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2007年05月09日

食と戒律、越境するファンタジー=愛

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 食の指針について総括的エントリを続けましたが、単なる「ダイエット」ではなく、食を戒律によって定めることの意味を考えてみます。
 以下の議論は特定の「食の戒律」に限定されるものではありませんが、まずはサイボーグ・ファシスト的戒律をまとめておくと、

・家畜の肉は食べない
・乳製品はなるべく避ける
・小麦製品はなるべく避ける
・「甘味」(含人口甘味料)は原則として食べない
・菓子、揚げ物は論外

 となります。
 戒律は戒律として定められていることが重要なので、多少の変動や「祭事における特別の許可」あるいは「特別の禁止」が加わっても良いでしょう。
 また、それ以外に食べるものがなく、生命の維持に支障をきたす場合には戒律が破られても仕方ないと思います。これは「無人島で遭難」のような状況を想定しているわけではなく、現代における都市貧困層では、産業資本による反戒律的食品に頼らないと生活がままならない、ということがあるからです。この場合、「ファシストはファシストであることを隠すことも厭わない」原則(※1)により、まずサバイバルを優先して下さい(※2)。

 これらの戒律には「健康法」としての効能もあるかもしれませんが、それらは戒律への帰依を強化するための「理論化」、心理的防衛としての働きが大でしょう(もちろん、可能な限り筐体の性能を向上させ、美学を満たすことへの配慮はあります)。
 重要なのは、「健康」そのものではなく、自らの身体を戒律により象徴化することです(※3)。擬似的に「自らの身体を切り刻む」ことと言って良いでしょう(真のサイボーグ・ファシストは擬似的にではなく「切り刻」みますが、厳しいことを言うのはやめておきます)。
 従って、厚生労働省および健康産業により推進されている所謂「フード・ファシズム」的なものとは一線を画します。彼らのやっていることも内実としては「身体の機械化」なのですが、これらを明示もしなければ、そもそも推進者自身に意識化する知性もないようではファシストの風上にも置けません
 むしろ宗教共同体における戒律に近いですが、わたしたちはそのような「裸の共同体」が残っていることは期待しませんし、少なくとも日本の都市部では、どこかのカルト宗教集団で寝起きを共にするくらいしなければとても成立しないでしょう。サイボーグ・ファシストは「バラバラであるという一点のみによって逆説的に成り立つ幻想の共同体」だけを信じます。

 甘いものや脂っこいものを好むのも、元を辿ればわたしたちのご先祖様が環境への適応として発達させてきた感覚なのでしょう(正確には、好まないご先祖様は全部死んだ)。
 しかし現代の産業資本主義の作り出した食品群は、比較にならないスピードでわたしたちの味覚を逆利用・破壊していきます。
 これに対応するのに「自然」など待っていたらラチがあかない、というか個の淘汰を通じて種を変化させるんじゃわたしが死んじゃうやん!なので、こちらも負けないくらい強力な信仰と強迫観念を持って対抗しなければなりません。
 どの道わたしたちの味覚は象徴的に再構成されたもので、さらに現代食品群により寸断されまくっているのですから、失うものは何もありません。

 このような戒律を守っていると、通常の人間関係で様々な支障をきたすことが容易に想像できます。
 わたしは職場の付き合いなどという団塊飲ミニケーションや「一緒にランチ」的群生女子文化には原則付き合わないのですが、節目節目等ではどうしても顔を出さないわけにはいかない時があります。
 そうした場合でも基本的に食べはしないのですが、「ファシストはファシストであることを隠すことも厭わない」の原則に則り、理由はテキトーにデッチ上げて、角が立たないよう気をつけています。
 また、他人が食べるものについては口を出しません。

 ここまでだけでも相当「社会人0点」ですが、本当のことを言えば「遠慮しすぎ」です。
 「遠慮しすぎ」というのは、わたしの感覚から出ているというより、戒律というものの本義、愛=憎悪の性質と向き合うなら「遠慮しすぎ」と言わざるを得ない、ということです。
 どういうことかというと、最後の「他人の食べるものについては口を出さない」というのはわたしの率直な感覚で、こちらを干渉しないなら他人に対しても干渉したいとは思いません。ですが、戒律が戒律として強く信じられているなら、そのような食生活自体を汚らわしいと感じないわけはなく、本当は「他人に干渉」したくなる方が真っ当で愛に満ちているのです。

