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2006年12月20日

日本のムスリム社会、日本人ムスリム

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『日本のムスリム社会』 桜井啓子『日本のムスリム社会』 桜井啓子

 日本のイスラーム関係研究者でも、日本におけるムスリムの実態について知悉している方というのは、ほとんどいらっしゃらないのではないでしょうか。「日本のムスリム社会」というポイントはかなり鋭いところに目の付けています。おそらく本国のイスラーム史研究やムスリム社会研究以上に困難で、かつ評価されにくそうな仕事に心血を注がれている著者に、まず敬意を表したいです。
 日本のムスリムと言っても、宗派的な相違もあれば、国籍的には様々です。主たる出身国にはパキスタン、バングラデシュ、インドネシア、イランがありますが、このうちイラン出身のムスリムだけちょっと毛色が違う、というのが新鮮な発見でした。
 シーア派とスンニ派という違いもありますが、そもそもイランは戦争による疲弊があったにせよ、基本的には豊かな産油国です。そこからやむを得ず出稼ぎに来ていた方たちは、教育水準も高めで、帰国してからは肉体労働等に従事していたことを隠しているケースも多いそうです(イラン人は肉体労働を侮蔑する傾向が強いらしい)。
 他にも、モスク建設の困難、宗教的慣習と仕事との両立、食べ物や断食、結婚から葬儀、墓地の問題に至るまで、日本で暮らすムスリムの日常について垣間見ることができます。
 その辺りは直接本書に当たっていただくのが手っ取りはやいと思うので(サクサク読める新書です)、個人的にハッとしたポイントを一つだけメモしておきます。
 日本人ムスリムの問題です。

 「むすびにかえて」で筆者は、学生を対象に行ったムスリムに関するアンケートについて報告しています。このアンケートは「日本にモスクがあることを知っているか」等の認知度を調査するものですが、「ムスリムとの共存は可能だと思うか」といった問いには、「日本人はもともと宗教に無関心なのであまり気にしない、一つの文化であると考えれば特に問題ないといった答えが目立った」としています。実際、身近にムスリムが生活する状況になっても、すぐに慣れてどうとも感じなくなるケースがほとんどなのではないかと思います。職場に豚肉が食べられないパキスタン人がやって来ても問題になるとは思えませんし、「礼拝の時間があるので就業時間を少しズラせないだろうか」と相談されても、職種と環境によっては融通してもらえる場合すらあるでしょう。
 しかしここで、筆者は重要なポイントを指摘します。

 ところが同じようなことが日本人ムスリムに対する視線についてもいえるだろうか。仮に外国人ムスリムと日本人ムスリムが、それぞれ会社の上司に勤務中の礼拝や職場におけるヴェール着用を申し出た場合に、同じように受け止められるであろうか。外国人ムスリムに対しては、「外国人」だからという諦めから許可される可能性がある。あるいは彼らは余りにも異質であること、また現時点では圧倒的少数者であるために「例外」として許可されるという可能性もある。こうした態度は、おそらく彼らが日本人のようになるとも思えないし、また彼らの持ち込む異文化が日本のシステムや価値を揺るがすようなものではないと言う確信から生まれるものであろう。
 しかし同様の要求を日本人ムスリムがした場合には、同じような対応は期待できないかもしれない。日本人のクセに職場に宗教を持ち込むとは何事かと言う否定的な評価を得る可能性の方が高いかもしれない。ここにはムスリムの宗教的義務を「外国の習慣や文化」とみなすか「宗教」とみなすかという判断の相違が見られる。

 非常に興味深いです。
 以前テレビで放送された同性愛者に関するあるアンケートでは、特に若年層においては同性愛を「気にしない」という回答が過半数に至っていました。ところが「家族が同性愛者だとわかったらどう思うか」と質問を切り替えると、途端に反応が逆転したのです。
 わたしたちは、自分のカルチャーの「外」にあるものについては、多少異質なものが目に入ったとしてもそれとなく受け流せます。むしろ受け流すことで、相互不干渉による安全を確保しているとすら言えるでしょう。
 しかし一度異物が「防衛ライン」を越えてくると、事情は違います。さらに「内」だと思って安心しきっていた対象に「外」の要素が見つかったときには、パニック的な反応を起こすこともあります。別段日本人に限ったことではないと思いますが、わたしたちの文化にはとりわけその傾向が強いように感じます。
 日本人ムスリムに対する「不寛容」を自らのうちに発見すると、実は外国人に対する「寛容」など、少しも「心の広い」ものではないことがわかります(「寛容と理解を踏みにじれ」参照)。痛くも痒くもないものを「受け入れ」たところで、恩着せがましく映るだけです。
 もちろんこのような「寛容=無関心」が悪いと言っているわけではありません。ともあれそれはお互いの安全を保障する術策なわけですし、出会う異物に一々全精力を傾け対峙していては身が持ちません。特に都会に暮らしていれば、異物をフィルタリングする技術に嫌でも長じてしまいます。

 と、ここまで書いたところでハタと筆が止まりました。
 実はこの本を読んだのは一ヶ月くらい前なので、筆が止まったまま放置していたのです。
 殺す気で向き合う、というのはかなりカッコイイ姿勢ですし、そう訴えたいところですが、一方で「外国人だと思うと許せちゃう」という方にも緩い希望がある気がします。
 最近の自分が割りとそういう流し方に長けてきたせいかもしれません。というか、実はほとんどの地球人はわたしよりずっとそういうスルーの技術に優れている、ということにやっと気付きました(笑)。
 下手に「内」などあると思っていると、侵略されて慌てることになります。「内」なんて最初から信じなければ、多少ヘンテコなものがそばに来てもへいちゃらです。土足禁止にするから汚れが気になるようなものです。

 もっとマトモにエントリを締めることもできるのですが、なんとなく最近、幽霊のように世界を眺めて心穏やかになるコツみたいのを掴んできて、あえて意味不明な終わり方にしてみます。

 ちょっと山椒魚戦争

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