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2007年04月30日

「敢えてファシズム」

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 ファシズム関係のエントリをいくつか立ててきましたが、この辺で一度「わたしにとってのファシズム」をまとめてみます。

 そもそもファシズムとは何なのでしょうか。

 何度も書いていますが、現在「ファシズム」という語は「悪」の同義語で、ほとんど僭称としてしか使われていません(外山恒一さんも「ファシズムは誤解されている」で指摘されています)。これはもちろん、第二次大戦戦勝国によるプロパガンダの産物で、非道な一面があったにせよ、当時のイタリアやドイツがそんな単純に「悪」一色に染まっていたわけがありません(非道なことなら連合国だって沢山やっていますし、今もやっているでしょう)。
 世間的に流布しているイメージとしては、ファシズムは「民主主義」の反対で、時々「自由」と対置されていたりもします。
 歴史背景を見れば、広義の「ファシズム」が流行ったのは帝国主義諸国の中の「二等国」。大戦後見られた「ファシズム」とされる(僭称される)いくつかの政治体制も、発展途上でコンプレクスにまみれた国家で起こったもので、また先進国で「ネオ・ファシズム」などと言われているものも、支持の主体は低所得者層です。
 要するに「負け組」もしくは「このままじゃ負ける組」が、現実を直視するとしんどすぎるので大きな夢を打ち上げて「ごちゃごちゃ細かいこと言わんと一丸になってやるんや!」に他派の意見は黙殺する勢いで突き進むのが「ファシズム」です。
 ですから、ファシズムは本当は「イズム」という性質のものではありません。ファシスタ党自体、かなり長い間「ファッショ」「ファッシ」「ファシスト」という語は使っても「ファシズム」という言い方はしていませんでした。まず行動があって、「ファシズム」理論が後からついてきたのが実情でしょう。

 逆に言うと「理屈がないのがファシズム」とも言えます。「なんだ、やっぱりそんなものアカンやん」で終わってしまいそうですが、本来「イズム」でもないものを「イズム」と言ってみるところに、ファシズムの面白いところはあります。
 「人間、理屈じゃない」などと言いますが、人間は理屈です。理屈を語れず、理屈を考えているつもりがなくても、わたしたちの行動の背景には常に「理屈」がついています。
 どういうことかと言えば、例えば人が怒る時、その怒りの源は必ずしも筋道立ったものではありません。周囲から見た場合だけでなく、当人も後から考えれば「筋違いだった」ということがよくあります。それでも人は、何らかの「正当性」、正確には「正当に見えるもの」「筋の通ってるっぽいもの」、要するに屁理屈なしには怒ることができません。屁理屈もなく突然わめいたり叫んだりし始めた人のことを、わたしたちは「気が狂った」とか言うのです。
 これらは本当に屁理屈ですから、大抵の場合、論拠も何もあったものではありません。その屁理屈すら言葉にできないこともしばしばです。しかしわたしたちが人間の行動を理解しようとするとき、正しいかどうかは別として、行動の背景には何らかの理由なり動機なりがあると想定します。そうでないとしたら、相手を人間と認めていないことです。実際、長い間「狂人」は人間としてカウントされていませんでした。
 人間の背景には、常に暗黙的に「理屈」が読み込まれています。それが人間であることの一つの条件であるとすら言えます。
 他者と深く関係するような行動を取る場合には、とりわけ「理屈」が期待されます。この期待は自分自身の行動に対しても向けられますから、例え悪いとわかっていることを行う場合でも、「所詮世の中金や」なり何なり、屁理屈がこねられているはずです(もちろん、当人が意識しているかどうかは別問題)。
 そしてどうにも屁理屈が思いつかない時、自分でも理屈に合わないことがわかっていて「でも何か正しい気がする」「どうしてもやらないわけにいかない」時、最後に出てくる屁理屈が「人間、理屈じゃない」です。「人間、理屈じゃない」という理屈によって、ギリギリ人間の領域に踏みとどまろうとするわけです。

 ファシズムが「イズム」なき「イズム」であるのは、この「人間、理屈じゃない」的なところがあります。もちろん、「人間、理屈じゃない」ほど開き直っているわけではなく、多少なりとも理論武装があります。「イズム」なき「イズム」はファシズムの専売特許ではありませんから、「イズム」なき「イズム」の中でも「これぞファシズム」といういくつかの特徴はあるでしょう。
 しかし「ファシスト的行動」を「ファシズム」と断じる時、引き絞られた弓が放たれるように「人間、理屈じゃない」が弾ける勢いが必ずあります。本当に切羽詰って「これしかないんだ!」という飛び出し、「これだけはどうしても譲れない」という決意、あるいはヤケッパチです。
 これが一点。

