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2006年11月06日

追い抜いちゃった人たち、愛=暴力、資本

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 続けざまに言及してしまって大変恐縮なのですが、先日リンクするだけしていたしあわせのかたちさんの追い抜いちゃった人たちというエントリについて、メモしておきます。

あらゆる労働は<わたし>という主体には、「見合わない」というかたちで認識される。(...) 「三次元異性との恋愛は、こちらが支払う努力に対して対価が見合わない」ということと、「いまの労働は、私の支払う(支払った)努力に対して対価が見合わない」ということは、同じである。どちらも「社会的行動は等価交換されるべきだ」という個人主義、近代主義、資本主義上の奇習を、普遍的で当然の前提だと脳内に組み込まれているのだ。(...)  一般的に二次元萌えの非モテやニートは、個人主義や近代主義や資本主義に「追いつけない人」という理解をされている。しかし私は(内田樹と同じく)そうは思わない。彼らは個人主義、近代主義、資本主義を「追い抜いてしまった人」なのだ。(...)  社会は絶え間ない「贈与」で回ってるんだぜ。

 「追い抜いちゃった」態度とは、要するに過剰に肛門的なわけです。わたし自身、ついそういうモデルに引きつけて考えてしまいがちな人間なので、心情的に理解できてしまいます。もちろん、近代的モデル(熱力学の第一法則ライク)自体が「悪」なわけでも「間違っている」わけでもなく、単にモデルが有効な局面とそうでない場面があるだけです。「近代主義者」に対して「青いなぁ」と言うだけならオヤジ的説教と変わりありません。
 この記述を読んで、わたしが思い出したのはチャック・パラニュークの『チョーク!』です(同書についてはこちらのエントリ参照)。
 この物語の主人公は、レストランで食べ物を喉に詰まらせた(choke)フリをしてお金を稼ぎます。
 窒息しかけた彼を様々な人びとが助けます。助けた方は、何かにつけ彼のことを気にかけ、彼がお金に困っていると知ると、出来る限りの援助を試みます。そして引き出せるだけお金を引き出した後はバイバイ、というカラクリです。
 非常に面白いのは、助けた側がさらに援助を与えようとする、という点です。
 人間は、自分を助けた人間のことより自分が助けた人間のことをよく覚えているもので、助けた相手には見返りを求めるというよりむしろ、さらなる「援助」を注ぎ込もうとするものなのです。
 普通の発想(「近代主義」的発想)なら、助けた相手のことを忘れないにせよ、その相手からは「見返り」を求めようとするでしょう。しかし実際にそういう立場に立ってみると、単に見栄を張るといった心理を越えて、助けた相手を愛おしく想い、さらに尽くそうという気持ちが芽生えてくるものです。
 「無償の愛」などというと尊そうですが、ある意味余計なお世話というか、ちょっと気味の悪いくらいの恋着です。愛とか奉仕とか言ってしまうといかにもウソくさく話が終わってしまうので、わたしはこれをある種の「暴力」と捉えた方がスッキリすると思っています。車で跳ねた相手をさらにバックしてひき殺すような暴力です(笑)。
 このような「暴力=愛」がなぜ発生するのか、様々な語り方ができてキリがないくらいですが、そもそもわたしたちの存在自体、ある種の暴力によって生み出されたものです。
 人間は誰でも、どうして自分がここに呼び出されてしまったのか知りません。<わたし>がどうして「この」わたしとして生まれ、生きているのか、そこに何の理由付けも根拠もありません。なぜ<わたし>がジョージ・ブッシュでもマザー・テレサでもない「この」わたしなのか、そこには常にある種の過剰、損得勘定以前から存在する「余り」があるのです。
 そしてこの「余り」を、さっぱり意味がわからないながらも引き受けることから、人生は始まります。借りた覚えのないお金を返すようなものです。しかもこの借金は、絶対に返しきれないのです。
 「追い抜いちゃった人たち」は、この不当な債務に抗弁します。確かにもっともなことです。ですが、この債務は本当に本当に根が深く、ほとんど債務自体だけがわたしたち自身なのです。わたしたちは「余りある愛」を押し付けるためだけに世界に呼び出されたようなものです。だから、この「愛=暴力」に対処する唯一の方法は、債務に対してギリギリ利子だけは支払いながら、後のことは無責任に人に預けてバイバイすることだけです。
 メチャクチャですか? 会計士が言ったら解雇した方が良いと思いますが、「追い抜いちゃった人たち」「(わたしを含めた)追い抜きがちな人たち」が思い出すべきなのは、人生のこの不条理なまでに暴力的な側面です。
 このような「愛=暴力」の不条理な連鎖の上げ底あって初めて、「近代的」損得モデルが機能する場が形成されます。肛門的・「近代的」モデルが無効なわけではないですが、それが成り立つのは既に債務を引き受けた後での箱庭的世界であって、箱庭そのものは箱庭の外の砂漠のロジックによって生み出されたのです。

 簿記を学ぶと、最初に資産・債務・資本という関係を学習します(収益と費用のことはちょっとよけておきます)。
 貸借対照表はこの三つで構成されていて、借方と貸方は必ずバランスしています。
 バランスシートが「近代的」にピッチリ帳尻が合うためには、資産と債務の他に「資本」という項目が必要です。
 資産と債務はわかります。でも「資本」って何? こんな疑問を抱いたことはないでしょうか。
 しかも資本というのは貸方の方に書くのです。債務の仲間です。資本というと、なんだかお金持ちが生まれながらに持っているウラヤマシイ財産のようですが、借金と同じ側がホームポジションです。資本がなければ何も始まりませんが、このそもそもの「始まり」、会社が始まり帳簿が開始し「近代的」会計ワールドが起動するところで、わたしたちが持っているのは「特殊な借金」なのです。
 会社が収益を上げ利益が計上されると、その利益は最終的に資本と同じポジションに帰っていきます(株式会社は勝手に資本を増減してはダメですが)。場合によっては他の企業を買収したり、子会社を設立することもあるでしょう。この時、企業からは何らかの資産が出て行って(費用が発生し)、それが子会社の「資本」になります。あげたものが債務の仲間として引き受けられるのです。

 会計の専門家が見たら鼻で笑われそうな比喩ですが、「愛=暴力」をこの資本だと思えば、わたしには何だかしっくりくるのです。


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