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2007年01月20日

2ちゃんねる型「正義感」、善意、価値判断と事実認識

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 絵文録ことのはさんの「2ちゃんねる型「正義感」のいやらしさ」というエントリが話題になっていましたね。ちょっと気になってキチンと書こうと思っていたのですが、まとまる目処がちっとも立たないので、以下、とりあえず非常に乱暴にメモ。

 はじめにおことわりしておきますが、わたしはこのエントリで素材として取り上げられている2ちゃんねるや「2ちゃんねらー」の行動や思考様式、「炎上」「祭」現象自体についてはそれほど興味がありません。また、絵文録ことのはさんの主張を正面から受け止めて論駁しようとか同調しようとかいうつもりもありません。
 わたしが気になったのは善意と悪意についての論点で、しかも著者の意図とはおそらくかなりかけ離れた視点によるものです。ですから、以下は絵文録ことのはさんのエントリに触発されてわたしが勝手に連想した妄想だと思って頂いて結構です(絵文録ことのはさんの「好き嫌い」の趣味については個人的にかなり共感しますが、それはここで言いたいことではありません)。


 まず、悪意にではなく善意にこそ恐ろしさがある、という点には深く共感します。
 善意はしばしば自らの価値判断を社会正義等の「大きな」価値観に摩り替えるものです。

 しかしこれを批判するのに、「絶対的善は存在しない」「好悪は存在する」「真偽は存在する」というだけで足りるでしょうか。

 善悪は価値判断であり、真偽は事実認識です。両者は権利上弁別できますが、実際は不可分なものです。
 理由の一つは、単に人間の知性がそれほど明晰判明ではないからですが、そういった「物理的」限界だけが問題なのではありません。
 わたしたちはある言明を事実と信じるとき、常に「正当性」という価値を付与しています。
 「カラスが黒い」と言うとき、わたしたちは単に視野に映った鳥が黒いと指摘しているのではなく、それが「事実」であり、個人の価値観を超えている、と信じています。
 「わたしの知覚に黒い鳥が映っている」というのは、「カラスが黒い」というのとは異なります。わたしたちの知覚(事実認識)は常に世界の写し=表象ですが、わたしたちは表象をその向こうの「現実」に根拠付けられたものとしてしか思考できません。
 錯覚等の「知覚と現実のズレ」が存在するのは確かですが、錯覚が錯覚として指摘できるのは「ほとんどの知覚は大多数の人々によって共有されている」という信念体系があるからです(※)。
 「すべては悪魔の作り出した幻影」と仮定することは可能ですが、独我論が言明の次元では論破不可能な一方、この仮説を表明する、という行為は「『すべては悪魔の作り出した幻影』ではない」という認識が大多数の人々によって共有されている、という信念のもとで初めて可能になります。
 よって、わたしたちの事実認識は常に「おおむね共有されるであろう」という期待と同時的(「真偽は存在する」という信念)ですが、そのように信じられた事実が第三者により否定されたとき、わたしたちは非常に不安になり、怒りを覚え、「不当」と感じます。
 否定した主体が十分に権威付けられている場合、事実認識や知覚の病的乱れ等が疑われることがありますが、懐疑をさしはさむのも困難なほど「事実」と感じられているものについては、わたしたちは自分の信じる「事実」を否定し切ることができません。
 このような「事実認識のズレ」が生じるのは、わたしたちの認識が常に「世界の写し」でしかなく、かつ「世界そのもの」は直接知覚できないからです。
 つまり、事実認識は常に「その向こうにある共有の世界」(変わらない真理)を想定しますが、その「世界」は確認できないため、結局は個々人の「思い込み」に墜落する危険を常に孕んでいるのです。
 原理上「共有」を前提としている以上、これを否定された場合にすんなり「人によりけり」などとは相対化できません。相対化が可能になるのは、そもそもの事実認識のアスペクトが転換し、今まで事実認識としてとらえていたものが価値判断として把握しなおされる時のみです。

 「暴走する善意」は、しばしば「事実認識だと信じられたもの」であるからこそ、強力な力を発します。事実認識と信じられているものは、相対化困難だからです。
 かつ、ある事実認識を「それは事実認識ではなく価値判断である」と断定することは原理上できません。なぜなら、「それ」が「事実」と異なる、と言うためには共有の事実自体(世界そのもの)が必要ですが、わたしたちは常に世界の写ししか手にできないからです。
 実際には「直接知ることはできないが確かにそれは存在し、かつ確からしさを検証する手段がある」という信念を多くの人が共有しているため、わたしたちはおおよその世界像をわかちあっているわけです。
 一般に「価値判断」は「事実認識」の上に小亀のように乗ったものだと思われています。共通の事実があった上で、その事実をどう捉えるか、という価値判断が加わる、というモデルです。「カラスが黒い」ことは共有しており、その黒いカラスを害鳥とするどうか、好きか嫌いかは人や文化による、といった具合です。
 しかし、「事実認識」の根底にまで潜航していくと、そこではむしろ「事実認識」が逆に「価値判断」的危うさに支えられていることがわかります。

