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2007年01月06日

「誰が書いているか」派と「何が書かれているか」派

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 suVeneのあれさんの「文章から人格を読む人・読まない人」というエントリがなかなか面白いです。

 ネットを徘徊しているとたまに見かけるのだが、興味深い価値観がある。それは「文章(ブログ)を書いている人物の人格を想像、又は知ること・観察することが楽しい」という価値観である。何が興味深いかというと、俺にはほとんど皆無である価値観だからに他ならない。

 ブログのエントリ等から、その著者の人格(人格の一貫性)を読み取るかどうか、ということですが、もう少し一般化すると、事象を行為者という観点から抽象するか、別の視点から抽象するか、という違いだと思われます。
 著者が書かれている通り、「誰が書いているか」と「何が書かれているか」のいずれに重点を置くか、ということです。
 また「『人間観察』に興味が無いということとは少し違う」とされていますが、おそらくこれは、行為者や語り手自体、例えば「インド人の○○さん」とか「営業職の○○さん」といったように抽象してから整理する、ということだろうと思います。
 もちろんこういうタイプの方が個としての人間を認識できないとかまったく関心を持てないということではないですが、確かに重点の置き方には個人差があるでしょう。
 以前「ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる」「webのフラットさによる暴力はweb自体によって去勢されるという微かな希望」で著者と言表内容の関係について考えてみましたが、こうした構造的問題とは別に、個人の特質によるバイアス、という見方もあるわけです。

 しかしこの「特質によるバイアス」がただの個人差として終わってしまうかというと、もう少し面白い部分が残っているように思います。
 というのも、例えば「自分語り」に関心が薄いという内容の件のエントリ自体が、ある種の読者にとっては彼の「自分語り」になっているからです。少なくとも、どちらかというと著者が気になってしまうタイプのわたしにとっては、素晴らしい「自分語り」です(念のためですが、おちょくっているのでも非難しているのでもありません)。
 つまり「自分語り」が好きな人(≒「誰が書いているか」派)がそれとして企図している「自分語り」と、そうではない人が期せずして発してしまう「自分語り」(結果的自分語り)があるわけですが、ある意味後者の「自分語り」の方がより「自分語り」である、と感じられます。前者の「自分語り」は、当人の「人となり」を表しもいますが「自分はこう見られたい」や、さらにメタ化した「こう書いたらこう受け取るだろうから、先回りしてこう書く」等の複雑な思惑が織り込まれているため、プレーンな「自分語り」とは言えないからです。
 では例えば件のエントリであれば純粋な「自分語り」(既に従来の意味からは逸脱した「自分語り」)なのかというと、そうでもありません。
 いかに著者性に興味のない方のテクストであれ、それが「見られる」ということを意識しないわけではありません。見られた結果、そこに見出された諸属性が自分と言う人格に帰せられるのか、別のものにバインドされるのか、予想する方向にバラつきはあるでしょうが、読まれることが一切織り込まれていないテクストというのは考えにくいです。
 もっと言ってしまえば、「ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる」でも触れたように、テクストは常に「最後の解読者」を暗黙に想定するものです。著者自身にとってもこれは同じで、共通のディスクールとして言語経済に書き込まれた瞬間から、例えば「天網恢恢」の神様のように読解している「第三者」が入り込みます。

 ちょっと話がズレてゴチャゴチャしてきました。
 もう一つ、全然別の切り口ですが、「何が書かれているか」派と自認する著者の行動パターンに、わたし個人が非常に共感する部分が多かった、というのも面白いです。というのも、わたしは自分では「何が書かれているか」派だとは思っていないからです(※)。
 単にわたしの自己認識が甘い、というだけかもしれませんが(笑)、実は「誰が書いているか」派と「何が書かれているか」派があるというより、前者はこの二つの視点を弁別して思考する習慣がない、ということではないかと思います。
 「何が書かれているか」派が「誰が書いているか」派だと思っている人たちは、おそらく自分では「誰が書いているか」派だとは認識していません。そもそも「書き手」と「書かれている内容」というのがグチャーと一体化していて、その塊に対する反応力の方が鋭敏になっているのです。
 するとそもそもこんな分類でものを考えていること自体、広義の「何が書かれているか」派の証であって、この分類を了解しつつかつ「何が書かれているか」派を自認しないタイプというのは、マイナーなサブタイプなのかもしれません。
 ちなみにこれは文系・理系話ともちょっと共通していて、理系は「文系はこう考える・理系はこう考える」といった話題に割りと群がりますが、それを見ている文系は「理系ってそういう話好きだよね」で終わりにしてしまったりします(笑)。

 こうして見ると結局自分はどっち派なんだろう、いや「どっち派」とは簡単に言えないって今書いたところじゃない、などとグルグル考えてしまっているわたしは何なんでしょうね。
 そしてこのテクストを読んだ人は、テクストの内容で気になるところをクリップするのか、このヒトはヘンなヒトだなぁ、と思うのか、どちらなんでしょうね。


※わたしは、ブログにしても本にしても、面白いと思ったらその人が書いた別のものを読んでみようとします。一度グッと来たものを見つけると、続けざまに他の著作を読破していったりします。ただ、これは個に執着しているというより、「面白いもの」を探すとき、例えばテーマ系といった純粋に抽象的なマークで辿っていくより、書き手というまとまりで探した方がヒット率が高い、という極私的経験則によるものですが。
 ちなみに面白そうなブログを探す時も、自分のエントリに言及してくれたとか、何らかの「関心の共有」からヒトを見に行き、そのヒトが面白そうだと今度はヴァーティカルに眺めていく、という行動を取ります。
 ついでに「日記」を書いておくと、最近そういう「極私的関心人物」のブログのいくつかがあまり更新されなくなり、寂しい気持ちです。わたしはあなたのことを気にかけているのよ。更新する元気がないなら、ダラダラお茶でもしませんか。って誰に言ってる。

追記:以前『ゴルゴ13』のさいとうたかをさんが「新聞の社会面からネタを探すのではダメ、一面の記事からこそ人間を読む」といったようなことをおっしゃっていましたが、「自分語り」を自認しない結果的「自分語り」というのは、一面記事のようなものではないかと思います。個人的には、そういう「一面記事」に無理やり人格の連続性を読むのが好きなのですが(プロフやバトンにはそれほど興味がない)、要するに性格曲がっているということかもしれません(笑)。

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