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2007年01月08日

自分語り、解読されていない何か、山河

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 「「誰が書いているか」派と「何が書かれているか」派」suVeneのあれさんの「文章から人格を読む人・読まない人」というエントリを引用させて頂いたところ、その続編?的「発言の一意性・連続性や発言した意図を汲み取る為の文脈は大事」で頂戴した言及が興味深かったので、しつこくて恐縮ですがまた続き(前置き長い)。

 まず、こういう面白い話題を提供して下さったsuVeneさん(コレ、HNと解釈させて頂きます)、ありがとうございます。以下でぐちゃぐちゃ言っていますが、基本的によく整理されていて触発されるエントリでした。

 続いてエクスキューズ。
 前回のエントリで、「自分語り」にあまり関心がない、というsuVeneさんのエントリ自体が結果的に「自分語り」になっている、といったことを書きましたが、それは「こういう自分と知って欲しい」というメッセージを受け取った、という意味ではありません。正にカッコ付きの「自分語り」であり、「そこからも著者の人となりが伺える」とういことですから、そもそもsuVeneさんが話題にしたかった「自分語り」とはズレています。この点、ミスリーディングであったことはお詫びしたいです。
 わたしが指摘したかったのは「表出は意図に制御されない」ということです。意図して「表出」することもできる(いわゆる「自分語り」)のですが、そんなものはわたしたちがやむにやまれず放ちまくっている「表出」の全体に比べれば微力も微力であり、あまり大きな問題ではないのじゃないかな、ということです。
 今回のエントリを拝読すると、どうもテクストというものに対するスタンスについて、suVeneさんとわたしはそんなに違いがない、という印象を受けました。
 むしろ差異として目についたのは、「その向こうにあり、解読が困難であるとされる人格」の存在にどれほど重きを置いているか、ということです。
 多分「解読されていない何か」は存在しません。これが言いすぎだとしたら、「解読されていない何か」は「解読されていないもの」として想定されるためだけに存在します(存在が想定される)。それはルアーであり、ファンタスムの構造という意味でなら、抹消された主体(S/)をピン止めする対象aです。
 だから読み手が勝手に想定している、とも言え、「ルアーなどと言われるのは心外だ」となるかもしれませんが、もはやこのような構造は、わたしたちが日常生活で個として捉えるものたちのささやかな「意図」(自我moiという水準での)が成り立っているカラクリそのものによるものなので、「誰が」想定するという視点で考えるとわけがわからなくなるでしょう。語っている<わたし>ではなく、語られている<わたし>、「え、あたし?」と振り向く瞬間直前の<わたし>、そのようなものをイメージしてみてください(「ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる」脚注参照<タイトル長すぎ)。
 つまり、suVeneさんは「その向こう」に対し忠義深く、「まだ残りがあり、自分はそこを汲んでいない」と感じれているように見受けられるのですが、少なくともわたしから見るとそれはもう合格点で、しかもそれ以上のスコアを取るのは原理的に極めて困難である以上、「そこまでで人格って言っちゃっていいんじゃない?」という風に思われる、ということです(しかし「残りがある」と認識することは、その想定自体が非常に重要なので、「諦めろ」とか言いたいわけでは全然ないです)。

 インターフェイスと内部構造、クラスとオブジェクトの比喩を使われているので、誤読を覚悟で相乗りさせていただくと、まず、もしも内部構造が人格だとすれば、その人格は当人にとっても不分明な「人格」です。わたしたちはわたしたちがどのようにして要求されたインターフェイスを実装しているのか、自分でもわかっていません。そのような内部構造を「人格」として想定することも可能だと思いますが、一般的に言って、当人にすら覚束ないものよりはむしろ、インターフェイスそのものが「人格」だと考える方が自然ではないでしょうか。
 もちろん、自分で自分の実装を想像して「あたしってばこんなカラクリのお陰でこんなインターフェイスになってるんちゃう?」と語ることは可能で、つまりいわゆる「自分語り」になるわけですが、実装の見えていなさという点について、語っている当人と語られているわたしたちはそれほど違う立場にいるわけではありません。本人の方がいくらか多くの情報を握っている、という程度です。
 じゃぁ誰が実装してん!と言われると、「みんな」としか言いようがありません。「みんな」とは<わたし>を語ることで<わたし>をこの世界に召還した人たちのことで、一人ひとりは実装した意識などサラサラないでしょう(「みんな」については「『ラカンとポストフェミニズム』、性別化の定式」の下の方参照)。「みんな」は<わたし>を語った後どこかへ行ってしまったかというとそうではなく、言わば「みんな」(≒神様)の残響が<わたし>です。
 中学生ワールドでは「わたしあの子のこと好きなんかな? コレってやっぱ好きってことかな?」みたいな語らいがありますが、それは「好き」という極めて「内部構造-人格-実装」チックなことすら、本人にもよくわからない、ということを示しています。このとき友達に「せやで!告っちゃえ!」みたいに言われることで、「好き」が結実するのです。まぁ結果として「すっかり踊らされた」ということもあるわけですが(笑)、それは確たる「内部」が後になって判明したというより、事後的・遡及的に想定された「内部」にすぎないでしょう(「すぎない」というのは「どうでもいい」という意味ではない)。