 つまり、確かに「価値判断」を極力排除し「事実認識」や「好悪」により自らの判断や行動を根拠づければ、わたしたちはより「侵略的ではない」振る舞いが取れるのですが、ある認識を「事実認識である」とする判断自体が根源において「価値判断」的であるため、この指摘では「価値判断」の暴走を止めることができないのです。

 さらに「価値判断を極力排除しよう」という判断自体、既に価値判断的です。このことに気づいていたからこそ、論者は「これは自分の好き嫌いである」としたのでしょう。
 また「偽善こそ最大の悪であり、『善いこと』をしようとすれば常に偽善と紙一重です。よって『善いこと』はしない方がよい」と言うとすれば、こもまた「善かれ」として下された価値判断です。
 極論すれば、「偽善=究極の悪」と「ただの悪」のいずれにも陥らないよう物事を判断することは不可能ということになります。

 すると、ここで道は二手に分かれるように見えます。
 一つは「広義の『善さ』以外に何も選べず、選んだとたんに『偽善』になるのだとしたら、素朴に『善を為す』と言ってしまえばよい」という立場。
 もう一つは、「それでもわたしは『好き嫌い』だと言う。『好悪で決めよう』という判断自体が暗黙的に『善いもの』を取ろうとしたものだったとしても、わたしはその『偽善』を選ぶ(なぜならそっちの方が『好き』だから)」という立場。
 どちらを取るにせよ、どこかで身を切り、何かを選んでいます。そういう意味では、いずれも世界にコミットしようとすることでは変わりがないと言えます。
 強いて言えば、前者を採る人々の多くは、自分の選択について自覚的なことが少ないように見えます。多くの場合、これらの人びとは自らの行動を説明できません。
 逆に言うと、「説明しよう」「自覚しよう」という意識が強いとき、人は後者を選びがちのように思えます。
 前者の罠はナイーヴな実在論であり、後者の罠は「何もしない」相対主義です。

「きみは悪から善を作るべきだ、それ以外に方法がないのだから」(ロバート・P・ウォーレン)

 かつてわたしが信奉していた言葉です。
 しかし、素朴に取ってしまうとどこか青臭くのも事実です。実際、わたしもただの世間知らずでした。
 この言葉は、「わたしたちにはどの道悪しかできない」と取ってはいけません。
 「善しかできない」からこそ「悪しかできない」のです。
 悪を為そうとしてうっかり善になってしまったり、重要なことに、善を為そうとしてうっかり善になってしまうことがあります。
 だからわたしのしたことが善だろうが悪だろうが知ったことじゃない、と言ったらハードボイルドでかっこいいです。憧れます。
 でも、たぶんリアルヒーローとは、そんな善の責任すら人知れず引き受ける者なのではないかと、最近は考えるようになっています。


※ここでの「信念」は一般的な日本語の「信念」とは少し違って、情感や倫理といった要素を含まない単なる「そうだと確信していること」の意です。言語哲学などでbeliefの訳語として当てられる「信念」です。
I believe that he has a dog.
というとき、言語行為論などの文脈では
I ==(believe)==>"he has a dog"
のようにstatemenetの内容にbelieveがかかっているようなイメージでとらえます。
I ==( say )==>"he has a dog"
が「発言」ならbelieveは「信念」といった感じの味も素っ気もない「信念」です。


 これに関連するヘリクツは、「〈飛び出す〉倫理」という古いテクストの善の不可能あたりにも書いています。
 また、「認識は世界の写しだが、世界そのものは直接知覚できないのだから、認識と世界の間の『類似性』はどうして根拠付けられるのか」というのはrepresenatationについての伝統的な問題です。
 この問題に対して、上のようにゴリゴリにアプローチしようとしても、実はうまくいきません。中学生ロジックでグルグル回るだけです。
 わたしにとっては、ラカンの枠組みが非常に有効に機能してくれた領野です。つまり大文字の他者です。
 だから本当のところ、こういう語り方というのはあまりよろしくないと思っていますし、またちゃんと思考する能力もないのですが、一方でこのやり方にハマっている状態からアスペクトを転換する技術については、開拓するに値すると考えています。

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