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2007年02月19日

『神々の沈黙』2 書かれたもの、交易、欺き

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 前回に続いてジュリアン・ジェインズの『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』についてです。

 論は「声」の始まり、古代文明におけるいくつかの例証、そして「声」が去っていく過程を辿ります。古代文明についての具体的例証には、怪しげな部分もありますし、推測の域を出られるものではありません。また「証拠」があるかどうかは、核心ではないでしょう。
 言語の獲得と名前の発明についての下りは重要です。右脳や古代文明についての具体的記述に比べ、論者はこうした「核心」で今ひとつ筆致が冴えないのですが、名前の発明は不在のもの、死者への呼びかけと同時的である、というツボはおさえてくれています。これは「声」と<意識>を言語機能の一面として理解する上で梃子になるポイントです。
 言語=象徴とは「ない」ものを示す機能です。何かの存在を示すだけなら、呼び声でも叫びでも可能です。「ない」こと自体を示す(フロイトのFort/Da)、これが象徴化の真髄である以上、名とは何よりも死者の名です。死ぬと生前の名とは別に戒名がつけられますが、むしろ戒名こそが真に「名」です(歴史的にも戒名が先行した可能性はある)。翻せば、名付けられること、それは既に「棺桶に片足を突っ込む」ことなのです。ただ生物として生まれるのではなく、「人間」と認定され言語経済に参入するということは、モノとしてのわたしを諦め、fadingする抹消された主体として「既に死んでいる」ものとなることなのです。
 「声」は常に死者の声です。『神々の沈黙』の言う通り「声」が<わたし>に大きく先行していたのだとしたら、<わたし>という一人の死者が生まれるより前は、「声」が死者としての責任を果たしてくれていたことになります。
 そのような「声」がなぜ聞こえなくなったのか。なぜ「声」が<わたし>にとって代わられたのか。
 これについて、筆者はいくつかの説を立てていますが、「文字の発明」「交易」「<欺き>」という着眼は見事です。
 ただ、目の付け所が素晴らしい割りに、(いかにも「心理学者」らしく)ロジックの核心には歯がゆいほど手が届いていません。例によって『神々の沈黙』プロパーというより、その最読解という形で「声」と<わたし>について考えみます。

 <書かれたもの>とは何でしょうか。
 本書では<二分心>国家は一定以上に複雑化した社会を安定的に収めることが難しく、ハムラビ法典のような書記による法が出現し、相対的に「神々」が弱体化した、といった説明がされていますが、そもそも<書かれたもの>こそ「声」に代わり、そして<わたし>の萌芽を宿すもの、と考えるべきです。
 <書かれたもの>、それは誰かが書いたものです。
 当たり前じゃないか、と思われるでしょうが、「誰か」が想定される、というところに注意してください。もちろん「声」にも「誰か」はあります(名を持つ死者の声・・)。しかし一つに、<書かれたもの>には耳元で囁く声にはない「距離」があります。筆者は「声」の影響力について、その「距離」の近さを挙げていますが(人と人の話す距離は文化的に決定されるが、近い距離とはそれだけ親しく、時に「一体化」するほどの強制力を持つ)、<書かれたもの>の距離は、命じるものと<わたし>を分離し顕在化させます。
 しかしより重要なことは、書記は「ついうっかり」書かれたりしない、ということです。<書かれたもの>には書いた人がいますが、その書いた人は、必ず何者かに読まれることを想定しています。具体的な読者がいる、という意味ではないし、もしかしたら「自分が読むためだけ」=「読者は自分」かもしれません。それでも「読む自分」と「書く自分」には論理的時間差があります。<書かれたもの>は、読まれることを予期しながら、論理的距離の向こうで誰かが書いたものです。
 それは「消した跡のある足跡」です。ただの足跡なら、それを見た者は「誰かが歩いたんだな」と思うだけです。しかし消した跡があるとすれば、それは足跡を解読する誰かを予期してのものです。つまり<わたし>のことです。
 誰かが振り返ります。予期されたものとして。それは本当は、別段この「わたし」のことではなかったかもしれません。法典は特定の誰かのために書かれるわけではありません。
 しかし「え、わたし?」と振り返ったとき、そこに<わたし>がいます。翻せば、うっかり呼び声に振り返ってしまった者、それが<わたし>です。<書かれたもの>が作り出すのは、「え、わたし?」と振り返る論理的時間差です。
 名前が発明された時点でも、呼びかけはあったでしょう。呼びかけに振り返るものもいたでしょう。しかしそれだけではまだ<わたし>に十分ではありません。<二分心>な人びとは、呼びかけるときにも<わたし>として呼びかけるわけではなく、呼びかけられたものも特に<わたし>を想定する必要はないからです。だから、<書かれたもの>において出現する<わたし>は、読者としての<わたし>であると同時に、読者を想定した誰かとして想定される、そのようなものの<わたし>です。
 ここにも、『天才と分裂病の進化論』を連想する部分があります。統合失調症と難読症(識字障害、読字障害)の関係です。
 『天才と分裂病の進化論』は統合失調症の患者が読字障害を示すケースがしばしばある、と指摘しています。臨床的裏づけを持っているわけでもなく、直感的相関にすぎませんが、書記と「声」は背反的関係にある可能性があります。つまりかつて「声」が担っていた役割を「読む」という営みが引き継いでいる、ということです。読むときに心の中で「読んでいる」声、それはわたしの声ではありますが、同時に<書かれたもの>を代弁する他者=死者の声でもあります。「神々」と読書はとても似ています。

