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2007年05月02日

人間のフリをする人間

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 「自閉症、統合失調症、『人間のフリをする』」という私信からの転載で「人間のフリ」について書きました。何気に決定的と言うか、危険を覚悟ですごいことを書いたつもりだったのですが(自意識過剰)、例によって冗長なためか、幸か不幸かあまり読まれなかったようです。
 以下のポイントだけをもう一度まとめておきます。今までの一連のエントリと次のエントリをつなぐために必要だからです。
 例によって非常に大掴みで不親切です。すいません。

 元のテクストでは自閉症と統合失調症を比較する視点から展開していくのですが、本旨と狭義の「疾病」としての二つは関係ありません。自閉症の方に統合失調症の発症が少ないのは、ある意味既に「発症」しているからではないか、と推測しましたが、非医療者によるまったくの想像にすぎません(当事者周辺の方に不快感を与えていればお詫びします)。
 気になるのは、自閉症の動物学者テンプル・グランディン(※1)が『スタートレック』に登場するアンドロイド「データ」に共感する、と語り、そのような自閉症の方がしばしば見られる、ということ。そして自閉症からの社会適応や統合失調症の治癒において、「フリをする」「演技」が要になることがある、ということです。

 「データ」的なるものとは、人間の言葉を話し、高度な知性を持つけれど、「感情」や「共感」をリアルに感じることがない、というキャラクターです。「畏怖」という概念をその使用法から学習することはできても、雄大な風景に「畏怖」を感じることはない、という人物。『寄生獣』のミギーでも良いのではないか、とわたしは思います。
 注意すべきは、このような「アンドロイド」が「人間性」を欠いた振る舞いをするわけではない、ということです。彼・彼女らは極めて「人間的」に振舞うことができ、場合によっては人間以上に「人間的」です。ただし、それは「人間性」を知っていて、その振る舞いを模倣しているからであり、「内面」から感じているわけではありません(と、しばしば当人が語る)。
 グランディンは視覚情報や細部に対する細緻な認識能力を持つ一方、言葉の機微や「空気を読む」等の高度な言語活動が理解できず、「広大なライブラリ」を構築することでこれらに対処してきた、と言います。「ライブラリ」とは、「Aと発言する人がしたら、それはBして欲しいという意味」といった「人間関係の辞書」のようなものでしょう。
 普通の人は「相手の気持ち」についてなんとなく直観するだけで、深く考えるわけではありません。「全体として」捉えるのです(もちろん外れていることもある)。しかし彼女は「木」に対する「森」がうまく認識できないため、「木」を集めて「森」を作ったのです(※2)。
 「火星の人類学者」という自己イメージをグランディンは語ります。異星人が人類の様態を観察するように「よそ者」として人間を眺める、ということです。しかも彼女は「人間として」人間社会に入り込む必要があったのです。
  わたしはこれを「人間のフリをする」と表現してみたいです。もちろん彼女は「人間」ですから、「人間のフリをする人間」ということになります。

 統合失調症についても「フリ」という視点は重要です。
 ラカンは精神病においては<父-の-名>の排除がある、と言っています。<父-の-名>は欲望の原因=対象を設立するものです。ラカンにおける欲望とは大文字の他者の欲望ですが、これは失われたと想定される対象(かつて<わたし>であったモノ)から主体を隔絶する余白mergeそのものです。わたしたちはこの余白に向かって「欲望せよ」と命じられており、<それ>を自らの欲望として引き受けることにより「ニンゲン」になるわけですが、「精神病」においてはこの引き受けがうまくいっていない。
 ここで問題にしたいのは「病気」プロパーのことではないので、<分裂病的知性>とでもしておきますが、この者たちは言語活動を行えないわけではないけれど、ぼんやりとした違和、よそよそしさを抱き続けています。<分裂病的知性>は<ここ>に呼び出され、ぼんやりと佇んでいる。「欲望せよ」という法に組み伏せられていないため、禁じられた享楽を口にしてしまう一方、人間の言語交換経済に入っていけない。それでも「人間」と呼ばれるので、人間たちを観察して人間の振る舞いを習得します。つまり「フリ」のようなもので世界に入っていくのです。
 統合失調症の患者さんについて「演技をしない」ということが言われることがあります。普通の子供がする「いい子のフリ」のような演技のことです。逆説的ですが、彼・彼女らは、人間として振舞うこと自体で既に「演技」してしまっている、とも考えられます。そのため、普通の人から見るとかえって裏表がないように見える。言ってはいけないことを口にしているように見える。これは自閉症の患者さんについても観察できることです(「自閉」というイメージとは裏腹に、普通なら恥ずかしいことでも淡々と語ってしまう、等)。
 また、治癒の過程でも演技の重要性が指摘されることがあります。自分が何かの役を演じていると考えることで、混乱を抑えなんとか日常生活を送ることができる。言わば、一度うまくいかなくなった「フリ」をもう一度組み立て直すのです。

