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2006年10月16日

webのフラットさによる暴力はweb自体によって去勢されるという微かな希望

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 昨日のエントリの続きです。
 前回の内容をものすごい端折ってまとめてみると、

1 テクストは常に「誰か」が書いたもの(「誰か」を想定することなしに、わたしたちは意味を意味として受け取ることができない)
2 そのテクストを「誰が」書いたかは本来本質的ではないが、「誰か」がテクストの有意味性を保障する唯一の砦であるため、「誰か」はすぐさま「誰が」を呼び出してしまう。

 といったところでしょうか。
 あるいは次のように言うこともできるでしょう。

 「誰か」は「誰が」に対し論理的に先行するが、わたしたちは「誰が」抜きで「誰か」を認識することができない。

 こういう「厳密には間違っている具象」と「正確だがわかりにくい抽象」が制しあっているような風景というのは色々なところに見られて、わたしはよく三角形のことを考えます
 わたしたちは三角形を見たことがあるでしょうか?
 中一くらいまでの子供にそう尋ねると、大抵はきょとんとして「あるに決まっているじゃないか」という顔をしてくれます(これが中三になると裏をかんぐるようになるので可愛くないw)。
 三角形というのは、定義上二次元の図形です。二次元である以上、高さやら厚さやらといったものはないわけです。もちろん、線の幅もあってはいけません。
 しかしわたしたちが見たことのある「三角形」というのは、教科書に印刷されていたりコンパスや定規を駆使してノートに作図したものでしかありません。これらは紙の上に黒鉛やインクを付着させたものですから、二次元の図形ではありませんし、厳密に言えば真の三角形とは似ても似つかないいびつな立体物にすぎません。三角形の定義に忠実であろうとするなら、わたしたちは誰も真の三角形など目撃したことがないのです。
 別に小学生的屁理屈をこねようとしいうのではありません。重要なことは、これらのいびつな立体図形を通して、わたしたちが見事に三角形の概念を獲得してしまっている、ということです。
 三角形が、厳密に言えば線の幅も高さも持たない平面図形であり、内角の和が二直角になることは、初等教育を受けた日本人ならほとんどの人が理解しているでしょう。この概念の獲得のためにわたしたちが活用したのは、今となっては「全然三角形ではないいびつな立体図形」だったのですが、注目すべきは、おそらく「全然三角形ではないいびつな立体図形」なしでは、三角形概念の獲得は極めて困難であった、ということです。
 一部の天才的な人物は別として、ほとんどの場合、わたしたちは間違った具象を通じて正確な抽象を獲得するのです。
 「誰か」と「誰が」の関係もこれと似ています。
 「誰か」は論理的には「誰が」に先立ちます。真の三角形を表現するために、いびつな立体図形が用いられるように(「いびつな立体図形を載せよう」と考えた教科書作成者は存在しない・・はず)。
 しかし、実際の発達論的(?)時間の流れとしては、最初に「誰が」という間違ったイメージがやってきます。その後で初めて「『誰が』が重要なのではない、誰でも良いから少なくとも一人、つまり『誰か』が必要なのだ」と理解するのです。
 ですから、「誰か」で話を食い止めて、「誰が」につながらないようにする、つまり著者の権威を捨象してテクスト自体を取り上げる、ということは大変難しいわけです。ほとんどの人は、そもそも「誰か」という論理的ステップを意識化することもできないまま、ただ「誰が」だけを問うているくらいですから。

