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2006年12月29日

進化しすぎた脳、タブララサのパラドクス

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『進化しすぎた脳  中高生と語る「大脳生理学」の最前線』 池谷裕二 長崎訓子『進化しすぎた脳』池谷裕二

 脳科学の入門書ですが、異様にわかりやすいです。
 この本を知ったのは無秩序と混沌の趣味がモロバレ書評集さんでなのですが、買って読んでみようとまで思わせたのは件のエントリにあった「ウェルニッケ野?ニューロン?ああ、もううんざりだ」というフレーズです。グッときました。
 脳の話って面白いんですけれど、もうホント、あの入門書にある脳の地図にはゲンナリします。
 でもこの本はスゴイです。
 実際に中高生を相手に行った講義をベースに作られているのですが、掴んで引っ張っていく語りの力が素晴らしいです。著者が研究者としてどういう方なのかはまるで存じ上げないのですが、少なくとも教育者としては一級だと思いますし、人間として魅力的な方なのでしょう。
 この本のわかりやすさについては上の書評やらアマゾンのレビューでも話題にされているので、個人的に気になったポイントだけ、例によってかなり脱線してメモしておきます。
 脳の可塑性と身体、「宿命」を巡る伝統的な二項対立についてです。

 本書第一章末尾に、コンピュータと比べた場合の脳の特徴は「自己組織性」にあり、脳の性能は身体に拠っている、という箇所があります(対話形式のテクストなので、以下の引用は要約です)。

 生まれながらにして指がつながったまま生まれる人がたまにいる。そういう人の脳を調べてみると、五本目に対応する場所がない。つまり、ヒトの体は指が五本備わっていることを脳が予め知っているわけじゃなくて、生まれてみて指が五本あったから五本に対応する脳地図ができた。脳の地図は脳が決めているのではなく、身体が決めている(p88)

 脳だけ見るとイルカの脳はすごく高性能だが、イルカには手もない。指もない。身体が人間ほど優れていなかったために、イルカの脳は十分に使い込まれていない。(p89)

 動物の脳の特徴のひとつはハードウェア、つまり身体だ。身体とその実行系である脳が密接に関係していること。キーボードを取ってしまってもコンピュータの実体は何も変わらない。(だが)腕を取ってしまうと脳自身が変わってしまう。つまり、生まれ持った体や環境に応じて、脳は「自己組織的」に自分を作り上げていく。(p90)

 クロマニヨン人の子供を現代に連れて来て育てても、ちゃんと育つだろう。脳そのものよりも、脳が乗る体の構造とその周囲の環境が重要。(p96)


 この議論そのものは別段目新しいものではありません。しかしここには、人の能力と本性の可塑性と動かし難さ、さらに宿命と意志、経験論と合理論のパラドクスがわかりやすく表れているように感じられます。
 ブランクスレート(白い石版)という考え方があります(註)。教科書的西洋哲学史に馴染んでいらっしゃる方にはタブラ・ラサと言った方が通りが良いでしょう。要するに「生まれたばかりの人間はまっさらの石版のようなもので、どういう人間になるかは環境や教育が決定する」という考え方です。
 環境や教育が人間性に影響を与えることに異論を挟む人はいないでしょうが、環境「だけ」が決定するのか、どの程度環境因子が重要なのか、様々な立場があり得ます。
 ここで取り上げたいのは、生物としての人間がどれほど環境決定的か、ということではありません。環境が決めるのか生まれながらに決まっているのか、という議論は有史以来形を変えて繰り返されているものであり、また教科書的な例を挙げるなら「大陸合理論とイギリス経験論」などとされる模式的対立軸も一ヴァリアントと言えます。
 言うまでもなく、人間の性質には環境が決めている要素もあれば生まれながらのものもあります。重要なのは、この間の議論の揺れであり、この議論の「終わりの無さ」です。
 二十世紀というのは、比較的「ブランクスレート」「タブララサ」「経験論」に傾いた時代であったようです。少なくとも、その終わりの四半世紀に育ったわたしの受けた教育は、「育て方や本人の努力が決める」「頑張れば運命を乗り越えられる」といったトーンが優勢なものだったように感じます。
 一方、より短いスパンでこの頃のご時勢を見ると、大分反動というか、揺り戻しが来ているようです。精神分析が廃れ遺伝子工学が発達し、「ゲイ遺伝子」探しがまことしやかに語られ、出生前診断が現実化し、ナショナリズムが幅を利かせ、石原さんや小泉さんが人気者になる(笑)。これらを一括りにしてしまうことはもちろんできませんが、ものすごい大雑把に言って、決定論的・宿命的バイアスが回復気味ではあるでしょう。

