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2007年04月16日

自閉症、統合失調症、「人間のフリをする」

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 さらに続いて私信より転載。
 全然音楽の話ではなく、話がズレてズレまくってすごいところまで行ってます。
 いつもと口調が全然違いますが、この連想の流れは、珍しくかなりわたしの「素」が表れていると思います。機嫌よく喋っているときはこんな感じです(笑)。

##

Nujabes / Metaphorical music

 今回の分iPodに全曲入れて、「見慣れないアルバム名」を目印に片端から聞いていた初回、「Nujabesみたい・・・てか、Nujabesやん」と思った。
 こういう体験は面白い。
 アスペクトが転換するのだけれど、「見知らぬもの」として現れたものが、いくつかの属性から既知のものと結び付けられ、続いて既知の何かとしてカテゴライズされる。
 この「既知のものと結び付けられる」と「カテゴライズされる」の間は、一見連続的に見えるけれど、実は決定的で質的な差異がある。
 「既知のものと結び付けられる」とき、注視されているのは特徴の群と「知っている特徴」のライブラリであって、抽象ではない。
 一方、カテゴライズされるとき、わたしたちは抽象された名を見ている。「Nujabesだ」みたいに。これがカテゴリー。
 で、ここまですぐわかることなのだけれど、個人的に気になるのはカテゴリーとして落ち着いたとたん、まさに気持ちも「落ち着き」、一方でさっきまであったはずの「怖いけれどドキドキする未知な感じ」がなくなってしまう、ということ。
 知覚自体としては同じ音楽のはずなのに、「Nujabes」とまとめてしまった途端、「なんだこれ、この感じ知ってる、Nujabesっぽい」というときの高速に触手を動かしていた感覚が消えてしまう。
 「Nujabesっぽい」が「Nujabes」になったからといって、別に何も解決していないにも関わらず、「知覚を知覚自体としてとらえる」という運動が自動的に終了する。
 逆に言えば、そうやって「まとめる」象徴化・抽象が人間的活動を特徴付けているわけだけど、自閉症の人とかはこういう活動が非常に苦手なのだと思う。
 だから逆に細部が異様によく見えていたりする。自閉症者は一言一句違わない文言など個物に執着する傾向が強く、時々サヴァン症候群と呼ばれる超人的記憶力などを発揮する人が見られたりするけれど、この認識様式が反映されたものだろう。言わばずっと「高速に触手を動かしている」。
 テンプル・グランディンという自閉症の動物行動学者がいて、最近わたしはすっかり夢中なのだけれど、彼女が自閉症の人と動物(といっても家畜などの高等哺乳類が中心)の類似性を指摘している。それは「見たまま」に考える、視覚で思考する、ということで、この場合の「視覚」は、聴覚等と比較しているのではなく、言語と対比させている。つまり象徴化のプロセスが働かない、もしくは弱いために、普通の人にとっては何でもないような細部が気になって仕方がない。
 情報を圧縮できないから効率的ではなく、社会的コミュニケーションには障害があるけれど、一目見ただけの景色を細密に描けたりする。
 象徴化というのは楽をするための仕組みだから、細部が圧縮されないまま全部意識に入ってくる状態のいうのは非常に疲れるものだと思う。「Nujabesっぽい」が「Nujabes」になったとき、ぎゅぎゅっと圧縮されて安心する(守られる感じ)のだけれど、一方ですべてのネジを確認して回るようなドキドキ感は消失する。

 もうちょっと引っ張ると、「まとめる」仕事にも二種類ある。

 隠喩的/換喩的というか、韻文的/散文的というか。
 ラカンっぽくひきつけるなら、象徴化にコケたとき現実界に行くか、想像界に行くか、に対応すると思う。
 最近「眠るために生まれてきた」で書いていることを噛み砕いて対応させれば、わたしたちは名を持つ限りで十分「外国人性=死者として生まれていること」なわけだけれど(※1)、それがうまく認められなかった場合に、例えば文字通り「外国に行く」ことで「わたしは外国人」と表現するのは想像的アクティング・アウト。同性愛とかね。亡命でも良いかもしれない(亡命とホモセクシュアリティはとても似ているね)。
 これは「意味がわかる」。つまり散文的。普通はそういうことをする人がいないにしても、普通の人が聞いて「なるほど、そりゃうまいこと言うね」というくらいには通じる。
 一方で韻文的なやり方があって、これはいきなり突拍子もない結論だけがバーンと来る。
 「死者であるとは異性であることだ」とかね。それで性器切る狂人とかもいる(そう自己ツッコミしながら切っちゃう狂人はレア中のレアだけど)。
 ちなみにこっちは亡命のようで亡命とは違う気がする。
 了解できる意志みたいなのがなくて、「お前は溺死刑だ!」の宣告というか。冷静に考えると全然意味不明なのに、一瞬も疑問を差し挟めず、悦びに満ちて実行しないではいられない死刑宣告。
 こういう「いきなり結論」というのは、詩と一緒でわからない人には全然わからないし、また人生のある時期あるタイミングでものすごい「わかる」瞬間があっても、時が経つと「なんやったん、アレ」みたいになったりする。でもその瞬間の「わかった!」感は、散文の比ではない。
 神経症者(つまり普通の人)というのは答えのないところに問いを立てるわけだけれど、これは問いもないのにいきなり答えだけがある。

