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2007年01月03日

『ウィトゲンシュタインと精神分析』、自然にしていたら自然にできない

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 久しぶりに本屋さんで現代思想関係のコーナーに行き、なんとなく手に取った一冊。

『ウィトゲンシュタインと精神分析』 ジョン・M.ヒートン JohnM.Heaton 土平紀子『ウィトゲンシュタインと精神分析』 ジョン・M.ヒートン JohnM.Heaton 土平紀子

 一頃「ウィゲンシュタイン」「フロイト」等、思想家の名前をズバリタイトルにした概説書シリーズがあちこちから出ていましたが、それもネタが尽きたのか(笑)、岩波の「ポストモダン・ブックス」は「ダナ・ハラウェイと遺伝子組替え食品」や「ハイデガーとハバーマスと携帯電話」等と合わせ技で攻めています。
 この手の平べったい本には批判の向きもあるでしょうが、最近わたしが思想関連の書籍に期待するのは、思考の触媒になってくれることくらいなので、そういう意味では結構役に立ちました。

 小気味良い文体で翻訳もなかなかテンポ良く、とにかく薄くて字が大きいので(笑)一時間とかからず読み終えられます。
 大雑把に言って、いわゆる「後期」ウィトゲンシュタインの立場からのフロイト批判です。
 フロイトがガチガチのモダニストで心的現象の背後に「真の」原因を探り解き明かそうとしたのに対し、ウィトゲンシュタインは言語の使用局面・生活様式に着眼した、といった、割とありふれた内容。
 わたしたちが「喜び」を感じているとき、どこかに「喜び」に対応する実体があるのではなく、「喜ぶ」態度が存在する。そして「喜ぶ」態度が自然なコミュニケーションの中で端的に「喜び」として位置づけられているのであり、たとえ「喜んでいるフリ」があり得るにしても、態度の向こうにその前提となる「本体」が控えているわけではない。
 このようなモデルは、少なくとも今日的に見ればむしろ当たり前のことです。最近は一周回って「ゲイ遺伝子」「男脳女脳」などを大真面目に語るアルツな方々も流行っているので、追撃をかけておく値打ちはあるのかもしれませんが、こと言語について「まず使用ありき」というのはむしろ一般的なものの見方になっているでしょう。
 『ウィトゲンシュタインはこう考えた』について書いたときにも触れましたが、「ありのままでいいんだ!」的思考停止の用具にウィトゲンシュタインの名が使われてしまう方が余程心配です。
 本書では、「知」を武器に人間精神を「解読」しようとするフロイトの態度が、パラノイア的と批判されています。

精神の想像上のメカニズムに関する知識を蓄積することが、人間を理解する「嗅覚」を発達させるための最良の方法なのだろうか。あたかも精神世界に関する知識を提供するかのようになされる解釈は、パラノイアそっくりだ。というのも、パラノイア患者は、他人と打ち解けることが出来ず、それゆえ、知ることを渇望してやまないからである。患者は、他人の心の中にあるものを知ろうと努めるが、空回りしてしまい、延々とかんぐり続けるのである。(p56)