 最初に習得した「フリ」が何かのきっかけ(社会的節目など)でうまくいかなくなり、再構成するのが統合失調症。最初からうまくいかず、時間をかけて獲得しようとするのが自閉症。
 これはもちろんナイーヴ極まりないモデルで、実際の「病気」の理解としては多分間違っているでしょう。両者とも器質的要因等が関与しているでしょうし、象徴との関係だけ語っても仕方ありません。
 しかしここで考えようとしている「人間のフリをする人間」という概念を理解するには、良い導入になってくれると思います。

 いくつか留意しておくべき点があります。
 まず「十分に人間のフリができるなら、それは人間ではないのか」という、ヴィトゲンシュタイン的な問題があります。「畏怖」の使用法を理解し習得することと、「畏怖」を感じることにどういう違いがあるのか、ということです。「畏怖」を感じるとされる対象(グランドキャニオン等)を前にし、「わたしは今、畏怖を感じている」と言えれば、要するにそれが「畏怖」なのではないか。
 これは微妙な問題で、「フリができれば人間」だとしても、行動主義的にアウトプットが満たされていれば合格、と考えることはできません。なぜなら、それだけでは「人間」という語を巡るわたしたちの言語活動と一致しないからです。
 わたしたちは、どんなに優れたアンドロイドでも、彼または彼女をアンドロイドと知る限りにおいて、「うわぁ人間みたーい」とは言っても「人間」とは断じません。
 一方でもちろん、わたしたちは普通、自分の頭蓋骨を開けたりDNAを調べたことがあるわけではなく、通念上信じられている「人間の根拠」が、本当に「人間の本質」を規定しているわけではありません。アホな人は遺伝子が人間なら人間だと思っていますが、わたしたちが自分を人間だと思うのは遺伝子を調べたからではありません。つまり、一定のところまで疑い、それ以上は問わない、という、「引き際」までコミで「人間」という語を巡る言語活動は行われています
 逆に言うと、引き際をわきまえず、とことんやらないと気が済まないのが<分裂病的知性>と言えます。なぜ気が済まないのかと言えば、彼・彼女らは「それは人間だ」とスフィンクスの謎を解いていないからです。
 「朝は4本足、昼は2本足、夜は3本足で歩く者とは、誰のことか?」。スフィンクスは謎をかけ、答えられない旅人を殺します。旅とは、あの世からこの世へと生まれてくる道です。オイディプスはこの謎に対し「それは人間である」と答えることにより、テーベの街(人間の世界)に迎えられます。
 わけのわからないぐちゃぐちゃの肉片を、一つのもの、同類を持ち数えられる「個」、そのようなものに統合するのが「それは人間だ」という解です。正確には、「人間である」とはこの統合の営みそのものであって、「人間である」から統合されるわけではありません。つまり「人間」とは条件から構成されるものではない。
 本当はこの宣言は、ものも言えぬ赤ん坊を「人間」として扱い語りかける大人たちによって行われます。わたしたちは誰も、自分から進んで<ここ>に来たのではありません。「お前は人間だ」という呼びかけに対し、「人間であるもの、それは<わたし>だ」と振り向いたとき、<わたし>が誕生すし、受動態が能動態へと転換されたのです(※3)。
 「人間である」という答えは、「ぐちゃぐちゃのもの」を統合するためだけにあるのであって、「人間」なるものの諸条件が外在し、その条件をクリアしたら人間、という性質のものではない。ところが、謎々に対してスッキリ答えなかった人たちがいます。
 「呼ばれてきてみたけれど、一体これはどういうことなんだ」。世界はグロテスクで意味不明な符丁に満たされています。知らない外国に放り出されてみると、何かある条件を満たさなければまともに扱ってもらえないらしい。しかしいくら観察しても、条件に法則性が見つけられない。もとより、それは法則性によって成っているのではなく、<それ>自体が法なのです。
 「亡霊のままテーベに着いた者たち」は、「人間」なるものに外から接近しなければなりません。「人間の条件」を抽出し、それを<わたし>が満たしているかどうかで、人間としての「合否」を決定しなければなりません。ところが、人間たちはそもそも「人間の条件」を満たしているから人間なわけではないのです。
 だからとことんやっても答えが出ない。「これかな? あれかな?」と試してみても、何か決定的なものが欠けているらしい。これは大変辛いです。錯乱します。普通の人には「その辺にしとけ」という大文字の他者の仲裁が入りますが、<分裂病的知性>は極限まで行こうとするのです。
 これを何とか落ち着けようとするなら、一回「人間」であることを諦めてしまうのが早い。そうしておいて、改めて「人間のフリ」をする。これなら納得行きます。
 何せ人間ではないのですから、人間の決定的条件を満たしている必要はありません。ただ、人間として暮らすために「人間のフリ」はできないといけないし、十分に「人間性」を発揮する必要はあります。

