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2007年05月15日

外山恒一&松本哉イベント@ネイキッドロフト

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 ネイキッドロフトでの外山恒一さん松本哉さんのトークイベントにお邪魔してきました。
 初めにお断りしますが、以下は公平な「リポート」をお伝えするものではありません。わたしは「運動家」ではありませんし、メインストリーム的なる日常に感じるのと同じくらいの「馴染めなさ」を、「運動」や高円寺界隈文化、ロフト的空気に感じている者です。単に思考の触媒を求めているところが大ですから、多分に個人的バイアスのかかった私見、という前提で受け止めて頂ければ幸いです。

 まずは気になったポイントをいくつか乱暴にメモ。

選挙に出ると急に大人しくなってしまう人が多い

 「言論の自由」を訴える人物が出馬しても、選挙に出た途端に議会制民主主義の枠組みにはまってしまう。主張内容が「言論の自由」であっても、その主張を極めて「不自由」な形式に則って主張されている。これでは結局相手の土俵に合わせてしまっているだけだ。主張の表現手法自体が「自由」でなければ、力ないものになる(「言論の自由」がパフォーマティヴに表現されなければ、ちっとも面白くない)。

出馬によって得る「権力」は素晴らしい

 選挙という手段を用いることで、圧倒的な「表現の自由」を一時的とはいえ行使することができる。いつもは敵である権力が、味方になる場合すらある(パフォーマンス的「選挙活動」を制止しようとする人がいた場合など、警察は制止する側を止めるしかない)。選挙期間中に得る「権力」は素晴らしく、権力に執着する人がいるのもちょっとわかる。

旧来の「革命家」は頭が固く、議会制民主主義と真っ向勝負しすぎ

 これまでの「革命家」は、議会制民主主義を否定する余り(強迫的潔白ゆえに)、選挙という格好の手段を利用できないできた。使えるものは何でも使えば良い。

「二人のような選挙運動が容認されること自体、表現の自由がある証」というのは大勘違い

 現代日本では、ちょっとしたビラまきやデモでも厳しく権力により取り締まられる。選挙だからこそ言いたいことが言えた。他に手段がないから選挙を使っただけで、これをもって「表現の自由」が保障されているかのように捉えるのはとんでもない勘違いだ。

選挙に出て「支持を受けている」と勘違いしてしまう人がいる

 選挙活動を行っていると(とりわけ衆目を惹く活動スタイルを取っていると)、街頭などでの顔の見える関係で熱烈な支持を受けることがある。しかしこれらの多くは「ファン」的スタンスからのものに過ぎない。にも関わらず、なまじ「支持者」と相対する機会が多いため、本当に多数の支持を受けている、と勘違いしてしまう場合がある。
 オウムが先鋭化していったのも、選挙敗北以後だ。「こんなに支持されているのに落選したのは、陰謀が働いているに違いない」といった思い込みがあったのではないか。
(これは外山さんが長い政治生活から学んだ「教訓」の一つで、酸いも甘いも知った良き絶望がよく表現されており、大変共感できました)

物理的・空間的局在は大切

 面白い人物を集めたり育成したりできても、全国に散開してしまうと実はそれほど面白くない。空間的に局在していることは、想像以上に重要。外山氏なら九州、松本哉なら高円寺。
(しかし九州と高円寺ではまったく地理的なスケールが異なる。「自転車で行ける距離」以上に離れると、ある種の権力の発生を避けられない。外山氏がこれを敢えて受け入れようとする一方、松本氏は「他所の土地のことは他人に任せる」というスタンス、と見受けられました)

