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2007年05月14日

自由意志、自己決定、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」

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『倫理21』 柄谷行人 『倫理21』 柄谷行人

 柄谷行人「オールドファン」にとってはおなじみのテーマ、というか前にも読んだ気がするのですが、書店でブラブラしていたら文庫になっていたので買ってしまいました。柄谷行人を読む快楽は何と言っても「美文を愉しむ」ところにあるので、何度でも読んだら良いのです。柄谷さんの著書の中でもとりわけ入りやすいトーンなので、大学一年生にもお勧め。
 ここでは「ムッソリーニ、人種、自由」で「人種を選ぶ」という形で取り上げた「自由」と「自己決定」について、柄谷さんのお力を借りて再度整理してみたいです。

英米系の倫理学では、自由とは、他人に危害さえ与えなければ何をしてもよいということです。カントがそれに反対したのは、伝統的規範を重視したからではなく、そのことが別に「自由」ではないという理由によってです。自由な選択と見えるものは、実は内的・外的な、様々な原因にもとづいている。つまり、他律的である。たとえば、私はある物をどうしても欲しい、そして、それは私の自由な選択だと思う。しかし、これはヘーゲルが言ったことですが、欲望とは他者の欲望である。私の欲望は―たんなる欲求とは違って―、他者が欲するものを欲すること、いいかえれば、他者に承認されたいという欲望である。すると、このような欲望が自発的(自由)であるはずがない。だからまた、欲望のままにふるまうことが自由であるはずがない。それは他律的なものです。かといって、伝統的規範によって抑圧することも他律的です。

 現代のわたしたちを取り巻く「パンとサーカス」そのものを言われているようですが、こうした「ピザのトッピングを選ぶような自由」とは、実は自由ではありません。何かを選んだつもりでも、結局は因果の鎖が巡り巡ってやってきただけのことです。
 本書ではスピノザも取り上げられていますが、彼もまた「原因は複雑すぎてわからない」だけで、いわゆる自由意志ということを否定しています。ただし、この点だけ取り上げて、ゲノム好きの自然科学者が素朴な決定論を振り回すダシに使われてしまっているのは、とんだ誤読です。重要なのは、このどうしようもない決定論の中でいかに倫理を考えるか、ということです。
 カントは共同体的な道徳規範を批判する一方、幸福主義・功利主義的自由、「他人に危害さえ与えなければ何をしてもよい」自由、トッピング的自由も否定します。これらもまた「原因」に支配されているからです。

では、自由あるいは自律性はどこにあるのか。それは「自由であれ」という当為においてのみある。

 当為というのは「義務」のようなものですが、それは道徳規範的な義務ではありません。「自由であれ」という義務とは、自然的・社会的因果性を「括弧に入れる」、ということです。ある犯罪者が犯罪を犯したのは、貧しさのためかもしれない。社会的抑圧のためかもしれない。ご先祖様の呪いかもしれない。しかしそうしたことをすべて「括弧に入れ」、自由であることを意志することによってのみ、自由はあり得るのです。

 「ムッソリーニ、人種、自由」で、「自己決定」ということを批判しました。本当はピザのトッピングだって「自己決定」などではないのですが、「人種」だとよりそれが鮮明になります。なぜなら、「人種」とは「選べなさ」そのものを指すためだけにある概念だからです。
 人種も性も「自己決定」などできません(※1)。ある種の「サヨク的」言説でナイーヴにこれらが称揚されているのは、むしろ「パンとサーカス」的トラップに絡め取られる結果しか招かないでしょう。
 それでもなお、そこには別の「自由」があります。「選ぶ」ことを選ぶ、本当は全然選べないものを「選ぶ」という道を敢えて進む方法です。ムッソリーニの「人種を選ぶ」とはそういうことです(※2)。
 ここで重要なのは、選ばれたその人種が「正しい」人種であったのかはわからない、ということです。
 自己決定不可能な「本当の」人種があり、「選んだ」人種がそれとマッチしていたりハズレだったり、ということではないのです。なぜなら、そもそも象徴経済の向こうに「真の」人種があるわけではないのですから。
 これはスピノザの「原因は複雑すぎてわからない」と並行的です。ただし原因は単に量的にこんがらがっていて解析不可能、という意味ではありません。原因にもまた原因があるとすれば、究極の自己原因をどこかに求める必要があります(スピノザの神)。それは差異のないもの、「在る」ものであり、文節不可能なモノです。原因の「わからなさ」には質的な断絶があります。
 そして「原因」を知ろうとすること、それにもまた「原因」があるでしょうから、自由は認識に向かう一瞬、微分的間隙にしかあり得ません。「原因」の遡及自体もまた「結果」を招くため、真の原因は「観察自体により対象が変化する」ような逃げ水となります。

 わたしたちは自分の「人種」を知りません。「性」を知りません。
 知っていると思っているのは、認識に向かおうとしていないからです。逆説的にも、原因について思考しない時だけ、わたしたちは何か「本当」があると夢見ていることができます。
 ラカンがどこかで「原因はうまくいかない時にだけある」と言いました。誤解を恐れずざっくり言ってしまえば、うまく行っているなら「原因」について考える必要はないのです。そして知ろうとしない時、原因が「ない」というのは、「森の奥で倒れる大木の音」的な独我論ではなく、原因とは「わからない」ためだけに用意されているもの、わたしたちの<世界>の縁mergeを示す標識そのものだからです。

