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2006年10月15日

ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる

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 最近吹風日記さんの「最近の若者は本当にいたか、とカントは言った、皆が本を書いている」というエントリでベタ褒めな紹介のされ方をしてしまって、ちょっとキンチョーしています。この吹風日記さん、根が暗いのでリファラを辿って発見したのですが、ウチのようなヘンなブログを評価してくださるだけあって、極私的にかなりヒットでした。
 件のエントリは、引用の適切さ・信憑性といった論点を切り口にして展開していくものですが、まず「最近の若者は・・」というネタからしてヤラれました。ツカミが上手いですよね(笑)。
 このテクスト後半に以下のような下りがあります。

理想を言えば、「アシモフが言ったから正しい」とか「朝日新聞が言ったから正しい」とか「アルファブロガーが言ったから正しい」とか「アー」とか、そういう判断のしかたをやめて、1つ1つの主張を検証するべきなんでしょう。要するに「だれが書いたか」で判断するのではなく「何を書いたか」で判断するということです。

 これは、はてなブックマークにおけるGIGAZINEの評価のされ方を批判する向きについての言及で、筆者ご自身は単純に「『誰が言ったか』を捨象すべし」と考えているわけではないと思うのですが、「人格の解体」(著名の解体)という視点はとても気になりました。
 別段「(著名の)権威によって判断するのではなく、書かれている内容で判断せよ」などと言いたいわけではありません。そういう社会派臭い主張も一理あるとは思いますが、むしろこのような主張(多分GIGAZINE批判者のモチベーションにも関係している)の繰り返し発生してくる背景が気になるのです。
 きちんと語ろうとすると長くなりすぎると思うので、二点だけメモしておきます。一つは人格=著名概念の特殊近代性、もう一つは著名の「執拗さ」です。

 人格=著名概念の特殊近代性と言っているのは、そもそも人格というものの見方がかなり胡散臭い、ということです。
 わたしたちは一人の人間には一個の「人格」が実装されている、という考え方にすっかり慣れ切っていますが、これは必ずしも当たり前のことではありません。もうちょっと狭く「一人一票」を想起してみれば、歴史的にもものすごい狭いスパンでしか「真実」ではなかったことは自明です。
 ここで言う「人格」とは、その属性の如何によらず、とにかく一人一個で、その値打ち自体は本質的に同等である、と想定されているような何かです。もちろん、物理的実体として析出されるようなものではありません。
 こう言うと「アンドロイドに心はあるか」といった問題を連想される方がいるかもしれませんが、そちらに踏み出しては既に「人格」に絡めとられています。重要なのは「人格」の実体性(?)ではなく、virtualなものであることは自明事として(アンドロイドの「心」も人間の「心」も同等として)、そのvirtualな人格がとにかく一個想定されてしまう、という点です。
 わかりにくいですね。
 これを疑うことはわたしたちの「人間として」の根本を揺さぶることになるので、なかなか相対化できません。
 わたしが知っている範囲で、コレに揺さぶりをかけた素晴らしい試みの一つに、大分昔に知人が作成した『肉団子』(だったと思う)という自主制作ビデオがあります。
 内容としては、数人の役者がぐちゃっとくっついて切符売り場やイベントの入札のようなところに行き「わたしたちはみんなで一人だから、一人分の入場料で入れてくれ」とゴネる、といったものです。
 作品のノリ自体は突撃ビデオ風で、「バカやってんなぁ」で終わってしまっても良いのですが(製作者自身としてはその程度の意図だったかもしれません)、何気にかなり際どいところに切り込んでいます。電車には子供料金というものがありますが、原則として一人の運賃は誰でも平等です。燃費を考えれば体重によって違いがあっても良さそうなものですが、そうはなっていません。
 以前「住民税も重量税にしてください」という冗談を言ったことがあるのですが、これも実はかなりブラックです。税金や電車賃が重量制になるという仮構の向こうには、人間がただの肉の塊になってしまう境位があるからです。
 人間は肉の塊です。身近な人が亡くなったことのある方なら、誰でもご存知でしょう。
 さっきまで生きて喋っていたものが、見る間に生気を失っていく様にはぞっとさせられます(註1)。
 もちろん、このような現象上の変化の背景には、生物学的な変化があり、物理的な変化もあるでしょう。しかし、わたしたちが「人間」に期待しているものは、「ややもすると肉の塊へまっ逆さま」な連続的な実体ではなく、言語的に分節されたデジタルな「個」です。人間にとっての人間とは、単に同じ種の生命ということではなく、名付けることが出来、語り語られるものとして言語経済に編入し得る主体でなければなりません。
 しかし、物理的実体としては「肉の塊」と紙一重であることを、わたしたちは「知って」います。さらに「およそ人間とは思えない」ほどに寸断された身体状態にされても、なお「生きている」状態というのを想像できてしまいます。
 これは非常におぞましいことで、「衛生的」社会を保つためにはなんとか蓋をしておきたい風景です。遠いご先祖様の時代には蓋もしっかりしていませんでしたが、社会が都市化・「脳化」し言語的になるに連れ、蓋の重要性は増していきます(註2)。わたしたちの社会では、「一人一票」を疑うことすら禁忌に近くなっています。「実際は平等なんかじゃないじゃないか」などと言うのではなく、正に平等などどこにもないからこそ、このお約束だけは死守しないとならないのです。
 「一人一個」の人格を疑う話をすると、多重人格を想像される方がいらっしゃいます。これは非常にミスリーディングな連想です。「肉団子」と比べてみれば明らかでしょうが、多重人格と呼ばれる症候はむしろ人格概念にすっかり絡め取られたメタ的な現象で、ちっとも「肉」ではありません。むしろ人格概念に依拠し、これを強化する働きをしています(そのようにヒステリー者によって期待され、利用されている)。だからこそテレビなどで注目され、「制御されたエキセントリックさによって衆心を安らげる」機能を負っているのです。

