(わたしはあります)。
 ですが、こういった心情的な「応援愛国心」と、「戦争愛国心」は別物です。サッカーの試合なら一応日本を応援しても、生きるか死ぬかとなったら国も何もありません。自分の身が安全ならば、祖国が頑張っているのも面白いですが、国か自分の命かなら、自分の命が大切です。国を裏切ってでも生き延びたいです。
 そもそも「裏切る」というほど強い絆で国家と自分が結ばれているとは思えません。「国のために」などと若者をたぶらかす親米右翼な米国軍産複合体の傀儡文化人がいますが、そういうお国が、いざというときに庶民を守ってくれるのでしょうか。「守ってくれなくても自分は死ぬ!」というなら別にとめませんが、わたしならそんな割りに合わない取引はしません。生活インフラのために税金払うくらいの契約なら受け入れますが、命のやり取りなんて付き合いきれません。
 命というとかえって現実感がなくなることがあります。著者が指摘していることですが、重度の障害を負って不自由な一生を送ることなどをイメージした方が、実際の悲惨を理解しやすい気がします。国がどうでも良いとは思いませんが、その重要度はせいぜい会社程度です。成すべき任務は全うし、お給料ももらいますが、社長が竹やりで中国倒せとか言い出したら迷わず退職するでしょう。

 著者が理想としているのは「武装中立」ですが、この選択肢に多大な困難があることは自身も認めていらっしゃいます(まったく不可能だとまでは思いませんが)。そこで次善の策として推奨しているのが「逃げる」ことです。
 「逃げる」というのは簡単なようで難しいものです。人はしばしば逃げ遅れます。「まだ大丈夫だろう」と思っているうちに手遅れになってしまうのです。しかもこの場合、国を捨てて少しでも安全な場所に生活基盤を移すということですから、相応の準備が要るだけでなく、社会的境遇によってはほとんど不可能なまでに困難でしょう。
 それでも逃げなければ死ぬという状況なら、逃げるしかありません。私見ですが、逃げることのあまりの難しさが、「自分の国は自分で守る」等の扇動的文言へのファンタジックな同一化を促しているように思います。つまり、逃げることから逃げているのです。

 個人的に強調しておきたいのは、「見る戦争」と「やる戦争」は全然違う、ということです。
 良くも悪くも人間には戦いを好む部分があるのは事実だと思います(もちろん嫌う部分もあって、相克があるわけですが)。ですが、冷静に考えてみると、この「戦い好き」というのは、自分が血や汗を流して戦うというよりはむしろ、「人が戦っているのを見る」快楽によるところが大きいのです。
 格闘技界では「見る側」「やる側」という議論が盛り上がったことがありますが、両者を構成している人々は明らかに性質が異なります。もちろん、両方に属している人もいるわけですが、ほとんどの「見る」格闘技ファンは、自分がリングに上がって戦うことなど考えてもいません。
 別段これは卑劣なわけではなく、格闘技というものとの付き合い方が違うのです。「見る」格闘技にはそれならではの快楽があります。戦いを見るのは楽しいです。ですが、それで「やる側」のことまで理解できたと思ってしまったら大間違いです。
 戦争にしても、「見る」楽しみというのがあると思います。
 「不謹慎な」と思われるかもしれませんが、これは事実として認めざるを得ないのではないでしょうか。少なくともわたしは「見る戦争」は適度であれば嫌いではありません。ゲームのようなピンポイント爆撃の映像だけでなく、CNNで流れる爆撃シーンなども「すごいなー」と思ってぼんやり眺めてしまいます。はっきり言って、他人事でさえあれば戦争は結構楽しいです。
 でも実際に自分が戦うとなったら、まるで話が違ってくるでしょう。ほとんどの方はこの区別くらいつくと思うのですが、まかりまちがって混同してしまったりしないよう、本当に本当に気をつけて欲しいです。
 「戦争」などと漢字二文字で書いてしまうと、抽象度が高くて泥臭さが伝わりません。
 自衛隊に入隊すると、まず最初に塹壕を掘らされるそうです。そして掘った塹壕をまた自分で埋めるそうです。
 穴掘りです。掘っても芋とかないですよ。しかもめちゃくちゃ硬い地面を、人が隠れられるくらい掘るんですよ。さらに掘った穴はまた埋めるんです。何かを埋めるんじゃなくて、ただただ埋めるんです。そんなことやりたいですか? 土嚢とかも運ばないとダメですよ。わたしは近所のスーパーから米10キロ持ってかえるのもダルいです。

 「見る戦争」の危険性を指摘する人は少なくないですし、ゲームや映画に登場する残虐シーンの悪影響を批判する声もあります。しかしわたしは、「見る戦争」の楽しさを否定しても始まらないのではないかと思っています。
 それは確かに楽しいものなんですよ。見ている分にはエンジョイできますよ。痛くないし。重くないし。
 問題は、第一にオツムの弱い人が「見る戦争」と「やる戦争」をないまぜに考えてしまわないか、ということ。ただ、これは神経質な文化人の考えるほどシリアスな問題ではないと思います。世の中には「若者」は「ゲームと現実の区別がつかない」と思い込んでいるアルツな方々がいらっしゃるようですが、そんな面白いことになってしまっている「若者」は、いたとしても十万人に一人くらいでしょう。そうでなければ、ゲームを買うためのバイトも勤まらないです(むしろこういった「若者」言説を紡いでいる「若者フォビア」の方が危険なことは「ニートって言うな!」参照)。
 深刻なのは、「見る戦争」が好きな人たちはわたしたち以外にも沢山いて、世界は歩兵不足だということです。属国の人民をたぶらかして使い捨ての兵隊にするのは帝国の常ですが、そうやってとことん「見る戦争」を楽しみまくりたい人たちが存在するのです。庶民はゲームで我慢しているのに、本当の戦争を起こして、さらにお金儲けまでしてしまおうという人たちです。それに比べたら、残虐ゲームをお金を払って購入している「戦争好き」なんてボランティアみたいなものです。
 「見る戦争」を楽しむ心自体は罪ではありません。ただ、この楽しさは非常に強力なので、うっかり誰かが見たい戦争で「やる側」に回されてしまわないよう、それだけ気をつけて欲しいです。
 もちろん、すべて承知で「やる側」がやりたいなら、それも罪ではありません。世界中どこでも、一兵卒なら歓迎してくれると思います。できたらカッコイイ戦争をやって、ビデオを送ってください。

Showdown: Why China Wants War With the United States Showdown: Why China Wants War With the United States

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