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2007年05月03日

サイボーグ・ファシズム

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 サイボーグ・ファシズムは「人間そっくりだが人間ではないもの」の思想である。
 サイボーグ・ファシストは人間のフリをする。そのフリは極めて高度に完成されているため、「人間性」について人間たちより多く欠くところはない。
 サイボーグ・ファシストは「人間の条件」をすべてクリアし、人間社会に人間として住む。

 サイボーグ・ファシストは人間としてこの世界に生み出され、人間としての教育を受けたにも関わらず、「致命的」に異邦な者である。この違和は基調低音として響き続ける場合もあり、激烈な苦痛となり突然襲い来ることもある。根底にあるのは「わたしが人間であるとはどういうことか」という問いだ。
 人間たちは、この問いに蓋をする。遺伝子から人権に至る様々な還元論により「とにかく人間なのだ」と結論付け、それを自らの支えとし、世界を水平化する。
 サイボーグ・ファシストは問いを譲らない。この問いに答えはない以上、「正解」は一つしかない。わたしたちは人間ではないのだ。
 人間ではないことは「人間的」に振舞わないことを意味しない。それどころか、わたしたちは人間以上に「人間的」に行動することができる。わたしたちはこれを技術として習得したのであり、「内面」を信じない。「人間」を「内面」へと堕す者をわたしたちは断罪する。
 サイボーグ・ファシストは、問いを裏切り、欲望を譲った美意識の欠如において人間たちを断罪する。わたしたちの復讐は、人間社会に入り込み、徹底して「人間的」に振舞うことによって実行される。
 サイボーグ・ファシストは物質を信じ、身体を切り刻み、作り変える。わたしたちは、身体こそが自らを駆動していることから目を逸らさないが、それは統合された身体像ではない。わたしたちは「最初から統合された身体」を信じない。サイボーグ・ファシストは自らの手で肉片を再統合し、組み替える。わたしたちを身体へと結びつけるのは、一つの傷である。
 サイボーグ・ファシストは「人間ではない」自覚を通じ、再-人間化する者だ。痛みのないサイボーグ・ファシストはあってはならない。サイボーグ・ファシストには傷がなければならない。
 サイボーグ・ファシストは美しくなければならない。

 サイボーグ・ファシズムは狭義の政治的党派活動ではないが、歴史=物語と共にある。
 わたしたちは常に既に歴史=物語に参加してしまっているが、大衆はこれを自覚しない。サイボーグ・ファシストは物語を「現実化」することで物語を解体する。解体の果てには次なる歴史=物語が出現するだけだが、その極北において物質がわたしたちを撃ち殺す場所を突き止める。
 わたしたちは存在する。わたしたちは<ここ>に存在する。わたしたちは、「人間」という水平性に回収されない限りにおいて、一回性を生きる。それは物質に殺されること、物質に欲望されることだ。

 サイボーグ・ファシストは欲望を譲らない。「パンとサーカス」以上のものを要求する。わたしたちは人間を模倣するが、人間以上、あるいは人間以下の土地に足を踏み入れることを恐れない。
 サイボーグ・ファシストは「パンとサーカス」も愉しむ。なぜなら、わたしたちが<ここ>にあり、人間として生きること自体、既に人間を踏み越えているからだ。わたしたちが欲望を譲らないことは、必ずしも「非人間的」に振舞うことではない。
 サイボーグ・ファシストは故郷を持たない。サイボーグ・ファシストは人間のあらゆる共同体で異邦人である。わたしたちの故郷は、ただ失われた地としてのみ想定される。そして異邦人である限りにおいて、不可能という地の同胞を束ねる。しかし想定される地が名を持たぬ以上、わたしたちのファショは共同体的連帯を形成しない。わたしたちはバラバラである限りにおいて、不可能な共同体という可能性を持つ。