権力を支持する「下流」は味方か否か

 例えば小泉純一郎や石原慎太郎を支持する層は、むしろ「下流」に多く見られる(ルサンチマンの幻想的解消)。このような「下流」は騙されているだけで本当は「味方」なのか、それとも説得不能なのか。
 この点で外山氏と松本氏の見方がわかりやすく分かれる。
 松本氏が「七割くらいは本当は味方なんじゃないかと思う」とする一方、外山氏からは「引き込むことのできる人もいるが、大多数には言うだけムダ」が基本的姿勢。しかし大衆を単純に切り捨てるわけではなく、大衆には大衆向けの戦略を取り、一方「限られた同志」を選り抜いていく、という、実に「ファシスト」らしい見方。
(これは「選挙で勘違いする人がいる」点と関連しており、一時チヤホヤする人間がいても去る時には掌を返すよう、という現実をイヤというほど知った経験から、外山氏が悟った方針と思われます)

「サブカル」には緊張感がない

 「サブカル」は「メインカルチャー」あっての「サブカル」で、緊張感がなく甘えたものだ。「メインカルチャー」が致命的無教養に陥っている中、「サブカル」に甘んじることは醜悪である。「カウンター・カルチャー」でなければならない。

国民投票法案なんかどうでもいい

 (「国民投票法案なる『とんでもない』法律が成立してしまったことについてどう思うか」という質問に対し)、そうした「日本国」の枠組み自体がどうでもいい。
 外山氏は「ここ二ヶ月新聞も読んでいない」と本当に関心がない様子。松本氏は「(そもそも)日本なんてものと縁もゆかりもないんじゃないか」といった内容を発言。
(お二方も「政治的無関心」を素朴に是とする立場ではない以上、上記は「ノンポリ」的無関心とはまったく異なり、リアリティのない土俵で勝手に物事が決められていく状況に対しては「土俵に上がりやり返す」より「土俵をうまく使いながらかく乱する」態度こそ妥当、という姿勢から来たものと思われます。私見ですが、こうしたリアリティの無さから「政治」に興味を持てず、かつ「私的空間への退避と無関心」という権力に転がされる一方の姿勢にも煮え切らなさを感じ、コミットできる土俵をうまく作れないか、と感じている人は結構少なくないのではないでしょうか。ネット上のコミュニティなどが端的にはけ口になっていますが、それだけでは「(権力にとって)都合の良いガス抜き」という面も否めません)


 外山恒一さんと松本哉さんは、「パフォーマンス」的なところで近親的なところがある一方、思想というよりは人としての核の部分で好対照をなしています(逆に言えば「対照」を構成できるだけの共通軸がある)。
 松本さんは本当に「手段」を追及している。これは芸としてやっている、という意味では全然なく、行動し表現すること自体に非常に重きを置いています。正に「表現の自由」を「自由な表現」で行うことを実践する、ということです。
 彼の主張を聞いたのはこれが初めてだったのですが、非常に包容力のある大きな人物で、かつトークも素晴らしく魅力的な方でした。「面白いことをやる」ことに常に頭を巡らせている方ですが、単に自己顕示的一発芸を演じるのではなく、自然と人を引き込んでしまう力がある。おそらく「面白いこと」をやりたい欲が余りにも余りにも強いため、自分のことをうっかり忘れるくらいの勢いがあるからでしょう。
 対して外山さんは、「手段」自体も追求する一方(これを疎かにしていない証左に、松本さんの素晴らしい活動スタイルを高く評価している)、その背後に「本当の主張」を持ち、少数の者とだけは真に共有したい、という気持ちが感じられます。しかしこの「区別」を隠そうともしない、というところが、いわゆる権力者とはまったく異なります。自分の「欲」に対して誠実であろう、という姿勢が見られます。

 こうして見ると、松本さんが「人間好き」な一方で、外山さんは根底で「人間嫌い」のような印象を受けるかもしれませんが(実際そう受け止めた方は少なくないはず)、実はむしろ逆なのではないでしょうか。
 両者の対比は、「本当」に対する信仰の有無にあります。
 松本さんは、現象の背後にあるものを本当に信じていない。信じていないというのは「否定している」という意味ではなく、そんなことに頭を巡らせもしない、というか眼中にない。
 一方、外山さんは多分、疑ったり侮蔑したりする一方、芯のところではものすごく人間を信じている。これを純真で誠実と取るか、ナイーヴで古臭いと取るかは別問題として、心の奥底で「99%ダメでも、もしかしたら奇跡的に通じるんじゃないか」という基底音が響いている印象を受けます。

