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2007年05月28日

寛容さと共存の何が問題なのか

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 「オルテガ『大衆の反逆』、空地、国家」でオルテガを話題にしたところ、しあわせのかたちのsho_taさんより、「自由主義デモクラシーの賛美こそオルテガの真骨頂であり、これを取り上げるべき」とのご指摘を受けました。
 そこで「美しい」として引用されていたのが以下の下りです。

 政治において、共存への最も高度な意志を表明した形態は、自由主義的デモクラシーである。自由主義的デモクラシーは、隣人を考慮しようとする決意を極端に示しており、「間接行動」の典型である。政治権利の原則は自由主義であり、社会的権力はその原則に従って、全能であるにもかかわらず自分自身を制限する。つまり、最も強い人たち大多数の人たちである社会的権力は、自分が犠牲を払っても、自分が支配している国家のなかに、自分たちと同じように考えたり感じたりしない人びとが住めるような場所を残そうと努める。今日このことを思い出す必要があるが、自由主義とはこの上ない寛容さなのである。それは多数者が少数者に与える権利であり、したがってかつて地球上で聞かれた最も気高い叫びである。自由主義は敵と共存する決意を、しかも弱い敵とさえ共存する決意を表明しているのだ。人類がかくも美しく、かくも逆説的であり、かくも優雅で、かくも曲芸的で、かくも自然に反することに到達したのは信じがたいことである。だからその同じ人類がすぐさまそれを投げ出そうと決心したように見えても驚いてはならない。自由主義を実際に行うことはあまりにも困難であり複雑なので、地上に根をおろすことはできないのである。

 まず、ただの生理的「感想」ですが、このパラグラフについてわたしは「美しい」とは感じないし、「安心」が三分の一くらい、残りが不快感というか、警戒と怒りの混ざった感覚を抱きます(「全否定」ではない)。ただの「感想」では仕方ありませんから、整理していきましょう。

 寛容さと共存。
 この一見麗しいキーワードにある傲慢さについては、大分以前に「寛容と理解を踏みにじれ」で詳しく書きました。「寛容」などと軽く口にする人間は、暗黙的に自分にこそ選択権がある(選択する力を持っている)、と宣言しています。「生かすも殺すもわたし次第。お前は選べないがわたしは選べる。お前の存在を許すが、場所はここだ」と囲い込んでいるだけです。
 「寛容」により存在を許可された者が、一体どういう気持ちになるのか、このお偉い方は想像もできないのでしょう。
 ですが、「理解しろ」とか「相手の身になって考えろ」と言うのではありません。
 むしろ「寛容さと共存」を述べ立てる者こそ、実に「相手の身になって」考えています。勘違いに終わっている可能性が高いとはいえ、彼・彼女らなりに精一杯「理解」を示し、ボランティア・スピリットを如何なく発揮し、「相手の身になって」いるのです。
 すなわち、「相手の身になる」ことが可能である、完全ではないにせよある程度は理解できるだろう、という想定が背景にあります。それは「わたしたち」と「あいつら」がいて、両者を俯瞰する視点から眺めることです。
 「共存」というキーワードが示すのは正にこの視点です。
 「共存」というとAとBが等しく並んでいるようなイメージですが、その図を描けるということは、描いている者はAとBの一段上に立っている、ということです。本当はただ正面に立っているだけで、下手をするといつの間にか見下ろされているかもしれないのに、足元を疎かにして大所高所から見下ろしているわけです。なおかつ、図の中にもう一度自らを「水平な中の一つ」として位置づけることにより、俯瞰による幻想的充溢を隠蔽する。共同体的道徳規範に責められることなく、安全に幻想的充足を得るレトリックです。
 これらを全部ひっくるめて彼らの箱庭なわけですから、そもそも「理解」だの「相手の身になる」だのといったことはちゃんちゃらおかしい自己満足にすぎません。
 「相手の身になる」こと、それは不可能です。
 可能だと想定すること自体、他者の他者性を踏みにじることにすぎません。