 大きくコケた時を例に出してしまったけれど、たぶんわたしたちの了解という運動は、微細な「韻文的」ジャンプを積み重ねて「散文的」に見せているのだろう。写真を拡大して粒子が見えるまで行くと全体が何だかわからなくなるように、本当の基礎には「意味不明」な断絶があって、全体として見たときぼんやり「わかる」ようにできている。
 ああ、だから二種類と言ったけれど三種類ね。だってコケずに「Nujabes」って言えちゃった場合があるから。単に生きることで、既に死者であることを受け止める方法。ニンゲン様の王道。
 むしろ二種類の方はコケたパターンなんだから、「まとめられなかった」「失敗したけどなんとか頑張った」と考えるべきかもしれない。何でもものごとが顕在化するのは失敗したときだから、気になるのはやっぱりコケた時ね。

 最近気になっているのは、「まとめられずにそのまま」な自閉症的・アスペルガー的方向と、韻文的に飛躍表現してしまう統合失調症的方向に近親性があるのかなぁ、ということ。
 もちろん疾病としての「自閉症」「統合失調症」は別個のものです。ただ、象徴を巡る構造としては、明らかに通じるものがある。
 両方とも「もの自体」とコミットしようとするわけだけれど、「視覚で考える」という場合、「もの自体」は外部として措定されるのではない。対して韻文的方法の場合、内/外という文節がある。そして外部は「ない」のだけれど、「ある」内部の外に「ない」外部が思考できるというのはどういうこと??という仲裁困難な鏡地獄がある。「ない」を取り込むのが象徴化なわけだけれど(Fort/Da)、その辺がすんなりいかないと、この「内と外がぬるんと入れ替わる感じ」に振り回されることになる。
 正確に言えば、内/外が問題なのではなく、それらが入れ替わる性質であること、常にどちらか片方しか成り立たない、というところに恐ろしさがある。
 ただ、広義の「自閉症」者が言語を使用できないわけではないし、グランディンのように両方の世界の「翻訳」ができるほど優れた「言語使い」も存在する(彼女のテクストには機知すら見られる!)。こういう場合、「もの自体」がホントにそのまま入ってくるようにイメージすると、それはやはりナイーヴすぎると思う。

 おそらく鍵は、彼女のようなものの感じ方を、「わたしたちの側が」一定の範囲で理解できてしまう、というところにある。
 グランディンは『スタートレック』のデータ(アンドロイドのキャラ)に共感すると言い、そのような自閉症者が少なくないことを指摘している。別に他の知的なアンドロイドでも構わないと思う。人間の言葉を話し、高度な知性を持つけれど、「感情」とか「共感」みたいなものをリアルに感じることがない、というキャラクター。「畏怖」という概念をその使用法から学習することはできても、雄大な風景に「畏怖」を感じることはない(と本人が主張する)人物。『寄生獣』のミギーでも良いと思う。
 注意すべきは、このような「アンドロイド」が「人間性」を欠いた振る舞いをするわけではない、ということ。彼らは極めて「人間的」に振舞うことができる。ただし、それは「人間性」を知っていて、その振る舞いを模倣しているからであり、「内面」から感じているわけではない(と、しばしば当人が語る)。ついでに非常な記憶力を持ち、広大な「ライブラリ」を備えているのも特徴。
 こういうとき、すぐに思い浮かべるのが極めてヴィトゲンシュタイン的な問いで、「畏怖」の使用法を理解し習得することと、「畏怖」を感じることにどういう違いがあるのか、ということ。「畏怖」を感じるとされる対象(グランドキャニオンとか)を前にし、「わたしは今、畏怖を感じている」と言えれば、要するにそれが「畏怖」じゃないの?という。
 このツッコミというのは、上の流れで言えば「韻文的飛躍表現」タイプで、「もの自体」とは違うのよね。似てるけど違う。違うけど、わたしたちはそういう形で理解できてしまう(!)。
 そしてデータでもミギーでも、こうしたキャラクターを考え出した人々(作家)というのは、別に自閉症でもアスペルガー症候群でもない。こうしたキャラクターを消費しているわたしたちのほとんども、自閉症ではない。
 これはとても不思議なことで、データやその他の素敵なアンドロイドたちに、グランディンらが「自分に似たもの」を感じられるというのは、驚異ですらある。
 もちろんアンドロイドなキャラクターを描いた人々のほとんどは統合失調症でもないわけだけれど、根底にはヴィトゲンシュタイン的な問いが基調低音としてある。いわば「分裂病的知性」により、両者は交通している。
 ミギーを作り出した「わたしたち」とミギーに共感する「あの人たち」(共感するかどうかは知らないけれど)は、互いが互いの物語の中にいて、お互いを夢見るような関係にあるように感じる。