 加えて、今「ファシズム」を言う(ファシストを名乗る)ことには、純粋に歴史的対象としての「ファシズム」にはない別の一面があります。
 まず、一番簡単なのは偽悪的態度としての「オレ、ファシストだからさ」。これは単に通念上のイメージに乗っかっただけのスネ坊なので、特に解説する必要はないでしょう。
 問題は偽悪的ではなくファシストを名乗る場合です。
 真にファシズムを信じ、ファシズムこそわが道、とファシストを宣言すれば、その時当人にとって「ファシズム」は悪ではないでしょうか。
 残念ながら、依然として「悪」です。ファシズムの正当性をいかに主張し、心の底から信じていたとしても、その人が「ファシズムと言えば世の中の人は悪いことだと思っている」ことを「知って」いる以上、何らかの形で「悪っぽいもの」の陰が織り込まれています。わたしたちは、語をそのようにしか操作できないからです(もちろん、「ファシズム」の世間イメージをまったく知らない、という驚異的な日本人が存在した場合、この限りではない)。
 スネ坊は「悪とされているものを悪として」利用しているだけですが、後者は「悪から善を作る」あるいは「悪とされているけれど実は善なのだ! ・・ちょっと悪だけどね」な使い方をしています。少なくとも現代日本で「ファシズム」を言う場合、それを「良いもの」として主張するとしても、「既に悪とされてしまっている」事実を何らかの形で織り込まないわけにはいきません。
 要するに「ファシズム」は必ず「敢えてファシズム」です。

 以上二点、「屁理屈をもって屁理屈を制す」「敢えてファシズム」こそが、「ファシズム」の最大要点です。
 控えめに「わたしにとってのファシズム」と書こうかとも思いましたが、誰が言おうがこれこそ要点、と敢えて断言してしまいましょう。
 「ファシズムは自由を抑圧する」「いやいや、ファシズムこそが解放なのだ」「ファシズムは民主主義と相容れないか」などといういかにもな議論は二の次三の次です。そんなものは屁理屈と屁理屈のせめぎ合い、所詮は理屈の内側です。せっかく「人間、理屈じゃない」という最終屁理屈で突破しようというのに、並みの屁理屈に引っ張られては「正当な」屁理屈に理屈負けするのは目に見えています。理屈じゃ負けるからファシズムなのです。
 もちろん、理屈を言ってはいけない、ということではありません。ファシストにはファシストの理論があります。
 しかしそのすぐ後ろには最終屁理屈の鉄砲が銃口を向けています。「一応理屈は言ってみるけれど、ダメだったら殴ったらいいや」くらいの勢いです。

 なんだかかえってファシズムを貶めるようなことを調子になってしまいましたが、「ダメだったら殴ったらいいや」というのは権力の本質、政治の真実です。うぃーちきまーちきさんの言葉の持つ価値の違いというエントリに次のような記述があります。

 私は、民主主義であれなんであれ、国家というものの背景は暴力装置であり、そしてそれが「権力」であるという理解をしている。暴力装置を独占することが、国家という「権力」の安定に繋がる。
 その「権力」に抗う必要が出来たときには、その「国家」が持つ暴力装置を超える暴力を持たないと、体制を変えることが出来ないと知っている。明治維新も然り。
 だから私は、テロというのは最終手段に常に担保しておかなくてはいけないし、その意味からも「絶対的な悪」の烙印は押していない。

 非常に簡潔に権力とテロルの本質を表現した文章で、感心してしましました。
 広義の権力の背景には、常に「ダメだったら殴ったらいいや」があります。そして他のパワーに「ダメだったら殴ったらいいや」を使われては困るので、国家権力は「ダメだったら殴ったらいいや」を巧妙に見えなくして「『ダメだったら殴ったらいいや』などという発想はイカンよ」と説くのです。「ダメだったら殴ったらいいや」抜きで広義の権力=行動が成立すると信じているとしたら、非常におバカかズバ抜けていい人なだけです。
 日本のようなそれなりに安定した国家では、そう簡単に「殴られる」ことはありません。チワワのようにキャンキャン吠えないでも、セントバーナード然としていて大丈夫だからです。ゆえにこそ一層「『ダメだったら殴ったらいいや』などという発想はイカンよ」という洗脳がうまくいくわけですが、それもセントバーナードが大きな犬で、本気になったらチワワなど一撃で葬りされるからです。
 ファシズムは残念ながら、そんなに大きな犬ではありません。大きかったらファシズムなど要りません。
 でもその分「ダメだったら殴ったらいいや」を率直に表現します。最終屁理屈をかざすことで、「屁理屈も理屈のうち」「理屈は所詮理屈」をむき出しにしてしまいます。
 ファシズム、正確に言えば「ファシズム」という語の美しさは、このコンクリート打ちっぱなしのような美学にあります。打ちっぱなしすぎて雨漏りしてくる勢いです。
 「民主主義」がノラリクラリとかわして時間を稼いでいるところを、ズバリと突っ切ってしまうのです。サラリーマンだったら絶対出世できませんけれど


 以上が大前提ですが、あまりにも「ファシズム」らしくないことしか書かなかったので、次のエントリで「応用編」をお伝えします。

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