 これは微妙で際どい問題なので、慎重に考えます。

 例えば、一般的な宗教。
 多くの自称「無宗教」な日本人は、ただ内面で勝手に何かの宗教を信じているだけなら、他人のことにはそんなに関心がないでしょう。奇異な風習として目に見えるようになったり、政治的権力を持ったり、はたまたテロ行為に及んだり、となれば途端に反発するでしょうが、心の中で一人で信じている分には「実害なし」と判断する(あるいは、本当は嫌悪感を持つが、余計な干渉をしてかえってこちらが干渉されるのを嫌って、相互不干渉で手を打つ)のではないでしょうか。
 こうしたスタンスを持つ「無宗教」な方たちが、一番疑問に思うのは「布教」という行為ではないかと思います。
 信じるのは勝手だ。でもなんで「布教」するの? 自分たちだけでやってればいいやん。
 これは至極尤もな考えで、わたしも以前はそう考えていました。現在でも、自分の様々な「信念」について、日常接する人に押し付けることはないですし、口に出すことすらほとんどありません。
 しかしこのような「内面重視」は、プロテスタンティズムによって推進されたかなり新しい宗教の一面であって、元来宗教はもっと具体的で行動的なものです。というより、人の思想・信条というもの一般に、行動や外見と分離して考えることなどできないものです。
 これを論理レベルで分離して扱うことにより、プロテスタンティズムと産業資本主義は強い絆を得たわけですが、一方で極めて広義の「宗教」は疎外される結果に陥ってしまいました。
 「分離できる」という前提自体が一つの「宗教」にすぎないにも関わらず、それが「宗教」ひいては信念体系一般の性質であるかのようにすり替えることで、産業資本は邪魔な共同体を解体することに成功したのです

 ですから「分離できる」を前提として思想・信条を扱うこと自体、実は暗黙的に「押し付け」をやっていることに他なりません。
 「分離できる」派は責任の所在も定かならぬままにこっそり「押し付け」ますが、それ以外の派は明示的に「押し付け」るか、相互不干渉で波風立てないでいるしかありません。
 食生活で言えば、この国では欧米と異なり、一般的なヴィーガン・ベジタリアンが日常を送るのにもかなり苦労しなければなりません。ここにも暗黙的「押し付け」が作用しています。誰一人として自分の食文化を押し付けているつもりなどなくても、結果として他人の信条を阻んでいることになるのです。

 では「押し付け反対」となるのかと言うと、そうではありません。
 暗黙的「押し付け」は、「パンとサーカス」的自由のように劣悪ですから、これについては批判しなければなりませんが、「押し付け」ること自体はむしろ当たり前、愛に満ちています。
 わたしたちは、同じ「人間」であるとか、「一人一票」であるとか、様々な幻想によって「何か共通の論理的地平がある」という箱庭幻想を生きていますが、本当のことを言えば、最初から用意された共通の土俵などというものはありません。土俵の取り合い、「都合の良いルールをいかに先に決めるか」が勝負です。ビジネスの世界におけるプロトコル選定などがわかりやすいですが、そうした商売ワールドを囲む<生きる地平全体>が、侵略と「手打ち」の繰り返しでしょう(正確には「支配」という静的次元があるが、ここでは深く追求しない)。
 つまり、わたしたちが何らかの信念体系を持ち実践するということは、既にそれ自体で「土俵の取り合い」に一歩足を踏み出してしまっているのです。「侵害するつもりはないよ、心で思っているだけだよ」というのは、要するに「分離できる派」としての暗黙的侵略に手を貸しているだけです。

 それを「愛」と言ってしまうのは、愛とは「ファンタジーの越境」だからです。
 「原子愛」のようなものを想定すると、それはファンタジーを共有し、共通の神を持とうと試みることです(※3)。それは、わたしたちが<ニンゲン>として召還された際に手放さなければならなかった「かつて<わたし>であったモノ」=「物質としての<わたし>」を幻想的に回復しようとする営みです。
 そしてわたしたちが常にファンタジーの内部に産み落とされる以上、ファンタジーに外部はありません。ファンタジーを越える唯一の方法はファンタジーを実現してしまうことですが、そこでは「もっとつまらない」ファンタジーが待っているだけです(※5)。
 良き宗教共同体とは「つまらないファンタジー」を実践するものです。「面白いファンタジー」では共通の神=絶対的第三者が本気でで信じられています。絶対的第三者は実体として存在するものではなく、常にわたしたちをがっかりさせます。がっかりさせながらも、想定されることでわたしたちを導くのです。共通の神が「問いの前に立つ答え」として絶対化されるものを「狂信」と呼びます(※6)。
 この時、「つまらないものはつまらないから」と「布教」せず相互不干渉を取るのは、肛門的防衛=吝嗇に過ぎません。「ささやかなもの」を守るのに精一杯閉じこもっているのです。
 愛とは、この吝嗇を解放することです。愛とは「つまらないものを面白く見せる」ことです。
 ファンタジーはつまらないものなのです。一瞬面白く見えたとしても、近寄ってみればどれもこれも「ささやか」なものです。その「ささやか」ぶりを直視したくなくて閉じこもるのではなく、ツッコミを入れる余地を公開し、共同体のボーダーを越えていくのが愛なのです。
 何かの「ズレ」が「つまらない」を「面白い」に変えます。
 「ウチの部族じゃありきたりだけど、オタクじゃまだ珍しいっしょ」な越境性こそが、「つまらないファンタジー」を「面白いファンタジー」に転化し(※7)、「ズレなき吝嗇」=ホメオスタシスを越える方法なのです。
 「布教」こそが、肛門的吝嗇を越え、嫌悪を愛=憎悪に変えるのです。