 このように大変胡散臭く紙一重な「人格」概念でありながら、これを疑い相対化することは非常に難しいです。
 その理由の一つの語り方は、上記のように、それがわたしたちの共通のディスクールの基盤だから、というものがありますが、「人格の執拗さ」にはまだ続きがあります。
 この二つめの論点に因り、わたしとしては、「権威によって判断するのではなく、書かれている内容で判断せよ」という警句は成功しない、と考えます。そしてこのような警句が繰り返されるのは、一つにはもちろん、「『書いたと想定される主体』に依拠してテクストを評価することの不当性」という事実があるからですが、今ひとつには正にこの警句が成功しないからです。あたかも吹風日記さんのエントリでとりあげられている「最近の若い者は・・」のように、警句の無効性ゆえに反復され、古びることがないのです。
 「書かれている内容」と軽く言っていますが、わたしたちが「内容のある、何か書かれたもの」と捉えるのは何でしょうか。
 またわかりにくいですね。
 「内容のある」というのは、「含蓄がある」とか「意義深い」という意味ではなく、極端に言えば、サイコロを振って決めた無作為抽出の文字列ではない、ということです。「そんな無意味な文章に内容があるわけがないじゃないか」と言われるかもしれません。では無意味と意味を分かつものは何でしょうか。
 逆に、非常に無意味そうに見えながら「内容」の感じられる文章というものがあります。例えば極めて難解な文芸作品などです。このようなテクストは「意味」を取るのが難しく「内容」も良くわかりませんが、わたしたちは普通「無意味に見えるけれど意味があるんだ、わたしにわからないだけですごく内容があるんだ」と期待します。
 つまり、「意味がある」とか「内容がある」という基準は、わたしたちがその意味や内容を理解できているかどうか、ではないのです。では分水嶺はどこにあるのでしょうか。「少なくとも一人、意味を知っている者がいる」、正確には「少なくとも一人、意味を知っている者がいる、とわたしが想定する」という点です。
 意味はわたしが知っている必要はないのです。誰かが知っていてくれれば良いのです。
 逆に言えば、どこにも「知っている誰か」が想定できないもの、そのようなものをわたしたちは「無意味」と考えます。
 言うまでもなく、この「知っている誰か」が実は一人もいなかった、という事態はあり得ます。高尚な文芸作品だとばかり思っていたら、どこかのプログラマが日曜日に作った人工無脳のテクストだった、という状況は想像可能です。ですから、「知っている誰か」はあくまで想定されるものです。
 このとき「知っている誰か」として想定されているものが主体です。重要なことですが、この「主体」が実は存在しなかった、という事態があり得る以上、主体が始めにあってテクストが生成されるのではなく、生成物に対して遡行的に想定されるのが主体です(註3)。
 そして「書かれたもの」において、最も一般的に流通している主体、「最悪でもコイツだけは意味を知っているはず」な砦とされているものが、いわゆる「作者」です。別段、狭い意味での「作者」が主体として想定されている必要はないのですが、通念的な理解では、ここで呼び出されるのは「作者」ということになっています。
 大分遠回りしてしまいましたが、わたしたちが「書かれている内容」(意味)を想定するとき、常に主体が読み込まれています。わたしたちは、「少なくとも一人」の主体の想定なくして、意味を期待することなどできないのです。
 この主体は、別段生きて動く人間である必要はありません。繰り返しますが、「作者」である必要など特にないですし、実際、同定可能な一匹のホモサピエンスとしての「作者」が実在しない場合はいくらでもあり得ます(ハンムラビ法典の作者は誰?)。ですから、ここで想定される主体を、カントや朝日新聞やGIGAZINEに紐付けてしまうのは、また別の段階です。この段階が当たり前のように呼び出されるのは、一つ目の論点、「特殊近代的な人格概念」を含む問題系によるものですが、仮にそれがなかったとしても、「誰か」の想定は消えてなくならないのです。

