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2007年05月02日

ムッソリーニ、人種、自由

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 「応用編」二回目です。
 というか、本音を言えばこの四回のエントリはこれが書ければ良かったのですけれど、前フリなしではあまりに厳しいと思ったので、遠回りしてしまいました。

 エミール・ルードヴィッヒによる有名なムッソリーニのインタビューがあって、バロウズの翻訳で知られる山形浩生さんweb上に訳文を公開されています。
 その中に、次のような一説があります(文中「わたし」はルードヴィッヒ)。

「(・・・)だれも自分自身を人類から切り離すことはできない。そこには非常に具体的なものがある。自分を産み落とした腹を持つ人種の人間性というものが」
「つまりはラテン人種ということですか。フランス人も含まれますね」とわたしは口をはさんだ。
「今回の一連の会話のなかで、純粋な人種などというものはないと宣言したはずです! そんなものがあるという信念は、ただの幻想、感情にすぎません。しかしだからといって人種がないことにはならない」
「もしそうなら、人は自分で人種を選べることになる」
「そうですね」

 普通に読むと、明らかに矛盾した発言です。
 「人種から自由になれない」と言いながら「純粋な人種などない」そして「人種は選べるのか」という問いにイエスと答える。
 ムッソリーニのことなので、何となく思いつくままに答えただけかもしれません。しかしここにはとても重要な真理が示されていて、最初に目にした時はガツンと殴られたような衝撃を受けました。
 彼自身が意識できていたかどうかは疑問ですが、独特の直観で見抜いていた気がします。

 人種とは何でしょうか。人種は民族=ネーションとは異なります。

 人種とは人間を肌の色などの身体的形質から分類する概念ですが、生物としてのヒトの分類としてはほとんど意味を持ちません。つまり恣意的な文節であり、極論すれば「線を引く」ためだけにある概念です。
 しかし「線を引く」だけだから人種概念が無意味、あるいは「悪」ということにはなりません。
 象徴言語とは、そもそも「線を引く」ことにより機能するものです。構造主義の教科書のようなことを書くのは恥ずかしいのですが、ラカンが下のような有名な図で語っています。
 
 ARBREというのは木のことで、わたしたちが日常的にぼんやり抱いている言語観は、このように「木」という語(音)があって、それが実体としての木に対応している、というモデルでしょう。
 しかし「木」がarbreだったりtreeだったりすることからもわかるとおり、それが「木」と呼ばれることには何の必然性もありません。arbreがarbreであるのは、arbreの他の語に対する関係によって決められています。それを示すのが右側の図。
 上に書いてあるHOMMES DAMESというのは「男 女」ということで、要するにトイレの入り口です。
 下の扉はどちらもまったく一緒です。モノが異なるのではなく、ただ語が語に対して持つ関係により「線が引」かれているのです(※1)。

 では人種概念の何が特殊かと言えば、それがヒトをモノに変えてしまい、そこに「線を引く」ところです。
 人種とは「モノとしての人間」の性質です。もちろんそんなものは仮想にすぎないのですが、少なくとも名指そうと試みています。
 人間が肉の塊に還元されてしまう。それが恐ろしいのは、本当のところ人間は肉の塊だからです。
 わたしたちが象徴経済に参入するのは、語らいの中で「一人のニンゲン」として想定されるからです。誰も赤ん坊を手や腕のたまたま繋がったものとはみなさず、個であり「名を持つまとまり」として呼びかけるからこそ、<わたし>は振り向き、そこに主体が誕生するのです。
 昨日の<わたし>も今日の<わたし>も連続した一つのものである、ということを支えているのは「名」です。名とは<みんな>によって「名指された」ということです。
 こうした「象徴化」の最先端にソフィスケートされたものが人権といった概念ですが、逆に言えば脆い基盤の上で何とかやっているだけなわけで、うっかり「王様は裸だ!」と暴露されてしまっては困ります。それは人間がわたしたたちの考える「人間」ではなくなってしまうことで、大変恐ろしく感じられます(※2)。