 もちろん、この越境は歓迎されないこともあります。
 柄谷行人さんの「命がけの飛躍」ではありませんが、商品が売れるかどうか、どんな値段がつくかは「出たとこ勝負」です。
 まったく歓迎されなかった場合、愛は暴力として受け取られます。
 しかし愛が本質的に越境的なものである以上、両者は表裏一体、どちらか片方だけ取れるものでありません。「わたしはわたし、あなたはあなた」などという「優しさ」は愛ではありません。

 もちろん、365日24時間、愛=暴力だけでやっていては身が持ちません。相互不干渉な「愛なき態度」も大変重要です。個人的には、むしろ原則として「愛なし」でやっていきたいです。
 しかしここで言う戒律は、愛の実践、互酬的関係の幻想的回復を最終目標とするものですから、ここで愛を使わなければ少しウソになってしまいます。布教するならここぞ!というポイントなのです。
 それでも布教しないのは、単にパワーバランス的に、布教しようとすると速攻「暴力」と認定され、コテンパンにやられてしまうのが目に見えているからです。止むにやまれず作り笑いで相互不干渉しているだけで、本当のことを言えば「遠慮しすぎ」なのです。

 不浄の者たちを圧倒的テロルで殲滅せよ!という愛の声に後ろ暗さを感じながら「ごめーん、わたしアレルギーだから」とかお茶を濁している気の弱いファシストな毎日です。


※1
 「ファシストはファシストであることを隠すことも厭わない」方針は、外山恒一さんの「我々団 暫定綱領」に共感し取り入れさせて頂いているものです。尤も、サイボーグ・ファシストは「潜伏」すること自体によって成り立つものですから、基本的に隠すに決まっているのですが・・。

※2
 貧困層でなくても「他に食べるものがない」状況はあり得ますし、この場合も同様です。
 ただ、戒律がナメられてしまうと怖いので一応指摘しておけば、一定以上の収入があった場合、「他に食べるものがない」というのはそうそうお目にかかる状況ではないはずです。「手元にない」くらいならいくらでもあるでしょうが、そういうのは「食べるものがない」とは言いません。
 人間は水だけでも一ヶ月くらい生きられると言います。一ヶ月というのは極限でしょうけれど、たっぷり皮下脂肪を貯めている方なら、自分のイメージよりかなり頑張れるのではないかと思います。
 わたしは三日間くらいなら水だけで乗り切ったことが何度かありますが(思想上の理由と単にビンボーだったからの両方アリ)、死にもしませんし病気にもなっていません。
 本当に「ジャンクを食べなきゃ生活できない」という層は確実に存在しますから、自分を甘やかしてはいけないと思います。

 余談ながら、大分以前に「(当時のダイエット上の理由で)一日1,000kcalくらいにしている」と言ったら「死ぬぞ」と返されたことがありますが、絶対死にません。「死ぬぞ」と指摘した男性は推定体重90kg超で、その時もフライドポテトを齧っていましたが、むしろ彼が死ぬ確率の方が高いのではないかと思います。
 戒律は「カロリー制限」が目的ではないので、これは本当に余談ですけれど(純粋な痩身ダイエットなら、何よりも量を制限することが第一)。

※3
 ただし「戒律による身体の象徴化」は失敗の約束された仕事でもあります。なぜなら、ここで試みられる様々な「身体のカタチ」は、象徴言語の向こうにあるモノとして想定されているにも関わらず、象徴化自体は永遠にその領域に到達できないからです(到達できないことにより、象徴=言語経済は限界付けられる)。つまり「戒律による身体の象徴化」は「ムッソリーニ、人種、自由」で述べた「自らの<人種>を選ぶ」ような仕事です。それは「自己決定」が不可能であることによりモノの領域に接地して見えますが、その実モノには決して到達できない文節にすぎない。それを知ってなお「切り刻む」ことが、一つの行為として意味を持ちます。
 ですからやはり、文字通り「切り刻む」ことは非常に重要です。「切り刻みなさい」という意味ではなく、「切り刻め」という命令が不可避のものとして回帰してくること、これは「身体の象徴化」の量的連続の向こうにあるのではなく、質的断絶、「身体の象徴化」の失敗それ自体がむき出しで現れることだからです。

※4
 ここで「原子愛」と言っているのは、愛とは上記のような運動を獲得して初めて愛である以上、このような愛は遡及的にしか想定できないからです。
 所謂「恋愛」は「原子愛」的に見えますが、二者関係においても「越境」は存在します。そして想定される「絶対的第三者」は常にすれ違いますから、もしもそれが「愛」だとするなら、必ず「愛=暴力」として機能しているはずです。

※5
 「ファンタジーとファシズム」参照。

※6
 パラノイアでも良い。狂信は正にその「面白さ」故に動的流動性を持たず、愛=暴力には到達しない。「意味の意味」参照。

※7
 この「面白いファンタジー」は、「狂信としての面白いファンタジー」とは異なります。それ自体としては「つまらない」ものが、動的に「面白く」なっている、ということであり、言わば動的変化自体が織り込まれたファンタジーです。


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「『神々の沈黙』2 書かれたもの、交易、欺き」

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