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2007年04月21日

『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』 テンプル・グランディン

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『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』 テンプルグランディン キャサリンジョンソン TempleGrandin CatherineJohnson 中尾ゆかり『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』 テンプル・グランディン キャサリン・ジョンソン

 自閉症の動物学者テンプル・グランディンが描く動物の世界。
 『火星の人類学者』でグランディンのことを知り、彼女自身の著書を読むのは『我、自閉症に生まれて』に続いて二冊目なのですが、こちらの方が圧倒的に面白いです。
 「自閉症」「動物」、どちらもわたしにとって興味深いテーマだったというのもありますが、実際に手に取ると、両者の接合から脳・進化・言語といった領域を横断して素晴らしく魅力的な議論が展開されています。いずれか一つに関心がある方でも、読んでみれば世界が広がること請け合いです。
 行動主義について一定の評価を与えながらも、オペラント条件づけにすべてを還元するような評価法を批判、動物を「内側から」理解することを薦めるテンプル・グランディン。とは言っても、「動物大好きオバサン」のような擬人化しまくった語りがあるわけではまったくありません。
 動物好きであると同時に一研究者である、ということもありますが、まずは自閉症という「特権的」視座から人間と動物を見られることがあります。自閉症者は前頭葉による「関連付け」機能が弱く、ものごとを抽象・象徴化するよりはむしろ、細部から認識しよとする、と言われています(森ではなく木を見る)。彼女によれば動物も同じような感じ方をするため、言わば動物と人間の「間に立つもの」として語ることができる、ということです(いかがわしく聞こえるかもしれませんが、一読すれば彼女のディテールへの異様な「気付き」に驚かされます)。
 もう一つ、個人的にとても惹かれるのが、彼女が畜産施設の設計・監視などを通じて精肉業界で働いている、ということです。
 牛や馬を愛し、その扱いを厳しく監視する立場にありながら、一方で生きるために動物を殺す。「動物大好きオバサン」なら卒倒しかねないでしょうが、このリアリティがたまらなく美しいです。
 単なる擬人化や偏愛ではなく、時には殺して肉を食べることもありながら、せの世知辛さの中で守るべき仁義は通す。「火星の人類学者」という自己イメージに違わずどこか人を超えたようなところのあるグランディンですが、彼女のような立場こそ、本当に人と動物を共に考える者の道なのではないか、と思えます。
 『寄生獣』の中に「人と豚は、ある意味共生している」という台詞があり、わたしは大好きなのですが、こうした言葉をシニカルにではなく聞かせられる人物だと思います。

 面白いポイントが沢山ありすぎて困るのですが、いくつか気になるところを取り上げておきます。

きらきら光るもの

 動物は人間がまるで気にかけないような細かいものを恐れることがあり、そのリストを挙げている箇所があるのですが、その中に「きらきら光る水溜りの反射」「ゆれる鎖」といったものがあります。
 露骨にラカンの「まなざし」を連想させます。
 ラカンのややこしい話に入るのはやめておきますが、こうした「きらきら光る点」のようなものは、単に「怖い」「気になる」というより「畏怖」というか、魅了し、わたしが光を見ているのか光がわたしを見ているのかわからなくさせてしまう力があります。かく言うわたしも「光り物」には弱いです(笑)。
 興味のない人には理解しにくいのかもしれませんが、あの催眠のような力の系譜に属する何かが、動物を「足止め」して動けなくさせてしまっているのはわかる気がします。


意図せぬ淘汰圧と「慣れ」

 ある養鶏場で、雄鶏が雌鳥をずたずたに切り裂いて殺してしまう、というケースが見られたそうです。生殖の前に雄鶏は固定的な「ダンス」を踊り、これが雌鳥を誘発し性行為を受け入れるようにさせるとのことですが、この養鶏場の雄鶏は「ダンス」を踊らなくなってしまったため、結果的に受け入れ態勢でない雌鳥を襲い、言わば「レイプ」して殺してしまっていたのです。
 これについて、二つの点が指摘されています。
 一つは単一形質繁殖。ある動物について、一つの形質(普通は人間にとって都合の良い)を強化するよう繁殖を続けていくと、必ず副作用として期待していない性質までも極端に強化されてしまう、ということ。「レイプ」する性質というのも、元々ニワトリのどこかにあり、稀に発現することがあったのかもしれませんが、単一形質繁殖によって強化されてしまった、ということです。
 これに関連し「意図せぬ淘汰圧」という面白い問題が取り上げられています。
 ある同一種の豚を飼育している畜産場で、片方にはおとなしい豚、片方では活発な豚ばかりが見られる、というケースがあったそうです。ほとんど同じ飼育方法をしているにもかかわらず、なぜこうした違いが生じたのか。原因は工場の「秤」でした。
 畜産場では、繁殖用の個体を選別するに辺り、体重や形状などのスペックを測定します。片方の工場の秤は古かったため、暴れる豚の体重をうまく計測できなかった。その結果、暴れる豚はふるい落とされ、おとなしい豚だけが繁殖したのです。
 もう一つの論点は、人間の側が「慣れて」しまうということ。
 「レイプ」雄鶏が発生した養鶏場では、誰もそのことを問題視していなかった(すべての雄鶏が「レイプ」していたわけではない)。養鶏場の人びとが現象に「慣れて」しまい、「雄鶏というのは一定の割合でそういうことをするものだ」と受け止めるようになってしまっていたのです。
 この現象自体、様々な点で示唆的ですが(例えば地球環境問題についても)、人間の「慣れる」能力自体、この本のグランディンのテーマと直接関連しています。
 人間はおそらく、他の動物に比べて圧倒的に「慣れる」能力に秀でていますが、これは象徴化と深く関係しています。ある現象を象徴化し理解することにより、はるかに合理的な記憶・推論が可能になります。さらにこれは恐怖とも関係しているようで、PTSDの患者さんについて調査したところ、衝撃的な出来事を視覚的に記憶していた人より言語的に記憶していた人の方が回復が早かった、とのことです。
 言語化するというのは、事態を「消化」することで、良くも悪くも「今後に生かせる」ものだけに情報を圧縮することです。そのお陰で、恐怖を伴う新しい現象にも「慣れ」ることができるのですが、一方で慣れすぎるあまり、見落とされてしまうこともあるのです。自閉症者や動物たちは、こうした点を見落とさないのでしょう。