 やっとで具体的な話につなげると、GIGAZINE批判者の方、さらに言えばおそらく、はてブ衆愚化を嘆く人々(はてブに純粋さを求める人びと)は、著者の権威を排除したテクストそれ自体としての価値が評価されることを理想としているのかもしれませんが、わたしたちを縛り付けている「誰が」の重力がなかなかこれを許してくれません。「テクスト自体を取り上げ、その内容に対してのみ検証を加えよ」というのは至極尤もですし、わたしもそう思います。しかし、この理想には片手落ちなところがあって、おそらく吹風日記のMrJohnnyさんなどは、片手落ちぶりをやんわりと予期しながら、理想に「扇動」される人びとの風景を眺めているのでしょう(多分)。
 実際、webが進んでいる道は、著者の権威が排除されるどころか、むしろ逆の方向にあるように見えます。
 先日mixiの人間関係と「見通しの悪さ」のことを書きました。わたしたちの「自分」とは、単純に人と人の間に立つものではなく、一定の「見通しの悪さ」を持った多面的なもので、しかも全体を一度に捉えることなど自分自身にもできません。ところがmixi(に代表されるようなweb臭い「人間関係」)では、この抵抗感および抵抗の多様性がストンと抜け落ちています。
 mixiに限らず、一定のスキルを持つ人びとにとって、webというのはとても簡単にある人物の「同一性」を確保してしまえる空間です。ちょっと不注意な行動を取れば、実名から住所に至るまで「確たる個」としてのまとまりを一気に捉えられてしまうこともあるでしょう。別段実名ではなくても、例えばコテハン等のweb上で用いられる「同一性」でも、見通されることが致命傷になることは十分あり得ます。一昔前は「webは匿名的である」ことが当たり前のように語られ、この匿名性こそがwebの危険であるような議論が(既存大手メディア上などで)まま見られましたが、実際のwebは匿名どころかすごくフラットで、しかもこのフラットさこそが匿名性以上の危うさを孕んでいることが明らかになってきてしまったわけです。
 ただ、これを特殊web的な現象とだけ捉えてしまうと、「見通し」問題についても正確な理解ができないでしょう。webの開いてしまったフラットさというのは、現実世界で進んできた脳化・都市化の最先端で現れたものだからです。
 「同一性」の暴露がwebにおいてより簡便であったとしても、それはwebの同一性が現実と比して「ヴァーチャル」なものであるからではありません。そもそもわたしたちの「同一性」とは仮構的なものなのです。実名などといったところで、戸籍制度や市民概念の中に織り込まれたタグの一つにすぎませんし、そもそも名付けるということは、一匹のホモサピエンスを「人間」として言語経済の中に組み込むことです。ある人物の「同一性」とは、社会性とセットになった脳内的な構築物なのです(当然、物理的な個体差は元からあるでしょうが、わたしたちが「同一性」として活用している「同一性」は、個体差そのものを指すのではなく抽象化された名である)。
 このように「同一性」は、人間が人間であるために必須となる象徴化プロセスの中で必然的に生み出されたものですから、web上であれリアルであれ、最初からフラットで「見通しが良い」こと目指しているのです。象徴化とは抽象化であり、抽象化とはノイズを排除することで雑多な現実をフラットで「見通しの良い」脳内的ロジックに置き換える作業なのですから。

 翻って、「同一性」が初めから「見通しの良さ」を目的としているところに、フラットさから身を守り、人間関係に適度な抵抗(見通しの悪さ)を導入するヒントが含まれています。
 フラットで見通しの良いロジックで世界を再解釈し、「すべてヴァーチャル」にしたいのはやまやまなのですが、実際にはホモセピエンスはキレイに言語経済に組み込まれ切ってくれないからです。「脳化」は常に不完全にしか達成されません。何か残りがあります。
 とても物質的な残滓、「肉」のようなものです。
 それは、あるホモサピエンスに名前を与え「社会化」しようとしたときに捨象しようとして捨て切れなかったもの、あらゆる属性を情報として抽出しようとしたとき取りこぼしてしまったものです。
 これは技術的な困難のために情報化し切れなかった、という意味ではありません
 その要素は、抽出しようとした「同一性」にとってはノイズにすぎず、周囲にとっても本人にとってもまったく本質的ではないが故に、捨象せざるを得なかった汚物だからです。
 しかしノイズとは、そもそも定義上、捨象すべきものがあるとしたら正にそれから捨象すべきもののはずです。なぜ「ゴミを捨てる」ことが抽象化を不完全にしてしまうのでしょうか。
 魂と肉体(あるいはゴーストとボディ)といった漫画的な構図を想像すればわかりやすいです。魂やゴーストとは、人物の「本質」「同一性」を模式化したものです。だから肉体や筐体はオマケのようなもので、もしその人物を圧縮しないといけないなら、最初に捨てるデータです。
 ところが、捨てた途端にそれなしではやはり完全な「同一性」は確保しきれないことがわかります。「アナログの温もり」などと能天気なことを言いたいのではなく、筐体は確かに本質ではないのですが、そのまったく本質的ではない具象(教科書の三角形)抜きには、抽象された本質(真の三角形)は生まれ得なかったからです。「既に本質は抽出されているのだから、過程で必要とされたノイズなど捨てて良いではないか」と思われるでしょう。実際、象徴化プロセスはそのように実行されますし(去勢)、これを止めることはできません。そして過程が「今はない過去」となったとき、それ自体としては存在しない過去が、ないものとして機能する、という(極めて「人間的」な)状況が作り出されるのです。
 フロイトは「子供時代は、それ自体としては、ない」と言いましたが、正に「無い」過去(そしておそらくは最初から無かった過去!)が、現在に対して機能しているのです。
 この過去は、確かに<わたし>ではないですし、今の<わたし>にとってはノイズにすぎません。しかし「かつて<わたし>であったもの」「失ってしまった重要な何か」として、抽出された<わたし>を苛み魅惑し続けます。「同一性」は「見通しの良さ」を目指しますが、その確保と同時に、「まだ残りがある」「何かが同一性に含まれていない」というという「見通しの悪さ」が織り込まれる、という逆説がここにあります。

