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2007年01月11日

あなたは誰かの運命の人

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 少し前に「あなたは誰かの運命の人」という広告コピーを電車の中で見かけました。
 こんな広告です。

 って、思い切り広告バナーですが、商売しようというわけではありません。実際にこういう写真の結婚関連の広告だったのです。もちろん、ここから結婚相談を申し込んで頂ければわたしは大変嬉しいですが。
 正確には、画面手前に女性が向き合っていると思われる男性の肩が写り込んだ、映画の構図で言うところの「肩ナメ」ショットでした。
 よくある広告かもしれませんが、この「あなたは誰かの運命の人」というコピーと写真が気になっています。

 まず、「誰かの運命の人」。
 上手いです。
 「あなたの運命の人と出会えます」ではなく「あなたは誰かの運命の人なのです」と態を入れ替えることで、運命というものの性質を見事に表現しています。
 「あなたは誰かの運命の人」というのは、「あなたは<既に>誰かの運命の人」ということです。運命とは「既に決定されたもの」ですが、受動的な表現を取ることで、<既に>が二重化され、「決められてしまって動かし難いことの心地よさ」がすんなり収まっています。
 「決められてしまって動かし難いことの心地よさ」と書きましたが、決められてしまうということは、侵害される不快感を伴う場合もあります。むしろそちらの方が一般的でしょう。
 受動的であることが不快から快に変わるのは、決定者が超越的になる時です。
 わけのわからないオジサンが、これまた渋谷で無作為抽出したような若者を連れて来て「コイツがそなたの運命の人じゃ」と言ったところで、「ふざけんな」と思うだけでしょう。
 しかしそのオジサンが何らかの強い権威を帯びていたり、さらに神様や「偶然そのもの」といった非人称のものになると、不快感が快感に反転することがあります。ただし、この反転はかなりエネルギーが必要なもので、アナログに不快が快になるのではありません。
 反転は突沸的なアスペクトの転換です。それが決定者の超越性に拠るのは、単に決定者が「偉い人」だからではなく、決定者がその背後に「人ならぬ」第三者的パワーを背負っている必要があるからです(場合によっては「大自然」「奇跡」等の「第三者性」そのもの)。
 「あなたの運命の人」では、どこまで行っても決定者は「紹介者」です。しかし「あなたは誰かの運命の人」となったとき、そう語るのは「紹介者」ではもはやありません。なぜなら、語り手にとっても「誰か」は定かではなく、「あなた」と同じ水準で運命に翻弄されているからです。
 さらにその「誰か」にとっても、あなたは依然「未だ出会わざる運命の人」であって、探り当てる術を持っていません。つまり、ここには人称を持った「紹介者」が存在しないのです。
 これにより「決定者」は背景そのもの、すなわち絶対的な第三者となります。「決定者」がお隠れになることで、「決定されてしまうこと」が不快からめくるめく享楽へと裏返るのです。
 結婚紹介所の広告ですが、紹介者は紹介者であることを諦めることにより、「わたしたちもあなたと一緒に運命を探す立場なのよ」と目線を揃え、結果的に「運命」のロマンスを最大限に活用しているわけです(実際にはやっぱり紹介されるのでしょうけれど)。

 さらに「誰かの」です。
 「誰か」というのは結果的には佐藤さんや鈴木さんなわけですが、プレースホルダWhoに佐藤さんがポコンと入ってメデタシメデタシなのかというと、そうではありません。
 「誰か」はあくまで「誰か」なのであり、佐藤さんの代わりにとりえあず置かれているのではないのです。むしろ「誰か」あっての佐藤さんなのです。
 逆に初めから佐藤さんの場合を考えれば、すぐにおわかり頂けるでしょう。

「あなたは佐藤さんの運命の人です」。

 いくらなんでも急すぎます
 こんな「運命」をいきなり心地よく受け入れられる人はまずいません。
 しかしそれは「佐藤さん」が具体的で断定的すぎるからではありません。「誰か」が「佐藤さん」の代理なのではなく、逆に「誰か」の代理人representationとして「佐藤さん」が現れた時のみ、「佐藤さん」は運命の人として機能するのです。