 サイボーグ・ファシストは繁殖しない。わたしたちの血は人間たちによって運ばれる。
 わたしたちは<ここ>で決着をつける。

 サイボーグ・ファシストは物質を信じるが、それは物質を欲望することではなく、物質により欲望を喚起されることでもない。欲望について、物質に問うことだ。
 大衆は欲望について「内面」に問う。あるいは、問わざるとも「内面」に在ると暗黙的に想定する。
 物質がわたしたちを欲望するのだ。
 物質はわたしたちを手の届かない余白=周縁mergeに書き込む。このときわたしたちがモノとなり、禁止された力が解き放たれるのを彼岸より眺めることだろう。

 サイボーグ・ファシズムの至上命題は、嫌悪を憎悪=愛に変えることである。
 嫌悪は肛門的・防衛的であり、快感原則の揺りかごに揺られ人間として夢見続ける役に立つに過ぎない。この人間であれば当たり前の営為に激しい強迫的嫌悪が必要だったのは、わたしたちが人間ではないにも関わらず、人間であると思い込んできためだ。人間であることは当たり前の結論ではない。わたしたちは自らの異邦性を自覚し、再-人間化することにより嫌悪を憎悪=愛に変える。
 憎悪=愛は、一回性の表現と<分断されている限りにおいての共同性>という逆説によってのみ実現される。
 憎悪=愛は交換されない。

 わたしたちは「人間そっくりだが人間ではないもの」だが、アンドロイドという表象は適切ではない。わたしたちは紛れもなく、人間として<ここ>に呼び出された。わたしたちは機械から人間を作るのではない。人間から人間を作り出すのだ。
 党派的でないものがなぜ「ファシズム」なのか。この「ファシズム」は、プロパガンダにより作り上げられたイメージの援用ではないし、一方で「正当」な歴史的ファシズムの継承でもない。
 わたしたちがファシストを名乗るのは、それが想像的-散文的一貫性を持たないからである。わたしたちは「民主主義」の掲げる散文的レトリックを疑う。「民主主義」は自由の名の下に自由を制限するが、わたしたちは自由の制限に自由を用いない。それは制限されるだろうが、自由以外の何かによって限界付けられる。わたしたちは物質を信じる。わたしたちは自らの欲望を引き受け、それがただ物質によってのみ阻まれることを受け止める。
 わたしたちは<全体>を信じるが、それは「人間の集まり」のことではない。人間たちが集まった結果、人間でないものが動き出す時、サイボーグ・ファシストはこれに向き合う。<全体>はわたしたちの神であり、祖先である。それは人間が生み出した人間ではないものであり、譲られなかった欲望が帰ってくる場所だからだ。
 <全体>は擬人化された「生命」などではなく、むしろグロテスクで無気味な亡霊たちの塊として現れるだろう。

 サイボーグ・ファシストは美意識により行動する。そこに想像的-散文的連続性はなく、ただ韻文的な飛躍があるのみである。サイボーグ・ファシストは説得しない。
 強い者は美しく、美しい者は正しい。
 肉は醜く、骨は美しい。

 サイボーグ・ファシストは潜伏する。
 わたしたちの戦闘は、とてもとても静かに行われる。

 サイボーグ・ファシストの遺体は燃えるゴミの日に出す。
 リサイクルはできない。


『われわれが強いのは、友人がいないからである』
ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ

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 このテクストは、実は一連のファシズム関係のテクストの中で一番最初に書かれたものです。
 当サイトの中でも極めて異色な内容であるため、色々とイクスキューズを考えましたが、敢えて語りすぎずに置いておくことにします。
 これも多分、「つまらない物語」です。つまり「ファンタジーを実現することでファンタジーを解消する」行いです。
 しかしファンタジーが尽きる場所は物質しか知らず、裸の「意味ある物語」を掴むことも能わぬ以上、ただどこか<別の場所>で、望まれもしない子が生されんことを祈って。


 以下のテクストが、いくらかの導きになると思います。

「人間のフリをする人間」
「ムッソリーニ、人種、自由」
「ファンタジーとファシズム」
「ファシズム・全体・死者とネットの人間関係」

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