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2007年05月20日

アンドリュー・パーカー『眼の誕生』と対象aとしての眼差し

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『眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く』 アンドリュー・パーカー 渡辺政隆 今西康子 『眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く』アンドリュー・パーカー

 突然ですが、生物学が苦手です。
 文系のくせに高校の理科で物理・化学を選んでしまった時点で脱落(ちなみに理由は、生物の先生が下品で嫌いだったから)。等脚目だの顎脚綱だの言われても、わたしから見れば全部「虫」です。
 一般向けとは言え『眼の誕生』も生物学の本ですから、ナンヤラ科カントカ目の類が沢山登場するのですが、正直、最初から最後までさっぱりイメージできませんでした。
 にも関わらず投げ出す気になれなかったのは、本書のテーマが素晴らしく魅力的だからです。
 以下、「ネタバレ」になってしまうかもしれないので、気にする方は読まないで下さい(推理小説ではないですし、結論はわかっているのですが、ワクワク感を演出する構成なので、念のため)。

 『眼の誕生』の主張する「光スイッチ説」とは、「カンブリア爆発」と呼ばれるカンブリア初期における生物の急激な多様化の原因を、「視覚の誕生」に見るものです。眼を持つ捕食者が誕生することで、その捕食に対抗するため多くの生物が硬組織を獲得していった、といういうことです。
 つまり「見た目」のために様々な生物が生まれた(「見つかりやすい」生物は食べられて滅んだ)、ということで、こうした「見た目」は、被食側の視覚獲得により捕食者の方にも求められるようになった、と考えられます。
 何せ生物学音痴の言うことなので、正確には少し違うかもしれませんが、着眼したいのは「見た目」の機能そのものです。
 重要なのは、「見た目」により多様化した側には、必ずしも視覚は必要なかった、ということです。「見られる」だけで良かったのです。
 極端な話、世界に視覚というものが一つあれば、それは視覚を持たないもの(視覚というものの可能性すら知らないもの)にも「視覚的効果」を与えます。
 軽々しいアナロジーは控えるべきですが、ここからラカンの「眼差し」を連想しないではいられません。

 眼差しは、欲望の原因=対象である対象aとして乳房・糞便・声とともにラカンが挙げているものです。それは(言語的)要求が(「生理的」)欲求の向こう側に開く余白mergeにおいて、欠如として欲望の原因=対象となるものです。
 よくラカンの鏡像段階を説明するものとして「母親に抱きかかえられて鏡に映る赤ん坊は、統合としての自己像を得る。赤ん坊であるわたしは、母親の『眼差し』に悦びを覚える」といったものがあります。この喩えはわかりやすいのですが、正にそのイメージの容易さゆえに、ややミスリーディングです。
 眼差しとは、<わたし>を視ている「視線」、<わたし>の視覚印象に映る眼球像のことではありません。
 ラカンは眼差しを、「自分を見ている自分を見る」という「意識」の裏返し、とします。
 鏡に映った自分を見たとき、わたしは「見られている自分」を見るのでしょうか。そこでわたしたちが見るのは、あくまで「見ている自分」です。このとき消失したもの、「見ているわたし」と引き換えにfadeしてしまったもの、それが「見られているわたしを見る」ものとしての眼差しです。
 『精神分析の四基本概念』には以下のように要約できる箇所があります。

メルロ=ポンティが示すのは、見えるものは見る者の目のもとに我われを置く何かに依存している、ということだ。この目は私ならむしろ見る者の「芽」とでも呼ぶであろうなにものか、見る者の目以前のなにものかの隠喩にほかならない。眼差しはあらかじめすでに存在している。つまり、私は一点だけから見ているのに、私は私の存在においてあらゆる点から見られている。

 眼差しが「見る器官としての目」ではないことは明らかですが、「見られるモノとしての目」でもありません。それは「見る者の目以前のなにものかの隠喩」です。
 「わたしを抱きかかえる母親の眼差し」は、視覚的にイメージされてしまった途端、「それを見ているわたし」に回収されてしまいます。眼差しとは、その視覚イメージの一瞬手前で消失してしまった何かです。

