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2006年11月19日

群発自殺、群発地震、群発頭痛、そして象徴化

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 先日J-CASTにこれでいいのか! テレビの自殺報道規定という記事がありました。

いじめによる自殺や「自殺予告」が相次ぐなか、マスコミの自殺報道のあり方に疑問の声が上がっている。自殺報道がかえって自殺の連鎖反応(群発自殺)を呼ぶのではないかというのだ。世界保健機構(WHO)は、「群発自殺」を防ぐための報道のガイドラインを示しているが、実際の報道はこれを逸脱している例が少なくない。

 自殺と報道の関係を扱った記事で、TBS NBでは、実際に報道ガイドラインが自殺者数を激減させたウィーンでの事例を取り上げていました(偽帝ドミトリの<タコ足>雑録:自殺についての話題を転換するということというエントリが要約してくれています)。
 このようなシリアスな話題に対し、例によって全然本質的ではない部分に注目するのは本当に恐縮なのですが、個人的に吸い込まれてしまったのが「群発自殺」というキーワード。

 群発自殺。そんな言葉があるのですね。
 『群発自殺―流行を防ぎ、模倣を止める』という本もあったので、突然考え出された造語というわけではなさそうです。
 それにしても「群発」。
 群発と言われると、群発地震と群発頭痛しか連想できません。
 試しに「群発」でググッてみると、上位はほとんどが群発頭痛。わたしの中では群発頭痛よりは群発地震の方がメジャーだったのですが、群発では地震より頭痛が人気です。
 検索結果数では、

群発地震 約128,000件
群発頭痛 約90,000件
群発自殺 約34,700件

 となり、群発地震がトップ。
 件数が多いのに「群発」上位は頭痛が独占ということは、群発頭痛の方が群発地震よりテキスト中で群発を強調する傾向がある可能性もありますが、多分群発頭痛は患者さんにとっては切実な問題で、かつ治療法等がビジネスになるのに対し、群発地震には雑学オタクくらいしか興味を示さないから、という方が尤もらしい気がします。
 ちなみに「群発」でかつ頭痛でも地震でも自殺でもないものを検索すると約1,000件しかヒットがなく、群発といえばこの三つのどれか、ということがわかります。
 四位に来るのは『群発する崩壊―花崗岩と火砕流』という書籍。「群発する崩壊」。なんだかポエジーのあるフレーズですね。
 「群発する」の時点で既に日本語としてちょっと不自然なのに、それを受けるのが「崩壊」ですよ。「崩壊」が「群発する」です。火砕流業界では普通に使う表現なのでしょうか。

 それにしても、「群発する」ものといったら地震と頭痛と自殺(あと崩壊)。
 どうしてこう憂鬱なことばかりが「群発する」のでしょうか。
 goo辞書によると、「群発」とは

ある期間、同じ区域に集中して起こること

 とのこと。
 どちらかというと時間的に短いスパンでババーッと起こる感じがします。ただよく起こるだけだと「頻発」でしょうしね。
 いずれにせよ、定義自体はポジティヴでもネガティヴでもありません。
 もうちょっとおめでたいことが「群発する」ことはないのでしょうか。

「群発結婚」。

 あぁ、ダメです。おめでたそうなことに付けても、群発が付いた時点でなんだか破局が目に見える気がします。

「群発出産」。

 赤ちゃんというより、悪の組織の地下工場でロボか何か生産されている感じです。ものすごい冷たいです。

 この思いつき自体、全然中身がないので、別段オチを付けるつもりもないのですが、日本語の中の漢語と大和言葉を比べてみると、一般に漢語の方が冷たく機械的、感情を排している印象を与えます。
 とりわけ造語的に比較的最近になって作られた単語は、本来いわく言いがたかったものを要件に従って「名付けた」という要素が大きいので、心情を押し殺して語りたい対象についてしかしっくりこないのかもしれません。