 このように「同一性」はその成立と同時に不完全性が織り込まれる、という構造を持っています。そのため、著者の権威(人格の同一性)を理性によって排除しようという試みが失敗に終わったとしても、それ自体として常に緩やかな解体の過程にあります。ある同一性を巡る諸要素が増大すればするほど、「『それ』は本当にそれなのか」という「見通しの悪さ」が発生します。アシモフのテクストを大量に読みこなせば、随所に矛盾が見つかるでしょうが、「ではどれが本当のアシモフなのか」は、霊媒師が呼び出したアシモフに尋ねたとしても、やはりわからないのです。
 webはテクノロジにより象徴化プロセスを格段に加速し、時に暴力的なまでの「見通しの良さ」=フラットさを実現してしまいましたが、同じテクノロジによる絶対的な情報量の増大が、「見通しの悪さ」も同時に実現していくことでしょう。仮に現時点でフラットさの暴力が先行していたとしても、「そもそもフラットにして捉えたい同一性自体が不完全である」という飽和に収斂していくのではないか、とわたしは考えています。

 人間はうんざりするほど自由です。
 日々平凡な生活を送っていると、社会的存在としての<わたし>の同一性は揺るぎなく、それを失ったらわたしがわたしでなくなり、生きていくことなどできないように感じます。
 しかし多分、今の<わたし>を構成しているほとんどの部分を捨て去ったとしても、死は簡単に訪れないでしょう。
 そこで生き残ったものが、果たして<わたし>と呼びうるのかどうか疑問かもしれませんが、しかし<わたし>は元よりノイズの海から生まれ、その重要な物質的過去から切断され、この世界に置き去りにされた者です。きっと次の<わたし>も、郷愁にまみれつつ無様な生き恥を晒し続けるのではないかと思います。
 先日、信じがたいような歴史的個人情報流出事件がありました。被害者女性のことを思うと、胸にナイフを突き入れられるような気持ちになります。
 しかし、彼女がどこか遠くで(あるいは意外にも近くで)既に彼女かどうかもわからない新たな彼女となったとしても、きっと生き延びてく相変わらず不満の多い人生を歩んでくれるのではないか、と無責任で奇妙な希望も抱いています。
 訳あってわたしもちょっとややこしい過去を抱えた人生なのですが、仮にこの過去の逆襲にあうことになったとしても、きっと死にはしないのでしょう。
 今のわたしが、過去から見ればわたしではないかのようなわたしであるように、きっと次のわたしも、どんなに成り果てても見苦しく生き延びるのだと思います。
 同一性とは、それ自体のうちにフラットさの暴力から零れ落ちてしまう不完全さを宿しているのですから。


追記:
 書いていて気付きましたが、これはサール・クリプキ論争などと絡みますね。興味のある方はクリプキの『名指しと必然性』あたりをチェックされると脳が気持ち良いかもしれません(前半だけは結構読みやすい本です)。できたらこれを巡る概説的な書籍と併読されるとわかりやすいですし、確か新書本か何かで良いものがあった気がするのですが、思い出せません・・。
 固定指示子rigid designatorという概念は見るからに胡散臭いというか、メチャクチャな匂いがするのですが、文字通りというよりはこんなヘンテコなタームを持ち出さざるを得なかった議論の全体が面白く、かつ正鵠を得ているように感じます。対して「クラスター説」のような考え方は、「妥当だけれど何も言えない相対主義」のヤワな匂いがしますね(笑)。ただの個人的「感想」ですけれど。


追記2:
 読み返してみると、この手の文章によくありがちな「なんとなく尤もらしいけれど具体性に乏しすぎて力なく、通じない人にはさっぱり通じない」テクストになってしまっていますね。すいません。
 別段「力ある文章を書こう!」という意気込みがあるわけではないのですが、と言ってしまうとやっぱりちょっと言い訳がましい。
 少なくとも、伝えるべき人に対しては幾ばくかでも力ある文章にはしたいものです。「すべき」とはやっぱり全然思わないのですが。
 最近、日本語がますます下手くそになっていてちょっと危機感です・・。

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