 クラスとオブジェクト(インスタンス)という意味では、わたしたちはすべからくシングルトンのように思うのですが、どうでしょう(「個性」とかいう吐きそうな意味ではなく、責任配分や設計がまるでなっちゃいないという意味で)。
 言わんとしていることはよく理解できるのですが、この比喩は対象に対する読みのスタンスを表現するためのものと思われるので、そもそもの成り立ちを表すクラス/オブジェクトという例えはちょっとミスリーディングな気がします。
 クラスが「拡張された」と言うなら、それもまた継承クラスであり個々のインスタンスではないはずです。データの状態、ということを言いたいのであれば、それは「人格」の対応物からは外れてしまうように思います(その日の気分?)。

 対象の「読み」という意味では、多かれ少なかれ抽象化プロセスは不可避でしょうし、何らかの「自分の知っているもの」に引き付けて理解しようとするのが普通なのではないかと思います。
 これに対して「わたしはそれではない、あなたはわたしを見ていない」という抗弁はありますが、それは文字通りに「真の姿」と「抽象化された結果見落としのある像」があるわけではなく、「それはわたしではない」という行為が存在するのです。
 <わたし>が「それ」になってしまったら、オチがついてしまってサヨウナラです。わたしたちは常にそのような「決定的解決」「運命の出会い」を求めていますが、その邂逅が本当に実現してしまうと<わたし>は決着してしまい、語られ明滅しfadeし続けるものとして言語経済の中に場を許されなくなります(※)。大切なのは「それはわたしではない」と抗弁し、絡み合うことです。
 話がズレますが、これは理系男子と女子のすれ違いによくある風景ですね(笑)。理系男子はしばしば女子のグチに対して「正しい解決法」を提供しようとしてしまいますが、ぐちゃぐちゃ言ってる女はただ聞いて欲しいだけで、解決法なんてちっとも求めていないものです(多分、解決してしまっては困る)。
 まぁ、そういう風景全体が微笑ましいわけですけれど。

 ついでに、さらに話がズレつつ、「人格」のような「向こうにある何か」の想定について、よく感じていることをメモしておきます。
 こういう構造をわたしはよく「山河」と言っていて、つまり「国敗れて山河あり」の「山河」です。
 山河はですね、多分ないです。国が敗れたら終わりです。ペンペン草も生えていません。だから国はとても大切なのです。山河は常に国の向こうに想定されるのであり、国があっての山河なのです。
 まったくの偏見かもしれませんが、男性の方がより「山河」を想定する傾向が強いように思います。この間2ちゃんまとめ系サイトで「女は頑張ってキレイになった女が好き、男は遺伝子のキレイな女が好き」といった発言を見受けましたが、遺伝子のキレイな女なんていませんよ。「遺伝子からキレイに見せることが凄まじく上手い女」がいるだけです(笑)。「その才能もまた遺伝子」というなら、もう何も言えませんが・・・。
 男と女という意味でのこの辺の関係は、上で触れた『ラカンとポストフェミニズム』についてのエントリで書いていますので、もし関心があれば覗いてやってください。
 山河、あるといいんですけどね。わたしも欲しいです。山河に帰りたいです。
 でも多分ないし、「ない」と言っちゃうと死にたくなるので、あるフリして必死で国を守るんじゃないでしょうか。少なくとも、わたしはそうやって生きています。


 それにしても、こんなに喜々としてすぐ反応しちゃうわたしって、ホント休みにやることない人なのね・・・ぐすん・・・。


※この「決着」という感じについて、グロテスクなまでに正確に表現してくれている作品に町田康の『告白』があります。これについてはとりかえしのつかないこと、「どうしてこんなことになってしまったのか」という大昔のエントリで触れていますので、興味のある方はどうぞ(主にエントリ後半)。
 主人公熊太郎の言う「引き返し不能地点」とは「決着」であり、そのような「決着」は想定するだけで踏み込んではいけない領域なのです。ある意味、真面目で人に対して真摯に接する人ほど「決着」(向こうにあるもの)を信じているわけですが、その閾を越えてしまった者は人間でいることができません。

オマケ:『ラカンとポストフェミニズム』でbarre(斜線)をうまく表示できないのでとりあえず取り消し線にしておく、と書きましたが、以下のようにすればS/と主体を抹消できます。
<span style="letter-spacing:-0.5em;">S/</span>
 ちょっと苦しい、というか一文字しか消せませないし、微妙に次の文字もくっついちゃってるんですけど、需要ないと思うのでコレで良しとしておきましょう・・。

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