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2007年05月23日

オルテガ『大衆の反逆』、空地、国家

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『大衆の反逆』 ホセ・オルテガ・イ・ガセト Jos´eOrtegayGasset 寺田和夫 『大衆の反逆』 ホセ・オルテガ・イ・ガセト 寺田和夫訳

 「外山恒一さんと会う」でオルテガにちらっと触れて中途半端だったので、ざっと見直しました。
 『大衆の反逆』の手に入れやすい翻訳は、この寺田和夫さんの訳の他に神吉敬三さん訳のちくま版があります。後者が割りとカッチリした論文翻訳調なのに対し、寺田さんの訳は自由度が高いこなれた雰囲気。個人的に、(仮に多少正確さに欠いたとしても)オルテガにはやっぱり生き生きした文体が似合うと思うので、寺田さんの翻訳の方がお勧めです。

 大衆を侮蔑し、大衆が権力を持ってしまった現代を「慢心したお坊ちゃんの時代」とするオルテガ。彼の言う大衆とは、「自分が《みんなと同じ》だと感ずることに、いっこうに苦痛を覚えず、他人と自分が同一であると考えてかえっていい気持ちになる」「自分の凡庸であることを承知のうえで、大胆にも凡庸なるものの権利を確認し、これをあらゆる場所に押し付けようとする」者たちです。
 これに対しオルテガは、少数エリートの重要性を説きます(「貴族的」という言葉が使われていますが、彼の描くのは「貴族」という日本語からイメージされるものとは少し違います)。それは「たとえ自分に課した高度の要求を果たせなくとも、他人より自分にきびしい要求を課す人」のことです。
 非常に美しいのは次の一節。

群集や大衆でないことを特徴とする集団では、その成員たちのじっさいの一致点は、なんらかの願望、考え方、あるいは理想に存するのであって、それだけでも多数の人間を排除する。どんな集団であれ、少数派を作るためには、めいめいが、特殊な理由、ほぼ個人的な理由によって、群集からみずからを区別することが必要である。したがって、あいたずさえて少数派をつくる他の人びととの一致は、めいめいが単独者の態度をとったあとの二次的な問題である。だからだいたいにおいて、それは一致しないという点での一致である。(下線引用者)

 これだけ取ると、初期ファシストや二・二六の青年将校などを突き動かしたのも似た力だったのでは、と思ってしまうのですが、オルテガはファシズムやサンディカリズムには極めて否定的です。「理由を述べて人を説得しようともしないし、自分の考えを正当化しようともしない」、「理由をもたない権利」を主張するものとして、退けています。

ファシストがやがて政治的自由に反抗して立ち上がるであろうが、それはまさに、政治的自由が結局は敗北しないこと、それはヨーロッパの生の本質そのもののなかにどうしようもなく根を下ろしていること(・・・)を知っているからである。

 要するにオトナたちの掌の上で暴れてみせているヤンチャ坊主だろう、といった認識です。
 また「職人的」なものにもオルテガは冷たいです。官僚主義に対し批判的であるだけでなく、「専門家」(エンジニアのようなものをイメージしているらしい)がその専門について秀でていることから、他のことについても堂々たる権利を主張するのを侮蔑しています。
 ではどのような態度が「貴族的」なのか。それはおそらく、徒に「革新」を叫ぶのではなく、かといって現状維持に甘んじるのでもなく、今ここにあるがままの日々の中で、常に自らに要求を課し、乗り越えていく、というスタンスでしょう。お陰でオルテガはすっかり「保守」の教科書のようにされてしまっていますが、彼は漫然と現状に一票入れる態度を批判しているのであって、同じ「現状」にあっていかなる姿勢を取るのか、という目につきにくいところにこそ大きな差異がある、と考えているのです。
 ですから、オルテガを狭い意味での政治的言説として使ってしまうことは極めて危険です。実際、『大衆の反逆』にも以下のような下りがあります。

以上述べたすべてのことを、そのまま政治的な意味にとらないことがたいせつである。政治的行動は社会生活のなかでもっとも有効で目につきやすいものであるが、他のもっと内的な触知しがたい行動のあとに来るものであり、その結果である。

 このような「内にある少数エリート」的思想には素朴に共感できます。「サイボーグ・ファシズム」で伝えたかったことの一部も共鳴するでしょう。

 しかし、まず第一に「そのまま政治的意味にとらないことがたいせつ」と言いながら、極めて政治的に読解できてしまう語りを展開することは、西田幾多郎が戦前日本で(期せずして)果たしてしまったような役割を演じる轍に陥っているのではないか、という疑問があります。
 第二に、純粋に「少数エリート」でだけある人間、というのは存在できません。オルテガの文が非常に美しいだけに、その理想に突っ走るだけですと、カントの「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」を「他者を手段としてではなく同時に目的として扱え」として読んだ学生たちと同じ「箱庭」の中に留まる結果に陥ってしまいます。オルテガはむしろそうした超然とした態度を批判しているのですが、誤読を招いていることも事実です。
 彼の嘆きも虚しく上から下まですっかり「大衆」色に染めあがってしまった現代に住むわたしたちにとって、「今ここ」はむしろ生活者としての大衆の中にあります。ですから、真に「オルテガ的」であろうとすれば、「大衆的生活」に軸足を置きながら、常に「ここ」への疑義とズレを忘れず、微分的<飛び出し>を実践するしかないはずです。大学などの治外法権的空間からの言説に対し、「大衆的現実」に片手両足を縛られながら片腕で応射するくらいでなければ、真に「貴族的」とは言えません(※1)。