 交易についても、パラレルな構造があります。
 筆者は「違う神々を持つもの」という点を強調していますが、むしろ「違う言葉を話すもの」として捉えた方がわかりやすいです。十分に成熟した言語と地理的広がり、移動手段の発達が、致命的に「言葉の通じないもの」たちを出会わせたことでしょう。
 「声」には聞き取りにくいこともありますし、場合によっては奇妙な符号を使い外国語のように響くこともあります。そういう意味では、言葉の通じない外国人も同等かもしれません。
 重要なのは、その通じない言葉を使って、外国人同士は話をしている、ということです。単に「わからない」のではなく、「わからない」ものを「わかるもの」が他にいる。このとき初めて、言葉はペッタリと事物に張り付くのをやめ、「理解する瞬間」という論理的時間が挿入されます。言葉が、理解されるのを待っている何か(読まれることを想定している書記)として、呼びかけてくるのです。

 そして<欺き>。
 筆者は、チンパンジー等も行う道具的学習の結果としての一時的「フリ」と区別し、長期的「背信」を次のように説明します。

これは動物にも<二分心>の人間にもできない。長期の痣無機を行うには、アナログの自己を創造し、自分の中で、仲間に見える実際の行為や外見とは完全に異なる行為を「する」ことや、完全に異なるもので「ある」ことが可能にならなくてはならない。(・・・)進入してきた見知らぬものから命令を受けたとき、表面的に服従でき、自分の不実な厚意に反する「考え」を抱いた別の自己を「自分の中」に持ちながら、自分の嫌悪している男に微笑みかけることができる人は、うまく生き残り、家族を新たな世代へと存続させる可能性がずっと高いだろう。

 後半の「生き残り戦略としての欺き」は、自然淘汰のアナロジーを不適切に使っていて共感できないのですが、「自分の中」に別の自分を隠し持つ、ということは大切です(何度も書きますが、この著者は着眼点が素晴らしい割りに、肝心なところの考察がナイーヴなことが多い)。
 <欺き>とは「本当の自分」を隠し持つことであり、つまり本書で言う<意識>へと連なるわけですが、ここで「本当の」というフレーズが表れることは、<わたし>が倫理と同時的であり、また<わたし>が交易における外国人として発見される、ということともパラレルです(この外国人は、むしろ日本語の「ガイジン」が適当)。
 倫理の問題は「2ちゃんねる型「正義感」、善意、価値判断と事実認識」などで書きました。ちょっとヤヤコシイ話なので今回は省略です。
 「本当」を隠し持てるということは、「今のわたしは『本当』ではないのではないか」という懐疑と表裏一体です。ここで「本当の自分探し」などに旅立ってしまうと平凡なアクティング・アウトなのですが、もちろんそんなことで「本当」が見つかるわけもなく、独我論的懐疑は究極的には論駁できません。
 <欺き>が可能になることは、むしろ常に何らかの<欺き>としてしか存在できなくなる、ということです。「本当」は常にここからfadeingし、わたしは常に部分的でしかいられません。つまり、そのような「本当」=モノから言語的に切断されたものこそ、<わたし>なのです。

 独我論的懐疑という、極めて「分裂病的」思考が、「声」の消失と同時に起こったらしい、ということは示唆的です。
 「声」が現在で言うところの統合失調症的現象であったとしても、<わたし>以前の「声」はまったく性質の異なるものであっただろう、ということは前述の通りです。そして「声」に代わった<わたし>が合わせ鏡のような猜疑の地獄を開くのだとしたら、生物学的には同じ「病気」が、異なる病像・社会的位置づけを持っていることと辻褄が合います。
 つまり、<わたし>の導入された世界では象徴的去勢を潜り抜けたものが一つのスタンダードとしてあり、そのような者が最も適合できるシステムになっています。「神々」が<わたし>抜きで囁いていた時には、現在ほど破滅的病像を持つことがなかったのが、言語システムの推移によって深刻な病理となってしまった。これは社会制度が変わって偏見を持たれるようになった、ということではなく(もちろんそういう面もあったでしょうが)、有病者自身が<わたし>を導入できないまま模倣する、という形で成長してしまうことに起因するでしょう。


 しつこいですが、まだ続きます。

『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』 ジュリアン・ジェインズ Julian Jaynes 柴田裕之『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』 ジュリアン・ジェインズ

関連記事:
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