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2007年04月29日

ファシズム・全体・死者とネットの人間関係

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『ムッソリーニ―ファシズム序説』 木村裕主 『ムッソリーニ―ファシズム序説』 木村裕主

 アマゾンで「ムッソリーニ」を検索すると、一番ヒットするのがこの木村裕主さんの著書。先日紹介したロマノ・ヴルピッタさんの『ムッソリーニ―一イタリア人の物語』が「人間ムッソリーニ」に焦点を当てていたのに対し、政治的行動を中心に当時のヨーロッパ情勢解説を交えた、直球ド真ん中の「入門書」です。
 です。
 面白いのは、『ムッソリーニ―一イタリア人の物語』と合わせて読むと、同じ「歴史的事実」が恐ろしく別物に見えてくることです。ヴルピッタさんの本とは対照的に批判的なスタンスから語られてるのですが(むしろそれが普通)、もう笑えるくらい正反対の評価です。「歴史的事実」なるもの(ひいては「事実」なるもの)がいかにフィクショナルで政治的な存在なのかが、戯画的なまでに鮮明になります。
 「読み物」としては断然『ムッソリーニ―一イタリア人の物語』をプッシュしますが(わたしたちの受けてきた「洗脳」とズレる分「ハッとする」経験も得やすい)、近現代史に疎い方にはこちらの方が入りやすいでしょう。

 ここでは『ムッソリーニ―ファシズム序説』を素材に、<全体>なるものについて考えたいです。これはネット上の人間関係を考える上でも一つの導きになります。

 本書中で、「エンチクロペディア-イタリアーナ」にも掲載されているムッソリーニよる「ファシズムの原理」の要旨が紹介されています(※0)。

(ファシズムの)理念は反個人主義であるがゆえに、国家に味方する。(・・・)国家とは一国民の多数を形成する個人の総数ではない。それゆえファシズムは多数者に基づく民主主義に反対する。

 一方、本書の結びには、著者の次のような言葉があります。

(あるパルチザンの遺書に「国家とはぼくたち自身」とあるのを引き)国家とは国民がいてはじめて成り立つ。つまり、「国のため」ということは、具体的な「国民のため」とういことであらねばならない。往々にしてそれは、抽象的な「国のため」に使われて、国民は犠牲をこうむっている場合が多い。

 著者の木村裕主さんは、リアルタイムにラジオでファシスト党歌を聴いた世代であり、軍国主義を生きた経験にも由来する真摯な声でしょう。多くの日本人は上のムッソリーニの言葉に不快感を覚えるでしょうし、「個人は国家のために」などと言われればわたしも憤ります。というより、「国家」という響きに覚えるむかつきは、間違いなく平均的日本国民よりかなり強いです。
 ですが、まず第一に、国家とは国民により創成されるものではありません
 先日紹介した『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』で柄谷行人さんが極めて明快に述べられている通り、国家はまず他の国家に対して国家なのであり、個人が集まって自然に国家が出来上がるわけではないのです(※1)。国家が物理的実体として個人によって構成されていたとしても、個人の集合以上の「何か」です。
 では「民主主義」であれば、そのような「何か」が個人の集合に還元されるでしょうか。
 多数決では少数者の意見が「死に票」になるのは自明ですし、この点はオミットして、仮に全員の意志が完全に反映される「理想民主主義」を考えてみましょう(そもそも民主主義は多数決に還元されるものではない)。このとき「全体」をA、個人をaとすると、

A = a1 + a2 + a3 ... + an

 となるでしょうか。答えはノーです。
 「全体」には、

A = a1 + a2 + a3 ... + an + X

 となるXが常にあります。
 すったもんだの末にとにかく最終的に全会一致したのであれば、この「すったもんだ」がXです。
 全員の意見が何の議論もなく最初から完全に一致している、というならば別ですが、これは現実的にあり得ないという以上に、人間の成り立ちに反します。主体とは呼びかけに対し振り向くこと(うっかり振り向いてしまったこと)により生まれるものであり(※2)、<わたし>そのものが「すったもんだ」の中を流通する貨幣のようなものだからです。諸「意見」があり、それが「議論」されるのではなく、言わば「議論」が「意見」に先立つのです。
 しかも「すったもんだ」は単に間主観性ということではありません。「すったもんだ」には<ここ>にいない者も加わっており、往々にしてそれは「その者」の最初の言葉とはすれ違っています。そして<わたし>を生み出した語らいの海は時空を越えて広がっていて、「すったもんだ」には死者の声までも響いています。
 逆に言うと、Xとして個人individualを離れた言葉は死者の言葉のようなものです。<わたし>は「かつてわたしであったもの」ではなくなる限りにおいて<わたし>なのであり、死者=モノを<全体>の中に廃棄し続けています。わたしたちは常に片足を棺桶に捕らわれながら、もう片方の足を必死でそこから引き上げつつ走っているのです。
 どんとさんという方が「死とは情報化である」という素晴らしい表現を残していますが、語らいの海はそうした「情報」=モノ=死者の言葉と、変わり続ける「ニンゲン」の総体により成っています。
 死者の声や「情報」も生きている人間の口から語られる、というのはその通りですが、「それは誰の意見ですか?」と問うた時に誰も手を挙げられない声が語らいの中にはあるのです。