 本書は第一部「大衆の反逆」が三分の二ほどを占め、引用や諸々の影響もここから来ているものがほとんどなのですが、第二部「世界を支配する者はだれか」も興味深い国家論が見られます。
 オルテガは「《支配》と呼ばれる、人間のあいだの安定した正常な関係は、けっして力に依存するものではない」とし、そこには使命・目標といったモチベーションが働いている、とします。

支配することは、だれかに命令することと、なにかを命令することという、二つの働きをもっている。そして、だれかに命令することは、結局、なにかの事業に、大きな歴史的運命に、参加せよということである。

 この論証のために、国家の起源が説かれます。
 国家の原型となった都市は、「純粋に単純に原野の否定」から始まる、とオルテガは言います。

都市ないしポリスは一つの空地(・・・)からはじまったのであり、それ以外は、その空地を確保し、空地の輪郭を定めるための手段にすぎない

 都市の中心に空地を見る、というのは非常に重要な視点です。
 空地とは「何もない場所」ですが、原野とは異なります。「ない」空間としての分節、「ない」が在るということ、象徴言語が世界に入れる一本の線、それが空地です。
 空地にはこれから何かが作られるのかもしれませんが、「未だ」なにもない。「未だ何でもない」ものではあるということは、「これから何かが作られる」ことが読み込まれている、ということです。翻せば、空地とは常に過去に在るものです(「かつてここは空地だった」)※2。
 そのような都市は<自然>から生まれるのではなく、<自然>を否定することから始まります。
 ここまでは良いのですが、オルテガは「否定」を個々人の主体的合意に基づくかのように描いてしまいます。彼は、国家とは「本当の創造」「一つの行為であり、行動する共同体」とします。

国家は、人間が、血のつながりによって決定される自然社会から逃れることに憧れることから始まる
国民国家では、《臣民》たちの自発的な根強い凝集力から、国家の力が生まれるのである

 国家が「血のつながり」=<自然>を越える「想像の共同体」であることは確かでしょう。しかしこの共同性は、臣民たちの熱意の集まりや、強いリーダーシップによって構成されるものでしょうか。
 柄谷行人さんが指摘されていることですが、国家は何よりも国家に対して国家です。個人がムクムクと育って国家に至るようなイメージは、精神分析を発達論的な個人史に還元するような危険を孕んでいます。
 「歴史的起源」という発想を一旦括弧に入れて、国家自体の自律性(国家に対して国家である、という他律性)を考えなければ、「国家を使おうとして国家に使われる」愚に陥りかねません。それは確かに「地」に対する分節ですが、分節は他律的・受動的なものです。「自発的な根強い凝集力」は後付けの理屈でしょう。
 この他律性とは、支配者に対して臣民が他律的である、という意味ではありません。支配者も含めた国家自体が、他の国家に対して他律的である、ということです。
 もちろん、現実の「国家運営」では、このような他律性を前面に押し出しては成り立たないでしょう。そこでは「創造的」理念が語られるでしょうが、それは統制的理念であり、国家そのもののメカニズムを解き明かすものではありません。

 オルテガの論は、統制的理念として読まれる分には示唆に富んでいます。しかし、その理念が導く構造は、必ずしも彼が理想としたものではないのではないでしょうか。とりわけ「保守」に活用され、上からの国家理解として読まれてしまった時、読者をむしろ「大衆」へと堕す結果を招くことでしょう。
 少なくとも現代にあっては、大衆の中に留まりながら大衆を否定する、局所的な「加速度」としてしか「貴族的」なものは実現しないはずです。

関連記事:
「『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』 柄谷行人」
「サイボーグ・ファシズム」
「自由意志、自己決定、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」」
「〈飛び出す〉倫理」

※1
 治外法権でも特権的でも結構ですし、別段一「大衆的」職業としての教師を否定する気はありませんが、そうした場所から「治外法権的なもの」を批判する言説を売って商売している大学人や一部フェミニストが滑稽だ、というだけです。
 実際、お会いしてみると、狭い世界でいちゃいちゃしているだけの吝嗇なサヨク、ということが何度かありました。
 また、最近の「メインストリーム学識者」の劣化には著しいものがあります。わたしは大学で教鞭を取っておられる方による翻訳書で、事実上の「ゴーストライター」をやったことがありますが、彼の英語・日本語能力のレベルには「これで大学の先生ですか」と呆れざるを得ませんでした。

※2
空き地については、「〈飛び出す〉倫理」空き地、屋上、押し入れ参照頂けると嬉しいです

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