 そんな恐ろしい人種概念なら、なんとしても撤廃しなければならない気がしますし、実際そういう動きもあるわけですが、簡単には消えてなくならない。一つには、人種概念は「あいつらとは違う<わたしたち>」を括り出し一体感を演出するのに好都合なので政治的利用価値がある、ということがありますが、それだけではありません(そういう目的ならむしろ民族=ネーションの方が適しているし、実際ポピュラー)。
 わたしたちはモノでなくなることにより「人間」になりましたが、その時切り捨ててしまったもの、生まれないが故に死にもしない<かつてわたしであったモノ>に郷愁を抱いています。<わたし>は言語経済の中を流れる貨幣のようなものですから、人間の象徴世界では機能しても、どこか浮ついて寄る辺ないところがある。だからといって<わたし>をやめることはできませんし、<かつてわたしであったモノ>が回復されるわけでもありません。それでもわたしたちは失われた肉片を求めて止みませんし、それがファンタジーの核心でもあります。
 すっぱり諦めきれないのは、arbreの向こうにある「木自体」のような、何かモノの断片が時折世界を横切るからです。象徴世界には本来現れるはずのないものが、ちょっとだけ縁に引っかかることがあります。口とか肛門とか性器とか、そういう文字通り「縁」のところには何かが引っかかっています。うまくすればそこからズルズル<モノ>を取り戻せるのではないか、という気にさせるのです(※3)。
 人は本当に辛くなると、身体に帰ることがあります。ヒステリー症状などがわかりやすいですが、もう本当に何がなんだかわからなくなって、前頭葉チックな判断ができなくなってしまうと、ひたすら食べ続けたりとかヨガの修行に入ってしまったりとか、もうちょっと「健全」な例なら空手を始めてみたりとか、そういうことがよくあります。お札を眺めて「こんなもの紙切れやん」と寂しく呟いたり、逆に「紙切れなんじゃーっ」とハイになってみたりする感じです。
 人種という概念には、そういう郷愁をうまく絡め取るところがあります。
 「黒人は黒人なんだから仕方がない。だって黒いもん」。「オレが白いのだって、選んで白くなったわけじゃない」。
 この選択の余地の無さというのは、恐ろしいと同時に非常に気持ちの良いものであって、ウソくさい「人間」という統合を一回バラバラの肉片に変えてしまう力があります。安全圏から「人権」などと空々しいことを言っているだけのリベラルに煮え湯を飲まされ続けていたりすると、余計に何もかも肉片からやり直したくなります。

 この人種という概念の最も極端な使い方をしたのがナチスです。
 何せ人間を石鹸にしてしまったくらいですから、肉片なんて生易しいものではありません(※4)。
 最近「禁煙ファシズム」「健康ファシズム」などという言葉が流行っていて、実際ナチスは健康を「義務」のように課していたようですが、これも石鹸の裏返しだと思えば良いでしょう(※5)。また『NHK問題』では戦前日本においてラジオ体操が果たした役割について触れられていますが(Life is beautifulさんのエントリが引用してくれています)、これも肉片再構成の営みと見ることができます(※6 ※7)。
 ムッソリーニはナチスのような「人種」政策を取らなかった(少なくともナチスほど極端ではなかった)とされていますが、いずれにせよファシズムと人種-肉片思想は大変ゆかりが深いです。

 そのムッソリーニの言葉が冒頭の引用です。
 これは「わたしは常に人生に対して博愛的な観点で見ていた」とルードヴィッヒがムッソリーニの言葉を引用したことに対する返答として展開された会話で、つまり「博愛 - 人類<全体>への奉仕 - 生まれというもの - 人種」という連合が背景にあります。すなわち、ここでの人種とは、「動かすことのできない自らの根」を表象しており、<全体>と<わたし>をつなぐものです。
 <わたし>を呼び出したのは<全体>です。赤ん坊に語りかける大人たちの言葉の雲、語らいです。それは一つの実体としてどこかにあるわけではありませんが、個の全体を足した以上の何かです(※8)。
 それは「切り離す」ことのできないもので、<わたし>が<わたし>になる時の引っかかりの残滓、縁です。
 ここまではナチス的な「人種」と大きく異なるわけではありません。いわゆるレイシズムの「人種」です。
 一方で彼は言います。
 「純粋な人種などというものはない」。そして「人種がないことにはならない」。
 「人種」はあるが、純粋なものとしては抽出できない。つまり何か<残り>はあるのだけれど、ズルズル引っ張ったら全部出てくるかというと、そうもいかない。常に視界の隅を横切る陰のように、ただわたしたちを惹きつける。
 わたしたちは<かつてわたしであったモノ>から逃れることはできませんが、一方でその場所に帰ることもできません。
 そして決定的なことに、彼は「人種は選べる」と言っています。
 正確には「もしそうなら、人は自分で人種を選べることになる」という問いに「そうですね」と答えただけなので、はっきり「選べる」と言ったわけではありません。しつこく混ぜっ返すので「うるせーなぁ、オレ頭悪いんだから難しいこと聞くなよ、人種くらい選べるんちゃう?」程度のつもりで答えただけかもしれません。
 「選べる」と言っても、ピザのトッピングか何かのようにチョイスできる、と思っていたわけではないでしょう。この「選べる」を「自己決定」みたいなちゃんちゃらおかしい文脈で捉えてしまうと、とんでもない誤読になります。