痛みと前頭葉

 難治性の慢性的な激痛の治療で、前頭葉を脳の他の部位から切り離す手術(低侵襲性のロボトミー)を施したところ、劇的な改善が見られた、というケース。これについてはアントニオ・ダマシオ氏の『生存する脳』で詳しく語られているようです。
 この患者さんの興味深いところは、痛みがなくなったわけではない、ということです。痛いのだけれど、それで活動ができなくなってしまうほどではない。痛み自体は脳のかなり古い部位から来るものだと思うのですが、慢性的な痛みについては前頭葉が大きな働きを担っているようです。
 グランディンはたびたび自閉症の人は前頭葉の働きが弱い、ということを指摘しています。つまり個々の情報を取りまとめる能力です。そのため「木を見て森を見ず」になるのですが、代わりに「木」が非常によく見える。動物もそういう状態にあるものと思われます。
 自閉症の人には時々痛みに異様に強い人が見られますが、前頭葉と痛みの関係について、非常に興味を惹かれます(ちなみに統合失調症の患者さんにも痛みに強いケースがある。これについては自閉症、統合失調症、「人間のフリをする」等を参照。ただし安易に二つの「疾病」を関連付けることには注意が必要)。


犬から学んだ人間

 本書末尾で、考古学者ウェイン氏による研究などをベースに「人間は犬のお陰で人間になった」という仮説が語られています。この本の中で最も面白かったポイントです。
 人間が犬(オオカミ)と暮らすようになったのは、ホモサピエンスに進化したばかりの頃にまで遡るようですが、この時期、人間はオオカミから多くの社会的行動を学んだのではないか、というのです。
 集団で狩りをし、複雑な社会構造を持ち、同性の非血縁者のあいだに友情がある。特に最後のものは、人間以外の霊長類に見られない特徴です。ネアンデルタール人が絶滅したのは、彼らが犬を飼っていなかったからではないか、というのです。
 家畜ではどの種でも、前頭葉がある前脳と脳梁が小さくなります。一方、人間は情動や知覚情報司る中脳、臭覚を司る嗅球が小さくなり、一方前頭葉が発達します。言わば家畜と人間は「合わせて一つ」、分業することで今の「わたしたち」になってきた、と考えられます。
 これはとても刺激的で、希望に富む話です。
 「人と豚は、ある意味共生している」と最初に書きましたが、この台詞を語った寄生獣の田村玲子は「パラサイトと人間は合わせて一つ、わたしたちは人間の子供なのだ」とも言います。
 ここから安易に「ガイア」的イメージに飛んでしまってはいけません。「全体」にジャンプすると、それこそあっさり象徴化されてしまい、このことの意味する真の痛みや悦びを感じることができません。
 人が何らかの捕食者に「狩られる」としたら、やはりそれは辛いことで、忌まわしいことです。豚にとっての人間だってそうでしょう。
 ただ、豚は「捕食者としての人間」を想定できず、一方でわたしたちは「全体」を想定できる。いや、「全体」を想定できるからこそ、人間は人間なのです。
 象徴化とは、ないものを「ない」という形であるが如く語れることですが、その地平は大文字の他者という「全体」あって成り立つものです。わたしたちは、個の集合とは別に「全体」それ自体(集合自体を指す象徴)を考えることができます。
 わたしたちは「合わせて一つ」を想定できることにより人間になりましたが、同時に責務を負っています。それは他の動物でも、まして「宇宙船地球号」のためでもなく、人間というある全体性に対する責務なのです。
 示唆的なことに、このすぐ後で、グランディンは「なぜそれほど動物好きなのに畜産業に携われるのか」という問いに答えています。それは読んでのお楽しみにしておきましょう。

 わたしは全体性をあっさり「神様」と言ってしまいますが、この言い方が多くの日本人にとって抵抗があるのは知っていますから、別に無理に神様を持ち出す必要はないでしょう。
 自由とは、わたしたちをこのロクでもない世界に引きずり出し「人間」なんかにしてくれた忌まわしい者のために、義務を果たすことを通じ「復讐」することです。

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