 この非常に暴力的な二項対立を前提に考えた時、一見上の議論は「ブランクスレート側」「頑張れば報われる派」に見えます。指が癒着してしまった人を手術で分離したところ、それに相当する脳の部位が急速に発達した、という記述もあります。
 一方で、その脳の能力は身体や環境に「制限される」とも言っています。これは「足枷」「ボトルネック」を脳から身体へ移動させただけのようです。しかし重要なのは、一方に「可能性」があり、同時に「制限」がある、という構図そのものです。つまり「可能性は、常に制限された可能性としてしか与えられない」ということです。
 可能性はあります。自由に書き込める石版はあります。
 しかしその可能性が「目覚めた」時、わたしたちが手元の石版に目を落とした時、既にそこには消しようもない落書きがいっぱい書き込まれているのです。可能性は常に事後的にしか発見されず、しかも発見された時には閉ざされているのです
 「あの時、あちらを選んでいれば・・」というのは人生の様々なジャンクションについて語れる物語ですが、その時正にその瞬間に「選択肢」として把握できたものは、今振り返って考えるプレーンな地平とは異なります。この差異は、俯瞰図とパースペクティヴの違いです。
 本書の主題に引き戻して語ってみるなら、おそらく脳というものは、プレーンなロジックを展開するようにできているのでしょう。可塑的である、身体条件も含めた広義の環境に高い適応性を持つためには、「決め打ち」を最小限に抑えるよう設計されている必要があります。脳はプレーンなロジックを快楽として感じ、それを環境にフィードバックしようとします。養老孟司さん的に言うなら「脳化」ですが、都市とは正に脳のロジックを物理環境に返したものです。整備された街区、地下鉄の路線図。もっと言ってしまえば、空間を超越している(と夢想される)webの世界は、脳化・都市化をさらに一段加速させたものでしょうし、そもそもコンピュータという構築物こそ「プレーンなロジック幻想」の究極のものです。
 しかしこの脳を作り上げたのはその前に存在した環境=身体です。biosがなければOSも立ち上がりません。webの無時間・超空間性はLANケーブル一本で見事にひっくり返ります。ではやはり「宿命」には逆らえないのでしょうか。遺伝子は絶対で、カクサシャカイなのでしょうか。
 重要なのは、「逆らえない」と思考するのもまた脳であり、<わたし>だ、ということです。
 この「逆らえなさ」は、本当に物質的で手詰まりな「逆らえなさ」ではありません。もしそうだとしたら「逆らえなさ」について語ることすらできないはずです。
 プレーンであるはずのロジックの中で語り始めてみたら、「なんだ、可能性とか言って全然ウソじゃないか、汚れまくってるじゃないか」という「逆らえなさ」です。つまり、この「逆らえなさ」、一見するとプレーンなロジックの反対物であるような「合理論」「決定論」もまた、事後的に発見されるものなのです。
 「動かし難いもの」は確かにあります。しかしそれは、余りに「動かし難い」ので、それとして取り出し語ることもできないのです。
 ラカニアンには<現実界>とか言えばスッキリするのかもしれませんが(笑)、この頃流行の「<現実界>トーク」は、極めてイマジネールなものに他なりません。

 というわけで、結論としては別段どちらに肩入れするわけでもありません。
 ただ心理として「揺り戻し」の流れは理解できますし、1980年代というかなり「タブラ・ラサ寄り」な時代に、非常にモラトリアム的・脳的な育ち方をしてしまったダメダメ人間としては、何がなんだかさっぱりわからなくなってしまったとき、物質的で数字になるものに帰ってみる、というバランスの取り方も使ってもいます(そういう時に「ココロ」に行くのは最悪の選択)。
 ただ、少なくともそれが一種の「賭け」であって、ツールの一つにすぎない、ということは自覚しているつもりです。わたしたちの認識する身体もまた、事後的に発見されたイメージに過ぎないのですから、そこに訴えたところでルーツに直接コミットできるわけではありません。仮に「確かな宿命」がどこかに存在するとしても、目に見えて触れる環境や身体は、「可能性」が与えられた後で脳なり何なりが振り返って作ったイメージにすぎないわけで、実は過去に賭けるか未来に賭けるかという趣向の違いがあるだけです。
 身体や環境が文字通りの「動かし難いリアル」に直結しているかのようなナイーヴな右傾化には辟易する一方、サヨク的な青臭さにはもっと気分が悪くなります。
 淡い希望として、「動かし難いリアル」と「見渡せるプレーンな脳空間」の間には隙間がある、という点があります。
 箱庭を出たら即お先真っ暗なのかというと、この間にはパディングというか、DMZのような領域があります。
 そこは「触れば思い通り」なロジックでは動いてくれないのですが、まったくの壁というわけでもありません。
 とりあえず寝てみるとか、ストレッチしてみる、といったテキトーな空間です。
 ここに賭けてみたところで儲けが約束されているわけではないのですが、脳と運命に凝り固まりかけたら、お賽銭を投げてみるのも一興です。
 「そう、あの時のあれが良かったのかもしれない、どうしてそうなったのかはよくわからないけれど、あれがなかったらきっと上手くはいかなかっただろう。今となっては確かめようもないことだが・・・」。



 ブランクスレートというのは、同じく無秩序と混沌の趣味がモロバレ書評集さんが取り上げているスティーブン・ピンカーのタームのようです。多分英米圏ではタブラ・ラサ英語版が通俗化し流通していて、これをタームとしてまとめたものなのでしょう。

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