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2007年03月06日

交流、直流、コミュニケーション

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 「なぜコメントの敷居を高くするのか」について、某所で「書き言葉の敷居とコミュニケーションの敷居が一緒くたになっている」というツッコミをみかけました。こっそりツッコんだものをネタにしてしまって申し訳ないですが、この指摘にはちょっとハッとするものがありました。
 確かにごっちゃになっています。
 書き言葉の問題はそれとしてあるのですが、これをクリアしてなお、コミュニケーションの敷居というのがあるように思います。
 それを書き言葉の敷居に還元するような書き方をしてしまったことには、いくつか理由があるでしょう。
 一つは、わたし自身がこの還元を意図せず行っていたこと、つまりこの問題をコミュニケーションの問題として取り上げることに対する心的防衛、という要素です。この背景にはおそらくわたしの深い心の闇が横たわっているのでしょうが、そんな痛い話を公開してしまってはせっかくの無意識的防衛が無駄になってしまうので、疾病利得に一票入れて蓋をしておきます。
 もう一つは、(こちらは意識化できるレベルで)「コミュニケーション」という形でものごとを捉えることに胡散臭さを感じているからです。

 「コミュニケーション」。
 もう、この言葉からして嘘くさいです。
 「コミュニケーション力」になると、鳥肌が立ちそうです。ニコニコしながら名刺を差し出す技術のことですか? 「コミュニケーション」の力って、そんなRPGの「すばやさ」みたいにパラメータ化されちゃうものなんですか?
 コミュニケーションという言葉を聞くと、そんな転職情報誌のような薄っぺらさか、「レッツ飲みにケーション!」なグダグダに団塊ウェットな連想が最初に来てしまいます。
 もちろんこの言葉が使用される文脈や意図は多岐にわたっていて、必ずしもそんなつまらない意味で使われているわけではないでしょう。
 また、何はともあれ話をしてみること、何気ない言葉をかけ合うことの大切さについては、認めるにやぶさかではないです。「話なんかしたって・・・」な気持ちで会ってみたらびっくりするくらいポジティヴな展開になった、という経験も何度もしています。思い込みが激しくやり出すと徹底して穴掘りしていくタイプなので、自分が閉鎖回路にハマり込んでいたことに人と話して初めて気付く、ということはむしろよくあるくらいです。
 それでもなお、「コミュニケーション」「交流」という言葉に出会うと、つい「ケッ」という気持ちになってしまいます。
 これはおそらく、これらの言葉が使われる時、「コミュニケーション」や「交流」のネガティヴな側面が見落とされているからではないかと思います。

 コミュニケーションには悪い面もあります。
 とりあえず非常に業務ライクなことで言えば、意思疎通自体がコストのかかるものであり、「一人でやった方が早い」なら、無理にコミュニケーションを充実させて分業するだけが方法ではありません。こういう考えは属人的だの何だの言われて、この頃は良いところナシですが、本当に合理化を図りたいならケースバイケースで判断すべきだと思います。
 そしてより根本的なこととして、人と「交流」するのは疲れます
 気心の知れた友人と他愛もないお喋りに興じるならともかく、一定の距離のある人や意見の異なる相手と向き合うというのは、ものすごいエネルギーのいることです。
 「交流」という目的では一致していたとしても、そこに期待する「何か」には往々にしてすれ違いがあるものですし、悪意なく放たれた言葉に海よりも深く傷ついてしまうこともあります。
 距離を取っていれば平和に棲み分けできていたのものが、なまじ「交流」などしてしまったがために論点が剥き出しになり、引くに引けない諍いに陥ってしまうことだってあるでしょう。
 最悪、最初から悪意に満ち満ちてケンカ腰で来る相手だっているのです。
 「話せばわかる」と言いますが、話したってわからないこともあります
 仮に分かり合えるにしても、三十年にわたる血で血を洗う抗争の末になんとか仲良くなれる、というなら、いっそ最初から係わり合いにならない方がマシかもしれません。

 コミュニケーションには良いところも悪いところもあります。
 それはやってみなければわからないのです。
 「交流」は賭けです。リスクを伴うのです。
 にもかかわらず、「コミュニケーション」「交流」という言葉が使われる時には、どうもこのリスクが度外視されているというか、軽んじられている気がするのです。
 もちろん、リスクをおしても可能性に賭けてみたい、というなら、大いに「交流」すれば良いでしょう。わたしだってそういうことはあります。
 しかしそれは、交流すればポワーンとソーゴリカイが深まっちゃう!みたいなことでは全然ありません。
 異文化コミュニケーション♪とか本気で思っちゃってるアルツな方は、バグダッドでケンカの仲裁でもやってみたらよろしいのではないでしょうか。

 そういうリスクを踏まえた上で、「でもやる! 行って話してみる!」なスピリットを「交流じゃない、直流なんや!」と表現することを以前思いついて、その時は素晴らしいアイデアだと思ったのですが、冷静になるとただのオヤジギャグですね。人間の信じる心ってスゴイです。
 でも何となく、言わんとしていることは汲んでやって頂けるでしょうか。
 「直流」くらいの気持ちがあるなら、それはそれで否定しません。
 リスクを鑑みてなお、というより、リスクの計算もできなくなっちゃうことだってあります。
 というか、思い返せばむしろそういう突撃は人より多くやってきた人生のように思います。
 あ、その反動で今頃引きこもってるのかしら?


 なんだかまた話がズレてしまった気もしますが、要するに「交流」はしんどいので加減しながらやりたいです。
 時々憑かれたように「直流」に走りますが、どういうタイミングでそれが起こるのかはよくわかりません。太陽の黒点周期とかと関係あるのかもしれません。


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