 しかし「パラノイア的」というなら、およそウィトゲンシュタインより「パラノイア的」な人物もなかなかいません。そしてフロイトの理論が「パラノイア的」であることは、(彼の「弟子」たちはともかく)フロイト自身が一番感じていたでしょう(フリースへの書簡にそうした心の揺れを示すものがあった気がします)。
 ここにあるのは、現象の背後に真の「原因」やメカニズムを発見しようとする態度と、現象そのものを「自然に」受け止めようとする態度、という単純な二項対立ではありません。「穿った見方をするな、ありのままにすれば大丈夫なんだ」などと言ってもどうしようもないですし、そんな結論で許されるのは山下清くらいです。
 重要なことは、少なくともある種の人びとは、「自然」にしていたら「自然」にできない、ということです。
 行進をする時に右手と右足が一緒に出てしまう人に対し、右手と左足を出せる人が「リラックスして自然にするんだよ」と言ったところで、そんなアドバイスはちっとも役に立ちません。なぜなら、右手と右足を一緒に出してしまう人は、「自然に」そうなってしまうことで困っているのですから。
 ウィトゲンシュタインは哲学を潜水に例えていますが、これはなんとか水面に出ようとするもがきであって、余裕で浮かんでいられる人々が気まぐれで楽しむ水中散歩ではありません。「後期」のテクストが、現象と言語の使用・生活様式に着眼したものであったとしても、本当にただ「自然に」生活しているだけの人であれば、そもそもあんなことをご大層に論文にまとめたりはしません。それはstatementの迷宮にはまり込む愚をいさめるstatementであり、その前提には究極のstatementsとも言える「前期」の世界があり、こうした軌跡の全体が彼にとっての「治療」だったのです。
 ですから、「治療」を求める人びとに必要なのは、「自然にしなさい」という教えではありません(註1)。彼らは、自分には手の届かない「自然さ」を獲得すべく、(「自然」にできる人にはまったく意識する必要のない)背後のメカニズムを解き明かそうとするでしょう。
 「正にそれこそが後期ウィトゲンシュタインの批判している態度ではないか」と言われるでしょう。しかし、無批判的には理解しがたい何かを了解あるいは習得しようとするとき、その現象をわかりやすい動因に解きほぐして考えようとすることは「自然」な方法です。そもそも、この方法はわたしたちが当たり前に行っている抽象化のメカニズムそのものです。抽象化とは言わば「圧縮」であり、複雑すぎる現象を単純なロジックに還元する象徴化により、端折って処理することです。「自然」な人びとは、パラノイア親和的人物を「ややこしい理屈をこねている」と感じますが、物事をややこしく考えていては追いつかないからこそ「背後」を考えるのです。

 では「パラノイア的解釈を極限まで進めよ!」と言いたいのかというと、そうではありません。
 自然さを習得しようと周天円的理論を重ねるうちに、ますます「自然」から遠のいてしまう、ということが往々にしてあるからです(逆に言えば、例えば統合失調症における妄想形成は、適応のための苦肉の策であり、既に治癒への一ステップであると言えます)。
 パラノイア的解釈が「治療」として本領を発揮するのは、それが「他人の理論」である時です。
 フロイトのテクストは、今読むとちょっと滑稽なばかりに独断的です。ただ、少なくとも当時の世間一般の人びと(実際には一部知識人)にとってショッキングな「解釈」であったことは事実でしょう。今のわたしたちが字面どおりのフロイトに辟易するのは、既に通俗化したフロイト解釈に慣れ親しんでしまっているためです。
 解釈が「他人の理論」であるとき、わたしたちは違和感を覚えます。ハッとします。「何コレ」と感じます。
 重要なのはこのズレの感覚であり、アスペクトの揺らぎです。
 パラノイア的解釈が個の中で閉じている限り、揺らぎは生じず、むしろ暴走につながる危険があります。
 解釈は「ご自宅用」ではないのです。
 実際、ウィトゲンシュタインもフロイトのテクストに違和感を感じ、自らの治療へと「反映」したわけです。

 逆に方法論が方法論として独立してある必要のある限りでは、ウィトゲンシュタイン的スタンスの方が安全でしょう。ウィトゲンシュタインのテクストは非常に「説明書」的だと思いますが、あれは「ご自宅用」に作られているのです。
 泳げない人の「潜水」が説明書一つで何とかなるかというと、かなり厳しいものがあるでしょうから、あまり「ご自宅用」で乗り切るのはオススメしません。それでも何とか一人でやる必要のある場面もあるでしょう。そういうときはフロイトよりウィトゲンシュタインです。もっと良いのは森田療法です(笑)。

 初期フロイトのベタベタな方法がうまくいった時期というのが現実にあった、とわたしは考えます。
 そしてある時からどうも通用しなくなった、ということを確かフロイト自身がどこかに書いていたように思います(ことごとくウロ覚え)。
 つまり患者たちがより狡猾になり、直球勝負ではハッとしなくなってしまったのです。
 そこからフロイトの理論はより動的・再帰的な方向へとグロテスクに開花していったのでしょう。そういう意味では、すべからく「計算ずく」な憎たらしいラカンは、確かに正当にフロイディアンなのだと感じられます。

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