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2007年01月04日

『ラカンとポストフェミニズム』、性別化の定式

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『ラカンとポストフェミニズム』 エリザベス・ライト 椎名美智『ラカンとポストフェミニズム』 エリザベス・ライト 椎名美智

 『ウィトゲンシュタインと精神分析』に続いて岩波の「ポストモダン・ブックス」シリーズ、『ラカンとポストフェミニズム』。
 こちらもペラペラで字が大きい素晴らしい本で、同じく一時間くらいで読み終わりますが、同様に一時間でわかるかというと、そうでもないところがちょっと違います(笑)。
 ラカンとフェミニズムと言えばセミネールXX「アンコール Encore」。
 「女は存在しない」とか「性的関係は存在しない」といったラカンのセンセーショナルな台詞が取り上げられるたびに引っ張り出されるセミネールで、狭い意味での性別や性差に関心があり、かつうっかりラカンに興味など持ってしまった人間は必ず読むハメになる定番の一冊です。
 未だ邦訳が存在しないので、小賢しい大学生は原書と英訳をひっくり返しながらゼミで順番が来る日に怯え、「フランス語でも英語でも日本語でもわからないものはわからない」と悟りを開く、というお約束になっています。
 色々な場所で引き合いに出され、エライ先生が当然のように引用するので、何とかウラを取ろうと頑張るのですが、エライ先生がセミネールXXから自説に至った間の秘伝がいつも見つけられない。本当はエライ先生もよくわからないままビクビクしつつ喋っているのですが、ラカンを読もうなどというボンボン学生は大抵世間知らずでムダに頑張り屋さんなので、悟りが開けるまで格闘してしまったり、開けないまま病院に入ってしまって奇しくも精神療法の現場と別の形で向き合うことになったりします。
 『ラカンとポストフェミニズム』でもおなじみの性別化の定式が取り上げられ、簡単な解説が付されています。性別化の定式は見た目にキャッチーなお陰でアチコチでネタにされるのですが、日本語入門書でわかりやすく取り上げているものがあまり見当たらないので、そういう用途では良い本なのではないかと思います。

 フェミの関係でラカンが話題にされるときの面白さは、割とアメリカンというか、社会構築主義的ユルいノリとラカンを折衷させたような言説が見られるところです。ガチガチのラカニアンは毛嫌いするでしょうが、市井の人間がラカンのテクストに触れようとした時には、こうした世俗的語りの方が入っていきやすいように思います。当然、それが妥当で正確な読みなのかと言うと疑問もありますが、ラカンがちゃんと読めなくても会社をクビになることはありませんから、安心して誤読しましょう。むしろ正確に読もうとしているうちにクビになる可能性が高いです。

 性別化の定式ですが、Google様にお伺いを立ててもやたらPDFがヒットし、日本におけるラカンが大学人のオモチャにすぎないことを再認識させられるのですが、萩本医院様のページ藤田博史先生のページが割と参考になります。藤田先生は『テレヴィジオン』の翻訳者で、いかにもラカニアンな怪しいトークをされる方ですが、著書はわかりやすいですし、個人的にはちょっといかがわしいところが結構好きです(笑)。
 その藤田先生のところから画像を頂戴すると、性別化の定式というのはこういうヤツです。

性別化の定式

 左が男の子、右が女の子。
 男の子の方は非常にわかりやすいのに、女の子の方がなかなか理解できずに戸惑います。
 男の子については「去勢を被らないものが少なくとも一つある」「すべてがファルスの機能に服従する」、つまり唯一の例外(原父)がある故に、すべてがファルスの法に従属する、ということになります。すべてが法に従うためには、法自体を定めている集合の外部が必要であり、キレイに話にオチがつき、去勢により分離された部分対象(対象a)を「別の性別」に期待することになります。
 ここまでのところでも、男性が女性を理解する上で非常に役立つと思われる点があります。つまり、女性が男性に求めるのは、少なくともそのような幻想(自らに享楽を禁止している対象)ではない、ということです。そういうものを女は男に全然求めていない、対照的にはできていない、ということだけはハッキリします。