 人種は選べません。選べるようなものを「人種」とは呼びません。
 決定的に受動的で、絶対に自由になれないものだからこそ「人種」なのです。
 しかし自分の「人種」が何なのか、それをはっきりと名指すこともできません。なにしろ人種概念による区切り自体が象徴的なものにすぎませんから、「人種」は肉片への回帰を示す言葉でありながら、極めて非-身体的なのです。
 それは背中に書き込まれた文字のようなものです。自分では振り返って見ることのできない、誕生と共に刻印された名。
 直接見ることが出来ない時、わたしたちはどうするでしょうか。<みんな>に聞きます。
 でも<みんな>は何も言ってくれません。大人たちの言葉の雲は彼方に去り、神様は何も言ってくれないのです(※9)。
 だからといって、<モノ>を諦めることなどできませんから、「<それ>はこれ? それともこれ?」と次々に質問するしかありません。飲み会のゲームなんかでありそうなアレです(そんな深夜番組みたいな飲み会に遭遇したことはありませんが)。それでも、<みんな=全体>への問いかけ、「<わたし>は誰なのだ、何者としてこの世界に呼び出したのだ」という問いには、沈黙しか返ってきません。
 何が「正解」でしょうか。「所詮そんなものはわからないのさ」と嘯き沈黙することしょうか。
 ムッソリーニは黙りません。
 彼は叫びます。「オレは<これ>だ」と。
 もちろん、本当に<それ>なのかどうかはわかりません。大ハズレかもしれません。
 しかし問いを譲ることのできなかった者は、わが身をもって「神様のナゾナゾ」に挑みます。それが一回性を引き受けるということであり、逆説的にも、わたしたちに許された唯一の自由なのです。

 ムッソリーニの「選べる」は、選択肢の中から一つを選ぶことではなく、「選ぶ」という行為に打って出る、言わば「選ぶ」を選ぶ、ということです。
 選ぶのは今日のオシャレポイントなどではありません。自らの肉をつかみ、骨を掲げて宣言するのです。人体を一回バラバラにし、その切れ目から何かを掴み取るのです。

 本当のことを言えば、そこで選ばれたものはつまらないもので、いざ掴み取ってみれば平々凡々たる粗品のタオルみたいなものかもしれません。
 これは「ファンタジーとファシズム」で「ファンタジーを破る唯一の方法は、ファンタジーを実現してしまうこと」としたこととと並行的で、選んだとしても概ね「ハズレ」で、しかも最後まで「アタリ」の出ないナゾナゾを永遠にやらされるだけです。
 だからこそ、それを承知で叫んでみることが自由の唯一の方法です。トッピングを選ぶ自由など、「パンとサーカス」の一演出にすぎません。

 ファシズムと言うと、一般的には「自由を制限する」ものだと思われています(※10)。
 ある意味では真でしょう。ファシスタ党にしてもナチスにしても、多くの言論を制限したことは間違いないと思います。
 ただ、似たようなことはファシスト以外もやっていて、要はハッキリ言うか「トッピング的自由気分」を演出するか、という違いです。
 トッピングを選ぶのも悪くないです。パンもサーカスも楽しいと思います。
 一方で、最後の自由を行使してしまう、という道もあります。
 これはしばしば一方通行で、下手をするとパンもサーカスも失ってしまうかもしれない道です。
 でも考えてみれば、道は最初から一方通行なのです。復路はないのです。でもそう思うと辛くて涙が出ちゃうから、グルグル回って帰ってこられるようなホメオスタシス気分を続けているのです。