 わたしたちは、生きた数えられる個人individualが複数存在し、それらが「全体」を構成する、というモデルにどっぷりと浸かっています。おそらくその背景には、共同体を解体し労働者=消費者を生み出す必要のあった資本主義の原理が働いているのでしょうが、ここでは犯人探しはやめておきます。とにかく「A = a1 + a2 + a3 ... an」に非常に親しんでいて、しかも基本的にはこれで結構うまくいくにも関わらず、ぼんやりと「やっぱり何かが欠けている」気持ちが澱のように堆積していっています。
 例えばナショナリズムというものは、このXをネーションという想定物に託し、回復しようとする営みと言えます。スケールの小さな話なら、新興宗教だって似たようなものかもしれません。
 Xは美しいです。明日には言っていることが変わるかもしれず、体臭くさいaどもと違って、透明に輝いています。「A = a1 + a2 + a3 ... an」モデルに蹂躙されている立場なら、なおさらXを愛おしいと感じることでしょう。全体はあくまでAであってXではないのですが、このモデルが行き過ぎると、陰画としてのXがAと同一視されていきます。「欠けている何か」が激しく希求されるのです(※3)。

 「国家とは一国民の多数を形成する個人の総数ではない」。
 このムッソリーニの言葉を
 「Aとは(a1 + a2 + a3 ... an)の多数を形成する個人の総数ではない」
と読み替えたとしたら、それはある意味で正鵠を得ています。多数どころか、全部足してもAにはなりません。
 だからと言って、「A = X」というわけではありません。しかしXはそれ自体として取り出すことのできない何か、少なくとも「A = a1 + a2 + a3 ... an」モデルの中では名前を持たないものです。そのため、XはAという想定物を通じて表象するしかないのです。

 ファシズムに話を戻すと、上の「資本主義的モデル」に踏みにじられ切った人々が、「台無しにされたX」を回復する何かを求めるのは理解できることです。
 問題の一つは、Xを持ち上げすぎて、今度はa1やa2のことを踏み潰してしまったことです。
 もう一つの問題は、Xを代理する表象Aは「国家」なのか、「国家」でいいのか、ということです。
 後者の問題はかなり根が深いです。
 まず、ここでの「国家」は、本来資本とタッグを組んでネーションとはズレた位置にいたものがネーション的役割を一手に担い、国家を通じて「何か」を表現しようとしたものです。わたしたちは「単一民族国家」なのだそうですが、「ネーション≠国家」な国家、ネーションの力を恐れる国家は沢山あります。もちろん、ネーションとは想定物であり、いわゆる「民族」である必要はありません。おそらくムッソリーニとしても、最初は「何か」を表現するために国家を経路としようとしたのではないでしょうか(あるいは国家しか思いつかなかった)※4。
 しかし柄谷さんの指摘される通り、国家を使おうとする者には国家は使われる結果が待っています。国家を否定する「マルクス主義者」による「社会主義国家」を見るまでもありません。
 では国家ではない何かを通じてこれに到達しようとしても、そうあっさりとはいきません。
 わたしのような「国家」という言葉に馴染めない軟弱者は、つい「Aは結構だけれど国家やヤダ」と、人類全体だのなんだの、浮わついた抽象物を持ってこようとします。しかしXを「無きもの」として扱う世界でそれを表象しようとすると、表象するAには相応の統制的理念が求められます。a1やa2を巻き込みながらAを持ってくるなら、a1やa2が扱える範囲に動きを限定されてしまいます。イスラーム共同体くらい強くて人気のある代替物がない限り、Xは既存Aの思う場所にしか流し込まれません。とりわけa1やa2を尊重する、とされる「民主主義」では、利根川を付け替えるくらいの権力がないととても流れは変えられません。