 さて、女の子です。
 「去勢を被るのはすべてではない」「去勢に例外は存在しない」。
 藤田先生のところでは「全てのxに対してΦの意味作用が及んでいるとは限らない」「Φの意味作用が及んでいない x があるわけではない」と書かれています。
 「去勢を被るのがすべてではないなら、例外はあるんちゃう?」と言いたくなりますが、それはむしろ男の子の方のロジックで、例外があるからすべてが去勢される。そういう意味ではなく、否定がかかっているのは全称性の方なので、ファルス機能がすべてには及んでいない、ということです。では及んでいないものがあるのかというと、そういうものがあるというわけでもない。要するに「どっちやねん!」という「ないない」なことしか書かれていないわけで、つまり「女性」と呼ばれるものがある種の開放集合であることが示されています。
 特定の例外というものが存在しない。つまり「原父」のようなものはない、それが故に全体的にもうすぼんやりしていて、法に従属するかもね、でもしないかもね、フンフーン♪みたいな感じです。

(・・・)これは、女性は象徴界に「まったく入っていない」という意味ではなく、女性の側には普遍的な肯定的命題はあり得ないという意味である。女性の側は存在するが、男性の場合のように、輪郭のはっきりした一つの集合として存在するわけではない。だからこそラカンは「絶対的な女性は存在しない」といった誇張した表現を使っているのだ。
 図の下の部分が示しているように、女性には、それに加えてさらなる可能性がある。つまり、女性はファルス機能に服従することによって確かに去勢されてしまうが、同時に、斜線で消された他者というシニフィアンS(A)とも関連付けられるのだ。「A」は他者(Autre)を表し、斜線は他者の中の隙間や欠如を表している―象徴界で約束された報酬が保証されていないことを認識している印である。このように、女性は象徴界の内部に全面的に入っているわけではないので、その結果、それを補足する享楽を味わうことができるのだ。これはファルス機能に課せられた去勢とは無関係のもの―去勢が忘却している享楽―である。
『ラカンとポストフェミニズム』p34※

 「絶対的な女性」という表記はLa femme(The woman)の定冠詞Laに斜線が引かれていることの苦肉の表現。フランス語の定冠詞には全称性を表す機能がありますから、「女性なるもの、それは存在しない」「これが女性だ!というのはないよ」といったニュアンスです。
 さて、その斜線を引かれた女性定冠詞からは、男の子の側のファルス機能に対して矢印が伸びています。
 つまり女性が男性に見るのは男性が女性に見るような「対象」ではなく、自らを去勢する(去勢した)ファルス機能なわけですが、女性が「失われた対象」などではない(女性には常に男性がフィルタの内側しか見ていないように見える)のと同様、男性も法ではありません。むしろ去勢されその法に従属するものとして男性は既定されているわけですから「そんなものこっちが知りたいよ!」「オレのせいにされても困る」というわけです。
 面白いのは、上記引用にもあるように、斜線を引かれたLaからはS(A)マテームにも矢印が伸びていることです。
 S(A)は「大文字の他者は存在しない」。
 誤解を恐れずに思い切り噛み砕いてしまうと、例えば子供にとっての母は全能ですが、その母も普通の人間ですから、完全ではない。わたし風の言い方をさせてもらうなら、「箱庭」的ロジックを取り仕切る絶対の法はない。つまり、この世の秩序というのは大切で、ルールはそれなりに信頼に足るけれど、その妥当性を保証してくれる絶対的第三者というのがそれ自体で存在することはない、ということです。
 人間は「箱庭」で生きるから人間なのですが、実はその「箱庭」のために頑張って法を守っても、報われる保証は全然ないのです。その向こうにあるのは享楽jouissanceですが、これはいわゆる「快楽」ではなく、言ってみればモノがモノである悦び、斜線を引かれた主体となることで手放さざるをえなかった「存在」自体であることです。死の享楽とでも言えばわかりやすいかもしれませんが、さらに引き下ろしてしまうと「惰眠」とかが近いように思います(笑)。
 これは父と去勢のロジックのまったく外部にあるもので、女性の側はファルス機能に対して幻想を抱くこともできるけれど、もうすっかりそんなものは放置してしまって、別のものに向かってしまうこともできるよ、ということがここでは示されています。それはS(A)であり、母に足りないものは父が持っている、という形で普通の男の子のエディプス三角形は完成するのですが、不足を父=法が握っているというのはまったくの幻想で、もしかするとそんなものとは全然関係ないものが鍵かもしれない。あるいは、別に埋めるものなんて最初からなくて、「箱庭」の外にはただただ砂漠が広がっているかもしれない。砂漠の「惰眠」かもしれない。そういうことをこの二股の矢印は示唆しているように考えられます。