 さらに両者には色々アヤシイ関係がある。
 痛みに強い、発熱時に寛解が見られる、といった報告が両方の「疾病」について見られるけれど、プロスタグランジンやら脂肪酸代謝といった辺りに共通の問題がある匂いがする(『天才と分裂病の進化論』のエントリ参照)。脳神経の特定部位に何らかの障害がある、と推測するのが普通の研究者だろうけれど、もしかすると全身的な問題かもしれない。特定の酵素が働いていないとか。グルテン・カゼイン遮断が自閉症者の症状を改善する場合があることはよく知られている(※2)。
 また自閉症患者においては統合失調症の発症が著しく低い、という話がある。もしかすると自閉症の人はある意味「既に発症してしまっている」からではないか、という想像が働く。
 ラカンっぽく言えば、「精神病」は去勢が排除された結果、「フリをする」ような体制で持たせてきたものが、社会的な節目などのプレッシャーによって立ち行かなくなり(※3)、陽性症状を表す、と考えられる。自閉症は一般に生まれつきのもので、統合失調症の発症は青年期がピークだけれど、自閉症者は最初から「フリをする」のにもコケてしまった、と考えることができそうだ。
 そして両者とも、治癒というか適応というかの過程で、再び「フリをする」ことが鍵になる。言わば「人間のフリをする」ことですり合わせを図る。統合失調症の場合、幼年期に一度これをやったがために、半端な「フリ」を習得してしまい、どこかで立ち行かなくなってもう一度やり直す。自閉症者の場合、グランディンほどのレベルにも到達できることもあるし、一生うまくいかないこともある。
 妄想や幻聴などの統合失調症の陽性症状は、前の「フリ」と後の「フリ」をつなぐカサブタのようなものだと思う。なまじ人間たちの象徴活動を知っているがために、何らかの「意味」を使わないとうまく橋渡しできない。
 アンドロイドは「人間のフリをする」。自閉症者の共感は、こうした点からも理解できる。

 ただ、いくつか留意しておくべき点がある。
 一つは、十分に人間のフリができるなら、それは人間ではないのか、という、これまたヴィトゲンシュタイン的な問題。
 これは微妙な問題で、「フリができれば人間」だとしても、行動主義的というか、アウトプットが満たされていれば合格、みたいに考えてはやっぱりウソだろう。それは「人間」という語を巡るわたしたちの言語活動と一致しない。わたしたちは、どんなに優れたアンドロイドでも、彼または彼女をアンドロイドと知る限りにおいて、「うわぁ人間みたーい」とは言っても「人間」とは断じない。
 一方でもちろん、わたしたちは普通、自分の頭蓋骨を開けて見たことがあるわけではなく、通念上信じられている「人間の根拠」が、本当に「人間の本質」を規定しているわけではない。アホな人は遺伝子が人間なら人間だと思っているけれど、わたしたちが自分を人間だと思うのは遺伝子を調べたからではない。つまり一定のところまで疑い、それ以上は問わない、という「引き際」までコミで「人間」という語を巡る言語活動は行われている。
 逆に言うと、引き際をわきまえず、とことんやらないと気が済まないのが統合失調症(というか「分裂病的知性」)とも言える。とことんやったらわかるかと言うと、もちろんわからないので、大変辛い。普通の人には「その辺にしとけ」という大文字の他者の仲裁が入るけれど、分裂病的知性は極限まで行こうとする。
 これを何とか落ち着けようとするなら、一回「人間」であることを諦めてしまうのが早い。そうしておいて、改めて「人間のフリ」をする。これなら納得行く。というわけで、「フリをする」が治癒や適応の鍵になる。
 もう一つの重要な点は、「フリをする」というと、ついわたしたちは「では本当は・・」という文脈で解釈してしまおうとする、ということ。
 上記のように、この「フリ」は「本当は・・」を封じるための「フリ」なのだから、「フリ」の向こうに本質があるわけではない。そのような見方では「フリの本質」(!)は理解できない(「本当」を突き詰める器量もないのに、安易に口にするのが人間どもの悪い癖)。
 「フリ」は「内と外」の構造を取り入れることで、「内と外」を安定的に両立させるものだ。言わば、遅まきながらFort/Daをやっている。「ないものとあるものがある」という、象徴の機能を習得しようとしている。