 つまり外山さんは人間たちの方を向いている。反対側には自分がいる、という軸。そこで肯定や否定といった力動が働く。その言動はいかに「計算づく」と本人が言おうと(そして実際かなり計算されたものであろうと)、著名という「人間界に対する誠実さ」の呪縛の元にあり、死に場所をわきまえている。
 松本さんは<他なるもの>に向かっている。横目でちょっと人間を見ている。脇の下くらいにワラワラいる。その圧倒的饒舌と機知には、<他なるもの>に突かれて(憑かれて、疲れて)動く立ち位置の匂いがする(自分の言ったこともあんまり覚えていなかったりするのでは? 違ったらゴメンナサイ)。

 松本哉さんについては、ほとんど予備知識を持たないでいった分、そのパワーと魅力に素朴に驚かされました。個人的に、自分にまったくない種類の力を持っているだけに、ややナイーヴに「すごい」と思ってしまいます。
 一方で、(まったく一方的に)自分とかぶって感じられてしまうのが外山さんです。
 これはわたしの勝手な想像ですが、彼はとても「許可」を求めている。人を信じる気持ちが強かった分、裏切りと反目の中で大きく傷つき、安易なコミュニティ的なものを否定する一方、「同志」を必要としている。
 松本さんの周りにもとても多くの人が集まっているのでしょうが、彼にとっては「同志」というより、「なんかワラワラ集まって面白い」要素の方が大きいのではないでしょうか。外山さんが一点突破なのに対し、松本さんは「薄く広く」というか、心が人間界の外に向かっているように見えます(本人はそう思っていないでしょうけれど)。
 松本さんは、特に「許可」を必要としてない。「必要ない」と主張するのではなく、そんなことを想定もしていない筈です。
 外山さんも別に「許可が必要」などと考えているわけではないでしょうし、むしろ「許可なんていらん!」と叫ぶでしょうが、それこそ「許可」が頭から離れない証左でしょう。「やって良いこと」「為すべきこと」という軸が常にあって、これを否定したり肯定したり、といった葛藤が行動を大きく導いているように見えます。
 ただし(「許可」という言葉を使いはしないでしょうけれど)彼はそういう自分の性向というものも自覚していて、恥じらいや罪悪感を抱く一方、乗り越え肯定する、アクロバティックな方法で「許可を求めること」を自らに許可しようとしています。「ファシスト」を名乗ることは、トラップをトラップで切り抜ける彼の最後の手段なのではないでしょうか。

 そういう外山さんはとても「可愛い」。
 だから外山さんや、同じように「許可」を必要とするタイプの人に対し、「許可」を与えよう、という人がいます。
 しかし求められた許可に許可を与える、といった関係について、希望を持ってはいけません。なぜなら、与えられた許可、それは常に求められた許可とすれ違うからです。両者は正に「出会い損ねる」ために惹かれ合います。
 要するにファンタジーということで、欲望は充足されない限りで維持され、なかなか結構なことではあります。そういう「満たされなさ」に満たされつつ、死ぬまで生きるのが人間というものですから。
 しかし「出会い損ねる」ことを「知って」しまった段階で、「承知の上で」ファンタジーに耽溺することはできなくなります。ファンタジーに外部がないにせよ、死=物質の契機がなければ、幻想としてすら機能しません。
 加えてサイボーグ・ファシストとしては、こうした出来合いのファンタジーは醜悪さの故に断罪しますし、その最果ての砂漠まで見なければ気が済みません。
 では「許可を求める」ことを否定するのかというと、そうではありません。