 (・・・)我われを取り巻き、まずは我われを視られる存在にしてしまうこの眼差し、それは姿を現さない眼差しです。  世界の光景はこの意味で我われにとってすべてを視ている者として現れます。(・・・)熟視と言う経験の水準ですら、このすべてを視ている者という側面は、視ている者が姿を現さないという条件で視られていることを意識している女性の満足に認めることができます。  世界はすべてを視ている者であって、露出症者ではありません。というのは世界は我われの眼差しを挑発するわけではないからです。もし世界が眼差しを挑発しはじめたなら、そのときには不気味さもまた始まります。  それはいわゆる覚醒状態においては眼差しの省略があるということにほかなりません。それが視ているということの省略だけでなく、「それが現れる」ということの省略があるのです。逆に夢の領野ではさまざまなイメージの特徴とは、「それが現れる」ということです。
主体とは本質的な動揺の中で幻想に吊り下げられているようなものですが、視る関係においては、その幻想が依存している対象は眼差しです。(・・・)主体がこの眼差しに焦点を合わせようとするやいなや、この眼差しは点状の対象、消えゆく存在の点となり、この点を主体は自身の瓦解と取り違えます。(・・・)このため、眼差しは他のすべての対象にもまして無視され、またおそらくそのために主体は、自身の消え行く点状の特徴を、「自分を見ている自分を見る」という意識の錯覚という形であれほど幸運にも象徴化する方法を見出すのです。この錯覚においては眼差しは消えてしまいます。

 眼差しは目に見える「眼の形」ではありません。さらに「視線を感じる」時の「視線」とも違います。
 これをイメージするのに、「光スイッチ説」はとても使いやすいです。
 「見られる」可能性を得ることで多様な進化を見せた被食者たち、彼(彼女?)らはもちろん、「見せよう」と思ってその形をとったわけではありません。生物として選んだ個体がいるとすれば、当然捕食者の方です。
 もしこの時、捕食者に「見つかりにくい」形をイメージする被食者を想像してしまったら、「わたしを見る母親」の二の舞です。
 彼らは自ら形を変えたわけでもなければ、何によって選ばれたかも「知らなかった」のです。「いかなる見た目が有利か」以前に、「見た目」というもの、視覚という世界そのものを「知らない」のです。
 この時、見ることができないばかりか「見る」という可能性すら「知らない」彼らを見ているもの、それが眼差しです。
 それは三葉虫の拙い視覚でしょうか。むしろ彼らに「見る」ことを可能にしている何か、「見る」ことを知らない者が<それ>として想定する何か、世界を見ているもの、光そのものです。
 もちろん、光がわたしたちを見るわけではありません。それは「見る者の目以前のなにものか」であり、「見ることを可能にしているもの」「見られることより見ることより前にある何か」、言わば純粋に「見せる」次元のものです。

光であるものが私を視ています。そしてこの光のおかげで私の目の底には何かが描かれます。
私を視ているものはすべてこの光点という水準にあります。

 これは「光=眼差し」ということではなく、「光そのもの」が「光に照らされ目に見える」対象に対して取る水位、そのような場所に「見る者の目以前のなにものかの隠喩」が成立する、ということです。光点は「対象」ではありませんが、同時に「目に見える」ものでもあります。直視できないもの、「見え」すぎてしまって目を逸らさざるを得ないもの、そこから目を逸らすことで「見る」ことが可能になり、「自分を見ている自分を見る」水準が可能になるもの、それが眼差しです(※1)。

 「光スイッチ説」と眼差しの間には比喩が成り立つだけで、それ以上の何かがあるわけではありません。
 これは個体の発達論的歴史についても同じことなのですが、誤解を承知で敢えてもう少し身近な「段階」を描くなら、「まだ目の見えない赤ん坊を抱きかかえている母親」を想起すれば良いでしょう。
 眼差しは、目が開くと同時に、光点という以上に「視覚的」イメージを持ち得ないものとして消失してしまいます。
 対象aはすべて身体の部分的「破裂」éclatです。眼は破裂して、「見る目」が残り、眼差しは欠如の印となりました。

 眼差しを語るのにラカンがしきりに擬態を取り上げるのも、このためです。
 眼の模様を羽に背負った蝶、それは「見る目」を描こうとしたわけではありません。それどころか、その模様が「眼のように見える」ことすら「知らない」のです。蝶にとっての視覚(見る目)と全く関係のないところで「眼」として機能してしまっている眼、それが眼差しです。


 全然関係ありませんが、『眼の誕生』のカラーページには、「見た目」による「警告」が功を奏さなかったケースが掲載されています。
 ハリモグラを食べようとして死んだオオトカゲの標本です。
 余りにもグッと来たので、写真を撮って無断転載します(ごめんなさい)。

 「もののあはれ」を感じます。
 「言わんこっちゃない」をこれほど見事に凝縮した一葉はありえないでしょう・・・。


『ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念』 ジャック・ラカン ジャック=アラン・ミレール Jacques Lacan Jacques‐Alain Miller 小出浩之 鈴木国文 新宮一成 小川豊昭 『精神分析の四基本概念』 ジャック・ラカン

※1
ラカンは、絵画における消失点として眼差しを「描く」ことができる、と言います。「直視することはできない光点」というとバタイユみたいですが・・。


関連記事:
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「追い抜いちゃった人たち、愛=暴力、資本」
「人間のフリをする人間」
「決めてもらうこと、決めること、知っていると想定される主体」

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