 いきなり話が飛びますが、ネットの人間関係を見ると、Xがとても重要な働きをしているように感じられます。
 「死とは情報化」ではありませんが、情報とは死者の言葉です。大抵の場合、発信した人はまだ生きているわけですが、「情報」となった瞬間に棺桶に突っ込んでいる方の足に著名が移動します。辿っていけばもう片方の足はなんとか棺桶の外にあるのがわかるのですが(「へー、この人まだ生きてるんだ」)、まず最初は「死して変わらないモノ」としてわたしたちの元に届きます。
 繰り返しますが、Xは美しいです。とりわけ、a1やa2共にほとほとうんざりしている者たち、「A = a1 + a2 + a3 ... an」モデルに嫌気がさした人びとには心地よく響きます。
 もちろん、ネット上の人間関係は古典の読解ではありませんから、「辿っていくと生きた足がある」というところがもう一つの鍵になります。お陰で「a1やa2を否定しているわけじゃないのよ」と、「資本主義的モデル」にも一応の言い訳が立ちます。言い訳しながら、程よく死者とお喋りできるのです。
 バランスにはいくらか幅があって、ソーシャルネットワークのような「資本主義的モデル」に日和気味のものから、「虚空に向かって書くからこそ丁寧に書く」で書いたような、X重視、むしろ「A = X」でもいいくらい、なスタンスまであり得ます。
 「うぃーちきまーちき」さんの「たとえばお前が死んでも」というエントリで、ネット上の付き合いでは死んでも連絡が来ない、ということが取り上げられています。チャット等で親しい付き合いをしていても、ネットの外に共通の知人がいなければ、死んだことすらわからない、ということです(※5)。「死んでも気付かない」というのは、ある意味既に死んでいるからです。わたしたちがa1,a2的な付き合いをするというのは、それがa3,a4と連なる語らいの中に入る、ということで、必ず第三項があります。ネットへの参加は、語らいの中にXとして、つまり死者として彼岸より此岸を眺めるようなところがあります。
 わたしがX重視で語るとき、わたしにとって「みんな」はXです。しかし逆に、生きている皆さんにとってはわたしがXです。
 このメカニズムはファシズムともナショナリズムとも明白に異なりますが、ある種の人びとが「場としてのネット」に向かう動機には、ファッショに突き進んだ人びとと共通する動因があるように見えます。

 こうした流れで考えると、「<死者>を<みんな>の中に混ぜるネットこそ真なる<全体>である」のような、どこかのweb思想屋みたいな結論が出てきそうですが、それは行き過ぎでしょう。むしろXを求める衝迫をガス抜きする場として、権力にうまく利用されるのが関の山だと思います(ちなみに「権力推奨 都合の良いガス抜き」の典型が恋愛)。
 大衆の「国家」信仰が篤く、ネーションまでもがっちりくわえ込んでいるこの国では、ファシズムもまた(それが「大きなファシズム」になろうとする限り)何らかの形で国家にコミットする以外にないでしょう。

 率直なところを言うと、上のムッソリーニの言葉自体はわたしはかなり美しいと感じます。がっかりするのは、むしろ「民主主義」を一応持ち上げておこうとする次の下りです。

ただし民衆が量的でなく質的に考えられたならばファシズムは民主主義の最も純粋な形式である。すなわち国民の中の少数のもの、むしろ唯一人の(指導的)人間の意識と意志が遂行され、その理想がすべてのものの意識と意志の中に遂行されるようになる観念である。その国民は国家によって創造されるのである。

 最後の「国民は国家によって創造される」はよろしいでしょう。多くの方が不快なことでしょうが、主体=臣下subjectとはそもそも<全体>の元に産み落とされたものだからです。民主主義=資本主義コングロマリットが自由の程度をズラして見せる(「自由」気分を演出するが、その実自由などなく、大衆も望まない)のに対し、ファシストは何事も明示的なだけです。
 しかし「民主主義の最も純粋な形式」などが実現される必要があったのでしょうか。ここで言われているのはXではなく任意のa1が突然飛び出す思想です。一周回ってヘンな形で戻ってきてしまっています。戻ってこないで、そのまま突っ走るべきだったのです。
 「民主主義」が機能するのは、それが「最悪の中では一番マシな選択」としてイヤイヤ選ばれた時だけです。目指された途端、それはただの「最悪」になります。

 ファシズムは、ある限定的な場においては、これ以上ないくらい正しく美しい。それはXを呼び出し連れ戻す場です。
 ただしそれは、自らがXの領域に入り、Xの代わりに彼岸に置き去りとなる限りにおいてです。
 そして息を吹き返した死者もまた、課長と同じくらい下らないことしか言わないことでしょう。


※0
本テクストではこの発言をもってムッソリーニの思想を代表するかのように扱っていますが、当然ながら彼は非常に多くの言葉を残して、しかも矛盾だらけです。こうした矛盾を「ご都合主義」と呼ぶか「柔軟性」と呼ぶかは意見がわかれるでしょうが(多分均等にはわかれない)、わたしはどちらとも違う捉え方をしてます。この件については近くエントリを立てます。

※1
柄谷さんとしてはこんな文脈で引用されて心外でしょうし、不快感を覚えた柄谷シンパの皆様には申し訳ありません。

※2
「ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる」末尾の註3参照。

※3
柄谷さん的に言えば互酬=贈与的なるもの。

※4
だから極論すれば、ファシズムは「ファシズム国家」であることが必須なわけではない、とわたしは思います。歴史的ファシズムが国家を使ってしまったのは、単に大衆が「それ」を国家だと思い込んでいて、とても解除なんてやってられなかったからでしょう。ファシズムを「国家」にしてしまったのはむしろ大衆のせい、とも言えます。
より正確には、国家に墜ちざるを得ないけれど、国家形態は既にファシズムの核心からズレてしまっている、という辺りでしょうか。この発言はファシスト・反ファシスト両方から反発されそうですが、随時もう少し丁寧に展開していきたいです。

※5
運営者様より「連休中はプライベートモードにする」旨の連絡を受けました。引用コピペしても良かったのですが、会話調で長くなってしまうので、上の要約で済まさせて頂きます。


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