 これは重要なポイントですので、順を追って考えてみます。
 「誰か」とは誰でしょうか。
 いきなりアホみたいな問いですが、「誰か」とは実は「誰かではないもの」「誰でもないもの」です。つまり上の「決定者」と同様、人称を持たない背景的第三項です。
 あるいは逆に「誰でもあるもの」「みんな」と言い換えても良いでしょう。「みんな」は佐藤さんや鈴木さんが沢山集まったものではありません。「みんな」は「佐藤+鈴木+・・・」に集合そのものを加算したものあり、人間たちの集まりに対し常に超越的な剰余を抱えています。
 「あなた(=わたし)」が、そのような超越的「誰か」の「運命の人」であるということは、わたしが世界に生まれるべくして生まれた、ということと同義です。もちろん、一市民としてのわたしたち一人ひとりに特別「出生の秘密」があるわけではなく、「とにもかくにも<この>わたしが存在してしまっている」驚きに対し、世界が何らかの保証を持っている、ということです。
 正確に言えば、「<この>わたしが存在してしまっている」ことと「世界が存在する」ことはまったくイコールです。それがあまりにピッタリ等しいため、保証する第三項というのが見つけられないのです。
 同一性の証明は、相違の可能性があってはじめて成り立ちます。
 サインAとサインBの同一性が求められる場合、おそらくサインの同一性を示す第三項的ルール(ある文字の筆致パターンであるとか)により、証明されるはずです。しかしサインAとサインAが同一であることは、同じルールによっては導けないでしょう。
 「<この>わたし」と「世界そのもの」はぴったり張り付いて外部を持たないため、証明してくれる第三者の入る余地がありません。「わたしはわたしなんだ!」などとトートロジーを叫んでも証明にはなりません。そこでは絶対的な安心感と奈落の不安が背中合わせになっています。
 仕方がないので、敢えてズレをつくります。つまり世界そのものではなく、その写し、代理人representationを作って、ズレの可能性を生じさせてからぴったり合わせてみて安心するのです。
 そこで呼び出されるのが佐藤さんです。
 本来、佐藤さんは全然世界そのものではありません。
 しかし「誰か=誰でもないもの」の代理人として登場したとき、つまり意図的に作られたノイズ入りコピー(転移)としてやってきた時、佐藤さんは佐藤さん以上のものになります。彼は「わたしとぴったりの運命」のために召還されたのですから、是が非でも「運命の人」であってくれなければ困るのです。

 もう少し言ってしまうと、佐藤さんは「運命の人」でないと困るのですが、同時にあんまりちゃんと「運命の人」でもマズいことになります。
 というのも、彼はあくまで「不完全なコピー」であるところがポイントであって、世界そのものではないからです。
 「当たり前じゃないか」と言われるかもしれませんが、これも「出会い」の重要なポイントです。
 多くの人が「出会い」を求めていますが、本当に運命に出会ってしまうということは、「わたし」と「世界」がぴったり符号してしまうことであり、つまりそこで物語は終了です。「出会い」とは常に「死との出会い」です。
 わたしたちは生まれた瞬間から死に向かって一方的にエントロピーを増大させているとも言えますが、同時に昨日も今日も同じような一日が繰り返される、という熱力学の第一法則的側面を持っています。フロイディアンなら「生の欲動」「死の欲動」と言うかもしれません。
 「出会い」=「死」は絶対的な引力でわたしたちを惹き付けますが(死ねばそれ以上死なない)、本当に出会ってしまうとホメオスタシスが保てません。
 人工衛星が常に地平線の向こうに「落下」しながら高度を保つように、「出会えそうで出会えない」が繰り返されるのがベストなのです。すなわち、求めているのは「出会い損ね」です。
 ですから佐藤さんは最初世界の代理人として登場し、すばらしい「運命的」パワーでわたしを惹き付けるわけですが、しばらくすると「この人も普通の人間だ」という当たり前のことが明らかになって、最終的出会いは回避されることになります。
 こうしてわたしたちはまた安心して「出会い」と「運命」に夢中になり、佐藤さんはふてくされるわけです。