 さらに展開すると、「内と外」というだけでは、何かのきっかけでまたぬるんと入れ替わる鏡地獄に陥るかもしれない。これを防衛するには、「内と外」を不均衡なものとして習得すれば良い。
 普通の人は「内」を「本当」として身につけるから元々不均衡なわけだけれど、後から学習している人は、そもそも「本当」にオチをつけられないところから出発している。だから「内=本当」というピン止めは使えない。
 だから、環境の中から「内と外」を導入しなければならない。何かピン止めできる関係を見つけ、自分を紐付けてしまう必要がある。
 求められる不均衡さとは、いずれかが開放集合であることだ。普通は「外」が開放なのだけれど(ベン図のイメージ)、逆は逆で不可能ではないと思う。つまり、「それ自体において定義されている」ものと、「それ自体のうちには定義を持たないもの」だ。
 これを手がかりにすると、「何でも良かったはずなのに、なぜセックスなのか」という極私的興味にもよく答えられる。

 イメージとしては、本質主義をつきつめていったら社会構築主義の側に出てしまった、という感じだろうか。
 ただし社会構築主義をちっとも信じていない社会構築主義者。あんまり神様が好きな人は、良い信仰者になれない。

 もちろん、これらは象徴を巡る構造についてのみ着眼したもので、疾病としての自閉症と統合失調症、その他モロモロを安易に結び付けてはいけないと思う。


 ・・というか、Nujabesの話やったよね?

※1
名づけられる、呼び名に振り向くということは、死者の登記簿に仲間入りすることで、既に戒名が与えられるに等しい。『神々の沈黙』2 書かれたもの、交易、欺き参照。

※2
グルテンは小麦、カゼインは乳製品に含まれるタンパク質で、これらが未消化のペプチドとして脳内に入り込むと、オピオイド・システムと呼ばれる鎮静作用のキーになってしまう。鎮静するのだから良いような気もしてしまうが、人間や動物は低オピオイド状態の方が社会性を発揮し「優しく」なる。言わば「オピオイド欲」が人間や動物を社会性に駆り立てている。仲良しといるとオピオイド・システムが活性化するからだ。

※3
なぜ節目で「フリ」がうまく行かなくなるのか、というのは考えてみると面白い。普通の人だって節目は怖い。おかしくなることもある。ただ、大抵は妄想に囚われたり幻聴が聞こえたりまでは行かない(現実界に何かが帰ってきたりはしない)。
極論すれば人間どもだって「人間のフリ」をしているだけなのだけれど、はるかに高度に「フリ」ができていて、節目にあっても連続的に推移できるようになっている。程度の差ではなく、質的差異がある。それは「節目の乗り越え」が「フリ」内部に取り込まれている、ということだろう。つまり、節目を越えて「別人のように」なっても、依然として<わたし>が連続していることを保証する何かだ。
この織り込み済み「節目の乗り越え」こそ、エディプス・コンプレクスと呼ばれるものの核心に他ならない。エディプスと言うと「母と寝、父を殺める」までがすぐ思い出されるけれど、決定的なのは最後にスフィンクスの謎に答え「それは人間だ」と看破していることだろう。つまり、わたしというものを生み出した欲望を、みずからの欲望として構成し、「人間」になった、ということだ。「普通の人」は、この「人間になる」が「フリ」の中にセットされている。前にもできたのだから、今度もできるはず、というわけ。
試験の夢というのがある。大抵は試験に受かった後で、受験前の状態を夢見て、目覚めて安心する、というパターンだ。わたしたちは一度問いに答えている。「それは人間だ」と。
「普通の人」の「フリ」が自閉症や統合失調症の「フリ」と違う点があるとすれば、それは「人間になる」メカニズムが「フリ」自体の内部に備えられているかどうか、ということだと思う。

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