 求められた許可が、本当に与えられることなどない。
 必要としている許可を、人が人に与えることなど能わない。
 おそらく外山さんもこんなことはとうに経験から学んでおり、実際「許可は与えられないだろうし、与えることもない」という諦念を強く匂わせています。
 「許可」について重要なのは、求める「許可」が本当に与えられる時がない一方、「許可を求めること」、それは許可されている、ということです。もうずっとずっと前から、扉は開きっぱなしなのです。あんまり大きく開いているので、それが扉であることに気づけなくなっているのです。
 与えられもしない許可を衒いもなく無謀に求めてしまうこと、これを敢えて選択してしまうところにこそ、限られた自由の可能性があります。


 最後の部分はとりわけ個人的バイアスが含まれていて、本当のところ外山さんは全然そんな人ではないかもしれません。この文章をご覧になって、気分を害される可能性もあります。不快感を与えてしまっていたらお詫びしたいです。純粋にわたしの勝手な「解読」だと思ってご容赦頂ければ幸いです。
 念のためですが、ご両人どちらに対してもネガティヴな意図はまったく抱いていません。そうした印象を与える箇所が万が一あったら、それはわたしの筆力の至らなさ故です。


 さらに一つ私見を加えておけば、「民主主義」が制度によって守られている、という想定こそ最も致命的な幻想です。
 そこには何か制度がありますが、制度が守っているのは別のものです。「民主主義」は、結果的に(望まれもしないのに)実現してしまった時だけ、幾ばくかの価値を持つものです。ですから、「民主主義の牙城を守る」などといった主張は、確かに何かを守ってはいますが、守っているのは民主主義とは別の、多分ちっとも「民主主義的」ではないものです。
 豚と人間はある意味「共生」しています。だからといって、豚は人間を「仲間」とは思わないでしょうし、人間もまた然りです。
 「共生」を謳う豚がいるとしたら、彼または彼女は、単に自分が豚であることを忘れている豚です。
 わたしたちはこれを「共生」と呼ぶ視点を理解できます。だから、ある種の状況では「共生」を主張するかもしれません。これは統制的理念であり、行動を導くものではありますが、行動の結果として実現されるのは、叫ばれた「共生」とは似ても似つかないものでしょう。恐ろしいことに、それこそが実はこの者が求めていたものです
 自分が豚あるいは人間であることを括弧に入れて「共生」を言える一方、「共生」を理解できてしまう視点の方を括弧に入れることもできます。そこにはある種の後ろ暗さがありますが、翻って自らをモノとし、これまた望まれもしない「共生」を生む結果となることがあります。
 制度は「民主主義」を守りませんし、きっと何者にも守られたりはしないのです。

 最後に動画を二つ。
 この外山恒一さんと松本哉さんのトークイベントでは、お二人の選挙活動やデモの他、注目される映像がいくつか流されたのですが、その中でも特に面白かったものを以下に貼っておきます。

 ドイツ無政府主義ポゴ党。すごすぎます。

 松本哉氏による「三人デモ」。
 これは「参加者五人」と申請したデモで大量動員した直後に行われたもので、前のデモの狂乱ぶりに当局から激しい非難を受け、「警察への恭順(?)を表現するもの」として行われたようです。「参加者三人」という申請は当然当局から信用されず、ものものしい警備がしかれたところで、本当に三人だけでデモ。しかもシュプレヒ・コールすら上げず、ただブラブラ歩いているだけ。最高です。
 この他、「すっぽかしデモ」の話題も非常に面白かったです(クリスマスイヴと大晦日に大規模デモを申請しながらすっぽかし、警察官の「家庭崩壊」を招く、という企画)。


関連記事:
「サイボーグ・ファシズム」
要諦
「ムッソリーニ、人種、自由」
「ファンタジーとファシズム」
前フリ
「『敢えてファシズム』」
「にせファシスト」
外山恒一さん関係
「外山恒一さんと会う」
「さておかれない冗談、外山恒一」
参考
「人間のフリをする人間」
オマケ
「採集民のススメ」

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