 もうちょっと深いことを言えば、わたしたちの世界には制御できるものと制御できないものがあります。
 制御できないものを「統べる」方策として、象徴化という作業があるわけです。
 ですが象徴化には常に取りこぼしがあります。指の間から抜け落ちていくような「残余としての現実界」です。最近よく話題にしている言い方なら「余り」です。
 偶然性というものは正に「制御できないもの」で、言語経済は必死でこれを回収して、あたかも「何とか語れるもの」にしようとします。統計も占いも神託も、「蓋をしようとする」営みとしては似たようなものです。
 地震、頭痛、自殺、どれも「たまに起こる」だけなら「そういうものかな」と流せるでしょうが、急に発生率が増えてくると大変不安になるものです。これは何としても「蓋をして」しまわないと危険です。
 一番良いのは「こういう理由があって急に起こってきただけで、これを取り除くとホラ、なくなるよ」と示せることなのですが、そうスッキリいかないこともあります。理由が分かっても取り除く手段がよくわからなかったり非常に難しかったりすると、「蓋」としては少し心元ないです。
 そういう時は、とにかく無理やりにでも名前を付けることです。名前を付けても本当は何の解決にもなっていないのですが、象徴化できた気分になって、ちょっとだけ不安が和らぎます(「デスマーチ」とか・・)。
 「群発」という用語はいかにも「とりあえず蓋」なタームと言えます(そもそも漢語は「外来語」で、名付けられないものに名前を付けるために輸入されたようなものです)。

 非常に興味深いことですが、実は「敢えて蓋をしない」という対策が取られることがしばしばあります。
 名前を付けると、確かに言語経済に回収はできるのですが、逆に言えばロジックに組み込まれることで「一定の割合で必ず起こるもの」「この世の摂理の一部」として認めることになってしまうからです。
 非常に受け入れがたいものの場合、名付け自体が拒まれるケースがあります。要するに抑圧です。非常にベタな例を挙げれば、神経症では経済への回収が拒まれた結果、「言語化されない」症候が代わりに現れてくるわけです。
 これとは別に、「敢えて蓋をしたくない」ことがあります。
 一般に神聖なもの、触るも恐れ多いものには、名前がつけられません。「神の名をみだりに口にするな」もそうですし、ホモ・サケル的存在はしばしば指示代名詞などを使った婉曲的な表現でしか言及されません(被差別民への言及・・)。
 てんかんの発作は、昔は神がかり的な出来事だと思われていました。実際、てんかん発作を目にしてみると非常に神聖な感じがして、ちょっと簡単に触れてはいけない印象を受けます(患者さん本人は意識がないので覚えていないのですが)。てんかん患者さんを抱える家族では、「そのこと」を直接表現せず、「アレ」とか「例の」のように表わす傾向がある、と言われています。
 「おめでたいこと」にも、ある意味「蓋をしたくない」と言えます。
 せっかくハッピーなことがどんどん起こっているのに、言語経済に組み込んでしまったら、「ホトバシリ」が抑制されてしまう気がするからです。
 「幸せは分かち合うと二倍になる」などというウソくさいフレーズが繰り返されるのは、普通は分かち合いたくないからです。湧き出る秘密の泉を見つけたのですから、なるべくそっとしておいて、枯れ果てるまで幸せを汲み尽くしたいのです。
 そんなわけで、おめでたいことは「群発」なんて絶対しないのではないのでしょう。
 そういうことが沢山起こったら、なぜ起こっているのか、など無粋なことを考えて神様がスネてしまわないよう、とにかくそっとしておくのではないのでしょうか。


追記:
 最後に触れた問題について、非常にわかりやすく書いているのが最近の中沢新一さんですが、これについては必ずしも肯定的にだけ考えていないので、機会を見てちゃんと書きます。
 また「うまく行っている時には原因を考えない」ということは、逆に言えば「原因とはうまくいかない時にだけ思考されるもの」ということです。これについてはとりかえしのつかないこと、「どうしてこんなことになってしまったのか」を参照してやってください。

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