 個人的に、性別や性差についてのラカンには特に興味を持っていたので(過去形w)、『ラカンとポストフェミニズム』はそれなりにエンジョイできました。よくわからないな、と思ったら二度三度読み直してください。薄いからすぐ繰り返せます
 念のためですが、上記解釈がまるで見当外れの可能性は大いにあります。もっと信頼できる「法」が欲しい方は、エライ先生にお伺いを立てて下さい。「オレのせいにされても困る」と言われるかもしれませんし、法に殉じて顔色一つ変えずに男を見せてくれるかもしれません。
 ちなみに性別化についてはR・シェママの『精神分析事典』の記述もわかりやすいです。これはちょっとでもラカンに興味を持ってしまった可哀想な人必携の本なので、お高いですが絶対ゲットしておく値打ちがあります(わたしが持っているのは旧版ですが)。


『精神分析事典』 ロランシェママ ベルナールヴァンデルメルシュ 小出浩之 新宮一成 小川豊昭 加藤敏 鈴木国文『精神分析事典』

『On Feminine Sexuality the Limits of Love and Knowledge: The Seminar of Jacques Lacan, Book XX Encore 1972-1973 (Seminar of Jacques Lacan, Bk 20)』 JacquesLacan AlainMiller BruceFink
『On Feminine Sexuality the Limits of Love and Knowledge: The Seminar of Jacques Lacan, Book XX Encore』

※引用文中で取り消し線で表記したものは、原典では斜線を引かれているものです。斜線を引く手っ取り早い方法が思いつかなかったのでとりあえずこう転記しておきました。
 またボールドの「他者」は原典でも太字になっている部分ですが、これは「Autre」とキャピタライズされているもので、邦訳では「他者」「<他者>」「大文字の他者」など色々な表記があります。文中で「大文字の他者」としているのは「他者」と同義です。
 なお「大文字の他者」とは、「他者」という言葉から一般に連想されるような「話しかけることのできる対象」とは異なります。『ラカンとポストフェミニズム』末尾の用語集では「発話をする主体を確定するものであり、象徴界そのもの、すべての欲望の前提とされている場を象徴する」とありますが、これではさっぱりわかりませんね(笑)。
 例によって誤解を恐れずにぐちゃぐちゃに噛み砕くと、大文字の他者とは語らいの場そのもの、言語という地平、わたしがわたしとして語りだす以前にわたしを語っていた「みんな」のようなものをイメージするとわかりやすいです。
 「みんな」はAさん+Bさん+...という個人の集合に「集合そのもの」という剰余がプラスされたものです。何か余りがあります。この余りがあるからこそ「みんな」は「Aさん+Bさん+...」以上の何かであり、例えば神様などもこの仲間なわけですが、余りそのものを抽出し「コレ」と言うことはできないがゆえに、大文字の他者を示すシニフィアンには斜線が引かれています。とわたしは解釈します。

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