 わたしは小心者なので、そうそう自由を行使する根性は持ち合わせていません。寝るのが大好きです。
 でもそれ以上に欲深く気分屋なので、時々パンを握り締めたまま飛び出したくなることがあります。


※1
 「いや、男子用と女子用では構造が違うぞ」とオイシすぎるところにツッコんでいると、クラスの人気者にはなれても内申書に響くのでやめた方がいいと思います。
 また、上の説明はめちゃくちゃはしょったものなので、気になる方は構造主義の入門書でも読んでみてください。
 ものすごい根性のある方は『エクリ』に取り組まれたら良いと思いますが、原文か英訳がないと訳語が最近の翻訳書と違いすぎてさっぱりわかりません。もちろん、原文は原文で発狂しそうになります。わたしは発狂して、挙句の果てがコレです。

※2
 「肉の塊としての人間」については「ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる」参照。

※3
 ですから、本当は「性」も人種と同様、というより「性」こそ適切なのですが、こちらを出してしまうと染色体だの何だの中学生のような還元論へのお約束的反論から書き起こさなければならず、ダルくてやってられないので「人種」にしておきます。確かに人類の「性」は二種類の箱にほぼ放り込めますが、第一に器質的レベルでもこれらに分類できないインターセックスが大勢いること、第二にわたしたちの「性」の使い方は象徴的に決定されているものです。つまり「人種」同様、「肉片を目指しながら極めて非-身体」という逆説の中にあります。
 みなさんが自分を男だの女だの自信たっぷりにおっしゃるのは、染色体検査を受けたからではないでしょう。ちなみにわたしは受けたことがありますが、自費で2万5千円くらいふんだくられて二時間くらいヘコみました。
 「人種」同様、性は「自己決定」などできませんが、「選ぶ」ことを選ぶ、という暴挙には出られます。わたしたちは自分の「本当の性」など知らないのですから。

※4
 「ユダヤ人」はもちろん「人種」ではありませんが、それを「人種」と言ったところにナチスの「すごい」ところがあります。
 ナチスはホロコーストなんかじゃなくて戦闘サイボーグを作れば「正解」だったのですけれどね。

※5
 「禁煙ファシズム」という語を使う方は、「今の喫煙者抑圧はファシズムだ、だから悪だ」と言いたいのでしょうけれど、これも「ファシズム」濫用の一例です。百歩譲って嫌煙運動が「ファシズム」だとしても、そんな「にせファシズム」はファッショの風上にもおけません。一人一殺で嫌煙派をポアするくらいやって下さい。わたしはやりませんが。

※6
 戦前日本の体制を「ファシズム」とするかどうかは大いに意見の分かれるところでしょうが、ここでの議論とは直接関係しません。ただ、「敢えてファシズム」こそファシズム、とする(メチャクチャな)立場からは、明白に「ファシズム」ではありません。

※7
 ラジオ体操と言えば、シュレーバー症例で有名なシュレーバーさんのパパがヘンテコな「身体矯正マシン」を息子に押し付けていて、今で言うラジオ体操的なものの考案者だった、という話があります。この辺も実に連想が膨らみますが、面白すぎて脱線しまくるので、またの機会に取っておきます。

※8
 「ファシズム・全体・死者とネットの人間関係」参照。

※9
 「神様は何も言わないよ。言わなくなって、何年にもなる」(『気分はもう戦争』矢作俊彦 大友克洋)

※10
 外山恒一さんが「ファシズムとはおおよそこんな思想である」で「ファシストは、自由主義者である」としています。しかし前後の文脈から推測してリベラルという意味ではまったくないですし、リバタリアンということともちょっと違うと思います(でも少し似てる)。もしわたしがここで言っているような意味だとしたら個人的に嬉しいですが、イコールというようにも見えない。わたしは党派的・社会科学的脳みそで思考する習慣がないので、この手の文章が今ひとつピンと来ないのですが、「それ」をファシズムと言ってしまうところは面白いと思っています。


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