 もう一つ気をつけなければならないのは、「フリをする」というと、ついわたしたちは「では本当は・・」という文脈で解釈してしまおうとする、ということです。
 上記のように、この「フリ」は「本当は・・」を封じるための「フリ」なのですから、「フリ」の向こうに本質があるわけではありません。そのような見方では「フリの本質」(!)は理解できません。
 「フリ」は「内と外」の構造を取り入れることで、「内と外」を安定的に両立させるものです。言わば、遅まきながらFort/Daをやっているのです。
 Fort/Daとは「いないないばあ」のようなことですが、子供が糸巻き車をベッドの向こうに投げ、それを巻き戻して遊ぶ様からフロイトが着想を得たものです。子供は糸巻き車を取り戻すこと、つまり「制御」していることに悦びを覚えていたわけではない。それが消失する、つまり「ない」にも関わらず、依然として「ある」ということを確認しているのです。
 象徴の機能は「『ない』ものと『ある』ものがある」ということです。ないものはないのですが、それを「ない」と言うことで、「ある」ものと同じ地平でわたしたちは語ることができる。わたしたちは「『ない』ものがある」と言うことができる(※4)。
 「フリ」により参入した者たちが「内/外」を知らないわけではありませんが、致命的なのは両者が入れ替わってしまう危険を排除できていないことです。<わたし>は世界の中に存在しますが、同時に世界は<わたし>の中に存在し、<わたし>がなければ世界などないも同然、と言えます。普通の人は、こう言葉で語っても平静でいられますが、それは無限に反転し入れ替わる「鏡地獄」を仲裁する審級を導入しているからです。
 だから「フリ」の習得にあたって、「内=本当」という通常のピン留めは使えません。それがないからこそ、何らかの安定策を講じる必要が生じているのですから。
 代わりに、人間たちの言語活動の中で、不均衡に「内/外」であるものがピン留めに使われます。言わば外界に存在する「内/外」に自らをバインドするのです(※5)。

 最後に、この「フリ」が人間たちの「フリ」と何が違うのか、手短に見ておきます。
 普通の人でも何らかの「フリ」はしています。社会的ロールやペルソナといったものがそれです。
 また、誰でも「人生の節目」は怖いものです。緊張します。しかしほとんどの場合、統合失調症の発症を見るまでには至りません。
 普通の人の「フリ」の背後には、人間という圧倒的な基盤があります。この「人間であること」もまた一種のフリだとしても、その中には「節目の乗り越え」が予め織り込まれているのです。
 それはいかにロールを乗り換え境遇が変化したとしても、何かが一貫している、ということです。正確には「一貫している何か」は存在しません。だから「人間のフリ」をする人びとは「人間の条件」を巡って困惑するのですが、一貫性のなさ、常に余白に向かって欲望を投げ続けること、それこそが逆説的に「同じ人」であることを基礎付けているのです。
 二つの「フリ」の差異は、「人間になる」メカニズムが「フリ」自体の内部に備えられているかどうか、ということでしょう。


※1
以下のエントリ参照。
『動物感覚―アニマル・マインドを読み解く』 テンプル・グランディン
『我、自閉症に生まれて』 テンプル・グランディン
『火星の人類学者』 オリヴァー・サックス

※2
例えば、初めての場所に向かう道で何かを「目印」として覚えておくと、帰りはその「目印」を通り過ぎ、そこから振り返ってみないと安心できない、と彼女は言います。行きと帰りでは同じ「目印」でも見た目が異なるため、行きと同じ方向から視認しないと落ち着かないのです。つまり、「色々な面」を「一つのモノ」という抽象に統合する力が弱い、ということです。
彼女は驚異的なまでの適応を果たしたケースですから、それが一つの「目印」だということを「知って」いますが、なお目で見て確かめないと気持ちが落ち着きません。このような行動は、自閉症の方にしばしば見られるそうです。

※3
「ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる」参照。

※4
「『ない』ものがある」というと、昔先輩に聞いた話を思い出します。
彼がペンキ屋さんでアルバイトしていたとき、ある現場に先に入っていた同僚の職人さんにこう尋ねたそうです。
「近くのあのコンビニ、品揃えどうや?」。
この職人さんは、ちょっとボヤーンとした裸の大将のようなキャラだったのですが、しばらく考えた末にこう答えたそうです。
「あるものとないものがある」。
・・・真理です。真理すぎます。

※5
具体的に何にバインドするのか、いくつか考えることができます。例えば「人種」。あるいは「性」。他にも色々ありえると思いますが、何でも良いというわけではない。

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