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2007年05月21日

トルコ、帝国と帝国主義

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『オスマン帝国―イスラム世界の「柔らかい専制」』 鈴木董 『オスマン帝国―イスラム世界の「柔らかい専制」』 鈴木董

 この本を手に取った理由は二つ。トルコという国が気になること、帝国と帝国主義について最近よく考えていること。
 トルコは面白い国です。
 国民のほとんどがムスリムでありながら、厳格な政教分離を国是とする「近代国民国家」。とりわけ軍が世俗主義の守護神となっていて、トルコ共和国建国以来、二回のクーデターがありましたが、いずれもイスラム推奨政策が問題の一つとされていました。しかも軍政のままでは国民国家の原則に反してしまいますから、一定期間後にはきちんとシビリアン・コントロールに戻す。とても面白いです。
 ところが、最近のトルコはイスラム主義に大きく傾いています。大統領選の決着がつかず、国民投票を認める憲法改正にまで至っているのも、この「世俗主義 vs イスラム主義」という構図が背景にあります。トルコ悲願のEU加盟が延々とはぐらかされ、世論が「ヨーロッパの一員=国民国家路線」から「イスラム主義」へと傾きつつあることも一因でしょう。
 トルコのEU加盟を認めるか否か、「広域国家」ヨーロッパの度量が試されるポイントな訳ですが、ここで「帝国と帝国主義」というもう一つの関心点につながります。
 帝国と帝国主義は異なります。
 柄谷行人さんが『世界共和国へ』等で述べていますが、近代以前の「帝国」の支配とは、要するに「上納金」をせしめるものであって、この枠組みさえ守られていれば宗教だの文化だのといったことには良く言えば寛大、悪く言えば無関心でした。
 しかし「帝国主義」の背景には、国民国家という近代の枠組みがあります。つまりネーションという幻想の共同体の拡大こそが「帝国主義」な訳で、必然的に植民地を「ネーション」の中に納めようとしていきます。正にネーションが幻想にすぎないゆえにこそ、「民族性」の押し付けが生まれます(「押し付け」なければ「民族」など成立しない)。
 本書のテーマとなっているオスマン帝国は、そうした「帝国」の一つであったわけですが、一方広域国家としてのEUにも(帝国主義ではない)「帝国」的要素があります。言わば帝国によって帝国主義を乗り越えようという試みとして、解釈することもできるわけです。
 オスマン「帝国」の末裔としての「近代国家」トルコ共和国、その加盟に揺れる「新たなる帝国」EU、反動としてのイスラム主義。とても興味深い状況であることはご理解頂けるでしょう。

 さて『オスマン帝国―イスラム世界の「柔らかい専制」』です。
 前半はオスマン帝国の歴史、後半は政治制度や文化についてまとめられたお手ごろな「オスマン帝国入門書」です。
 コンスタンティノープルの攻防など、純粋に読み物として面白い部分もあり、西洋中心の歴史観に汚染された視点をズラしてくれる効果があるのは間違いありませんが、上のようなわたしの関心に答えてくれる本ではありませんでした。タイトルから勝手に期待しすぎたようです。
 ただ、改めてイスラームというものの寛大さ(貪欲さ)を感じることはできました。これは「帝国」の本質でもあります。
 「寛大」というのは必ずしも良い意味で言っているわけではありません。例えば異教徒に「経典の民」として一定の地位を与えることは「寛大」とも言えますし、何もかもを自らの枠組みの中に勝手に取り込んでしまう、とも言えます。筆者はオスマン帝国の奴隷制はギリシャ・ローマの奴隷制と異なり「部分的人権を認める」ものだった、としていますが、「部分的人権」などという真綿で首を絞めるようなポジションに無理矢理押し込まれてしまうのが有難いことなのかどうか、軽々に断じることはできません。

「柔らかい専制」は、”ゆるやかな統合と共存のシステム”と、それに外側から「鉄のたが」をはめる”強靭な支配の組織”からなりたっていた。

 これは今日のPC的=箱庭潔癖と好対照を成すシステムに思えます。
 「ジハードを認めているからイスラームは野蛮だ」というほどナイーヴな人はそんなにいないでしょうけれど、ジハードなど認めていない「キリスト教徒」が大半を占める国があちこちで戦争を仕掛けています。戦争を放棄した国が海外に軍隊を送ることもあります。
 別段皮肉を言いたいわけではなく、こういう場合「とにかく戦争はあるんだから。なくならないんだから」と全部呑んでしまって、その上で位置付けする、というのが「帝国」スタイルなのではないでしょうか。個人的には、中国という国からも似た匂いを感じます。

 オスマン帝国はネーション・ステートの前に敗れます。
 これは近代国民国家たる西欧諸国に対して軍事的に敗北する、というだけでなく、帝国内のナショナリズムによっても分断されていった、ということです。
 そのネーション・ステートはやがて「帝国主義」という極限形を取り、世界中を飲み込みます。
 今日「帝国」というとアメリカを想起しますが、「アメリカ帝国」もまたネーション・ステートによる「帝国主義」の洗練された形に過ぎません。しかも、アメリカが相手にしなければならない「世界」は、オスマン帝国やムガール帝国が相手にした「世界」に比べて大きく複雑に成り過ぎました。いかにアメリカが「超大国」であったとしても、支配できるスケールを超えているのではないでしょうか。
 ただアメリカが普通のネーション・ステートと異なるのは、そもそもが「多民族」な移民国家であり、素朴に「民族」や「歴史」に訴えるようなナショナリズムでは成り立たない、というところです。もとよりネーションとは想像の共同体に過ぎませんが、もう一段論理レベルのところで設定する必要があったのです。彼らが「覇権」を示す際に掲げる「自由と民主主義」というお題目は、「民族を越えた民族」の血の証明にも思えます。
 むしろ「民主主義」などを輸出してくれない方が、よりオトナで狡猾な「帝国」なのかもしれません。

 余談ですが、この『オスマン帝国―イスラム世界の「柔らかい専制」』はアマゾン・マーケットプレイスで購入しました。極端に汚れた本でなければ気にしないので、激安出品に惹かれてしまったのです。
 届いてみると、線が引かれまくった本でした。
 それ自体はさすがに嬉しくないのですが、線が引かれた古書を読んでいると、前に読んだ人の「読み」が見えて面白いことがあります。問題集などでは、結構同じ箇所で間違えたりして「そう、ここひっかかるよねぇ」等と見知らぬ前所有者に共感してしまったりします。この本には線だけでなく随所に書き込みがあり、「セファルディム」に「ディアスポラしたユダヤ人」などの解説が付記されています。
セファルディム
 この手の「書き込み」でわたしが見た最高のものは、図書館で借りたヘーゲルの『歴史哲学』でした。
 この本では随所で元のヘーゲルの文に取り消し線が引かれ、無名読者による「修正」が加えられていたのです。翻訳の間違い等ではなく、オリジナルなヘーゲルです。
 萌えますね・・・。

関連記事:
「『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』 柄谷行人」
「『イスラーム戦争の時代』 内藤正典」
「日本のムスリム社会、日本人ムスリム」
「『アメリカの中のイスラーム』 大類久恵」

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