 ちょっと話が大きくなりすぎて、焦点がボケてしまいました。すいません。
 わたしたちがテクストに接する時、常に暗黙的に主体が読み込まれています。そして現代の風習では、この主体は「作者」と言われる世俗的なイメージにバインドされています。GIGAZINEです。それだけでなく、このバインディングは権威の概念とも直結しています。なぜなら、ここで期待されているのは「最悪でもコイツだけは意味を解読できる」という超越的な立場だからです。
 つまり、第一にテクストは「誰か」が書いたものであってくれないと困ります。第二に「誰が」書いたかが問われます。「誰か」こそが最後の保証人である以上、テクストの内容が問題にされる時、「誰が」の重みが勝負の分かれ目になるからです。
 この第一と第二の間は実は連続していません。にも関わらず、「誰か」が続いて「誰が」を呼び出す手続きはかなり強力で、ここで別の方向に流れを持っていくのは極めて困難です。
 吹風日記のMrJohnnyさんが着眼されているのは、おそらくこの第一と第二の連続性が当たり前とされている事態なのではないかと思います。そう考えれば、ネット上の人格の統一性といった問題系が接続されているのが理解できます。

 ・・って、さんざん引っ張ってきておいて、実は論点がズレてるのが明らかになってしまいましたね(笑)。ただ、ここから話を展開してくにせよ、上の問題整理は基盤として役に立つと思います。
 気になったことだけメモ、と思ったのですが、せっかくなのでつなげて考えてみたいです。ただ、既についてきてくれている読者ゼロな気配がアリアリなので、とりあえず今日はここまでにして、別稿にわけます(笑)。


追記:
 どうでもいいことですが、吹風日記のMrJohnnyさんは「理系出身国語教師」とのことですが、わたしは「文学部出身の元数学講師」で、最近の主な収入源はプログラムのようなものを書くことです。数学を教えていたのは、英語教師として採用されたハズが「数学科の手が足りないから」という理由で回されたからで、当時の生徒たちには本当に済まないことをしたと思います・・。ちなみに今も、プログラムを書くよりプログラムについての言い訳を書く方が得意です・・。

註1:
 結婚式の時に「健やかなる時も病める時も」と言いますが、病んだら別人です。別人というより、ほとんどモノに近い状態にまで、人間というは変貌してしまえるものです。ですから、「病める時も」という誓いが神様の前で立てられる、という点はとても重要です。病んだら普通、とても愛せません。どこをどう考えても「わたしの愛したあの人」とは生まれもつかぬ「肉の塊」になってしまうのですから。それでも「愛する」のは、神様に誓ったからです。第三者の媒介があるからです。つまり、わたしにはとても見つけることのできない「わたしの愛したあの人」と「肉の塊」の間の同一性を、少なくとも一人知っている者がいる、ということです。

註2:脳化
 養老孟司さんが『唯脳論』などで提案している術語。なんとなくヴィリリオっぽい匂いもする。

註3:
 長くなるので端折りましたが、「語っている主体が想定される」ということは、「聞き取るものとして何者かが想定される」「想定されたものとして<わたし>が呼び出される」ことと同時的です。<わたし>とは、「意味を想定するもの」、「『誰か書いた人がいるに違いない』と考えるもの」として、呼びかけに対して(うっかり)振り向いてしまった者のことです。
 ラカンがどこかで「砂浜に足跡があれば、それは単にsigneだが、その足跡を消した跡があれば、signifiantだ」といったことを書いています(と思います)。足跡だけなら、わたしは安全圏です。しかし消した跡があるということは、何者かがその足跡を「読む」であろうと、予め想定されていたわけです。無人島で「消した跡のある足跡」を見つけたとしたら、なかなかゾッとしないでしょう。なぜこれほど無気味なのでしょうか。その跡は<わたし>に呼びかけているからです。そして「え、わたし?」と呼びかけに振り向き目覚めてしまうもの、それが<わたし>です。
 「消した跡のある足跡」の引き起こす「ハッとする感じ」は、ぼんやりと夢想しながら人ごみを歩いていて、「ちょっと!」という声に「ハッとする」のと等価です。わたしが呼びかけられるのではなく、振り向くものが<わたし>です(足跡を消した主は、わたしのことなんて全然知らないかもしれない)。
 このことは、呼びかけが実はわたしに向けられたものでなかった時を想像すればよくわかるでしょう。「ちょっと!」が隣にいた見知らぬ女に対する呼びかけだった時の、あの置いていかれたような気分、夢から覚めたばかりでここがどこだかわからないような寄る辺なさ。

関連するかもしれないテクスト:
『意味の意味』

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