 だから、自由とは<ここ>で選ぶことです。
 力なく諦念し、自然と社会に丸投げしてしまうこともでき、しかもそれは「正しい」にも関わらず、答えのない問いに著名入りの解答を打ち立てることです。
 わからないけれど想定されている何か、黙ったままで何も教えてくれない神様に代わって、<ここ>でモノとなることです。

 柄谷さんに話を戻すと、「自由であれ」という当為に従うとき、大切なのは「それが他者の『自由』を含むこと」と言います。カントが普遍的な道徳法則とみなした「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」です。
 重要なポイントが二つあります。
 まず、他者とは単に「他人」という意味ではありません。柄谷さんが挙げているのは死者、あるいはまだ生まれていない人間です。他者とは答えを返さないものです。「未来の人のために」と言えば聞こえが良いですが、わたしたちは彼・彼女らがどんな「答え」を返すかなど知りません。良かれと思ってやったことが百年後に仇になるかもしれません。まして死者は永遠に沈黙するままです。ですから、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」とは、「他人の身になって考える」などということでは全然なく、むしろ「身になる」など絶対不可能ということを受け止めながら、なお自らの名において「選ぶ」ということです。
 「身になる」が可能だと思っている人こそ、他者の他者性を否定しているに他なりません。しかも「わかんないから諦めるよ」というのでもなく、「わからない」からこそ「選ぶ」のです。
 もう一点は「のみならず」というところです。これは柄谷さんが強調していることですが、「他者を手段として扱う」ことは不可避です。カントが流行した大正時代、「他者を手段としてではなく目的として扱え」と受け止められていたそうですが、これは学生の寮生活でこそ成り立ちうる話で、言わば親を仕送りの「手段として」使うことで「目的として」扱う人間関係を成立させていたわけです。
 資本家と労働者の関係は「手段として」扱う関係ですが、これを全否定しても始まりません。他者は基本的に手段です。ただ「目的としても」扱う、そこにこそ自由がある、とカントは言うのです。
 幸福主義=産業資本主義は「手段として」だけの世界の中で、トッピング的自由を演出します。ここで「目的として」扱い行動することは、ある種の不合理、「人種を選ぶ」ような無茶苦茶としてしか映りません。では「手段として」の世界を打倒して「目的として」の世界を創設できるかというと、そうではありません。他者は基本的に手段ですから、残るのは無茶を承知で「選ぶ」ことだけです。

 こうした問題を扱う時、わたしたちはついシステムや体制の問題として考えてしまいます。
 システムによってシステムを打破することはできません。もっと言ってしまえば、システムは結果に過ぎず、ただ運動だけがあります。
 しかし運動を導くには統制的理念としてのシステム(の想定)が重要であり、一周回って「システムを語る」ことには意義があります(※3)。
 大切なのは、走りながら銃を撃つことです。


※1
 ただし、ある種の状況で「自己決定」ということをとりあえず主張することは、非常に重要です。いわば「自己決定」を選ぶ、ということです。
 なぜなら、世の中のほとんどの人はこんな問題にわざわざ関わるほど物好きではありませんし、興味を持ったとしても理解するだけの知性は持ち合わせていません。そうした人間たちの中でサバイバルするなら、使えるものは何でも使う必要があります。品良く構えることこそ、裸の「自由意志」があるかのような箱庭的相対主義にすぎません。
 「自己決定」という論が彼らにとってわかりやすく、賛意を得やすいのであれば、むしろ(「自己決定」などさらさら信じていないにも関わらず)「自己決定」を叫ぶことにこそ、ここで言う自由があるでしょう。
 少なくとも、「自己決定」言説のために先人たちが流した血と汗を否定する意図は毛頭ありません。皮肉ではなく、白痴どもに辛抱強く付き合った政治性と意志に深い敬意を抱きます。

※2
 ちょっとムッソリーニを持ち上げすぎかもしれません(笑)。しかし彼の「本意」がどこにあったのかなど知る術もないのですから、わたしは彼がそう考えたということを「選び」ます。

※3
 こういう時、わたしは「民主主義」のことを考えています。もう少し言えば、「民主主義」とファシズムのことを考えています。
 ジジェクは民主主義を「最悪の中では最善の選択」と言いますが、これは結果としての望まれてもいないシステムのことです。「民主主義」を掲げるのは、全く違うことです。「民主主義」とは「出来ちゃった結婚」のようなものです(そして多分、「出来ちゃった結婚」こそ最も結婚的な結婚)。
 ですから、「民主主義 vs ファシズム」のような図式や「ファシズムは民主主義的制度の中でも成り立つ」といった議論は少しズレています。少なくともわたしにとって、ファッショとは運動であり、「大言壮語」すること自体です。この前提に立った上で「民主主義 vs ファシズム」を敢えて掲げることには、(多分間違っているからこそ)意義があります。
 ジジェクについては『イラク』『斜めから見る』あたりのエントリを参照下さい。


関連記事:
『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』 柄谷行人
「ファシズム・全体・死者とネットの人間関係」
「〈飛び出す〉倫理」
「サイボーグ・ファシズム」

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