 最後に、この構図の妙があります。
 写真の主人公は女性です。肩ナメでチラリと写っているのは「運命の人」です。正確には、その「誰か」の「運命の人」が彼女です。
 肩ナメというのは映画の構図では非常に基本的なもので、二人の人物が対話している場合、交互に肩ナメ(あるいはそれに準じるイマジナリーラインに対し斜めからのショット)が繰り返される、というカット割りは極めてオーソドックスです。
 これが一般的であるのは、映画の語らいにしっくりくるからでしょう。
 一般的なストーリー映画の場合、画面の中には俳優演じる登場人物たちがいて、彼らがある物語に沿って行動していきます。
 大抵は主人公と呼ばれる特殊な人物がいて、観客たちはこの人に「同一化」しながら映画を楽しむ、とされています。
 もちろん、平均的映画ファンは、いくら映画にのめり込んでも本気で自分がキアヌ・リーブスであると思い込んだりはしません。つまり「同一化」と言ったところで、「わたし」がこちらにいることはわかっているわけです。
 それでは丸っきり「他人事」として眺めているかというと、そうではありません。
 これを逆説的に示すのが「カメラ目線」です。
 最近はこんなベタな手法を使う映画もあまりありませんが、映画の中で「カメラ目線」が使われると、非常にドキッとします。ハッと目が覚めた気持ちになります。
 かなり過激な方法なので、効果的な場合もあればひたすら気分が悪くなることもあります。
 なぜこんなにハッとしたり気持ち悪くなったりするのでしょう。
 「見つかった」感じがするからです。
 決して「ここ」にいることを忘れているわけではないけれど、一応スクリーンの中に立場を置いていたのに、「お前はそこだろ」と言い当てられてしまったからです。
 「わたしはここにいる」ことを忘れているわけではないのにハッと思い出す感じがするのは、「わたし」というものは「ここ」にいると同時に、そもそも「ここ」にはいないものだからです。
 「わたし」は語らいの海の中に生まれました。言葉も話せぬ赤ん坊に大人たちが語りかける(註)、という無気味な行いによって、「汝は・・」とこの世界に呼び出されたのです。つまり「わたし」とは、本来「ここ」から語りだすものではなく、「あちら」で語られていた存在だったのです。
 「わたし」とは、そもそも「語られる」ことにより「語る」ものとなったもののことです。
 映画的語らい、さらにストーリーという形式が心地よいのは、このズレから生まれ出るプロセスを再生しているからでしょう。

 脱線しましたが、「あなたは誰かの運命の人」の構図はこうした語らいを表現しています。
 「主人公」は女性ですが、男性がこの広告を見たとしても、「同一化」するのは女性の方でしょう。
 わたしであってわたしではない彼女は、「誰かの運命の人」です。つまり世界にとっての必然として召還された者です。
 ここで「運命の人」が渋谷の兄ちゃん的胡散臭さを帯びないでいられるのは、物語として世界が語られているからです。物語とは、正にrepresentationであることにより「一度ズラしてもう一度ぴったり合わせる」作業自体です。
 ストーリーという形式が不滅であるのは、それがこの張りなおし作業自体であり、なおかつ、その作業を見ている「わたし」と作業の中にいる「わたし」という「わたし」の本質的分裂を再演している、という二重性に拠っているでしょう。

 まぁ、良く出来た広告というのはどれでもこの程度の芸当はやっているものなのでしょうけれど。


註:
 これが冷静に考えるとかなり気持ち悪いのは、例えば赤ん坊がぬいぐるみだった場面を想像すればわかるでしょう

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コメント

んちは!桃です。
NOVAのCMでは、「明日はだれかを救えるかもしれない」だよ(明日、ブログにアップする予定)。
…これを書くために、TypeKeyに登録しましたぁ・・・

投稿者 [TypeKey Profile Page] : 2007年01月15日 23:31

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