 しかし話はこれで終わりません。
 最初の一歩は不可能を認めることです。選べる立場にいるようで、実は全然選んでなどいないのだ、ということを知ることです。ですが、それだけでは「美しい魂」的相対主義に留まってしまいます。
 ただ、先に進む前にいくつか留保しておくべきことがあります。
 不可能すら知らない勘違いの「寛容」も、実際的な政治状況の中では必ずしもネガティヴなものではありません。勘違いも使いようですから、「理解して頂く」側に回った時は、名を捨て実を取るのも大いに結構でしょう。また逆に、そういう「理解してやる」側の幻想にうまくハマれているなら、せっかくのファンタジーにツッコミを入れてしまってはもったいない、とも言えます。
 「寛容さと共存」には何ら倫理的決然さはありませんが、わたしたちは常に<倫理的>であることはできません。むしろ原則として<非倫理的>であり、常に<倫理的>であろうとする、あるいはあり得ると考えることは、逆に<倫理性>自体を踏みにじる結果を招きます。ですから、「寛容さと共存」的な幸福主義=功利主義が世界の大半を覆っていたとしても、そのこと自体を非難するものではありません(これはアメリカでNPOや「ボランティア活動」が盛んであることを想起させる)。
 体制としての「自由主義的デモクラシー」は、この点ではそれほど「悪い」ものではないかもしれません。そこには明白な無知と傲慢さがありますが、大抵の体制は無知で傲慢なものです。
 しかし体制としての「自由主義的デモクラシー」と思想としての「自由主義的デモクラシー」は異なります。体制は結果にすぎず、「システムという名の過程」という逆説ですが、思想として同じことが語られるとしたら、それは自らの欲望に対する裏切り他なりません。統制的理念は、その到達不可能性自体によって欲望を宙吊りにする余白までも視座に入れて語るものであってはじめて、機能します。翻せば、上記のような「自由主義的デモクラシー」がもし思想として語られているのなら、これに対し<倫理的>可能性という致死性のものを示さないわけにはいきません。
 ですから、話を続けます。

 「豚と人間はある意味共生している」。『寄生獣』の人食いパラサイト田宮良子は言います。
 もちろん、豚(パラサイトにとっての人間)はそう考えません。しかしより重要なのは、人間(人間にとってのパラサイト)も「豚はそう考えない」ということを「知って」いる、ということです。
 「豚は『人間と共生している』とは考えないだろうが、それでも豚と人間はある意味共生している、わたしはそう言わざるを得ない」。それが田宮良子が本当に伝えようとしたことです。
 ここにあるのは、高所から選択権を行使する傲慢さではなく、むしろ選択権の無さに対する圧倒的な諦念です。
 豚がこの「共生」を理解しないこと、つまり「真の共生」が決して成り立たない、合意に達することなどない、という絶望です。「理解」が決して届かないにも関わらず、なお「共生」というより他に言葉のない形以外、生きる術がない、ということです。彼女はこの「共生」が極めてエゴイスティックな視座によることを「知って」いますが、同時に「共生」という、利己性を覆い隠すような欺瞞的概念をもって状況を語る以外、選択肢を持っていません。
 そしてこの絶望の中で、なお彼女は「共生」という言葉を、豚=人間に対して口にしてしまいます。理解するはずのない豚=人間が、この言葉に憤り、正に「共生」が破られるであろうことも予期しながら。
 そこにあるのは、俯瞰の位置の登り、その俯瞰が自らのファンタジーであり決して相手に届かないことを認め、もう一度水平の位置に戻ってなおファンタジーを叩き付ける愛=暴力です。<致死性の生>という原野へと自らを投企する行為です。
 残念ながら、おそらくオルテガが言おうとしたのはこうした限界の愛=暴力ではないでしょう。少なくとも、オルテガが「保守の教科書」として読まれているほとんどの現場で、この言葉が致死性を孕んだものとして読解されていることはないはずです。
 しかし同じ言葉を、一切の「説得」抜きに自らの絶句として発するとしたら、それは最後にして唯一の自由の行使にもなります。

 「相手の身になる」ことは不可能です。
 それを知らず、「相手の身になる」ことを求める態度、自らが「相手の身」になっているかのような主張、これらはすべて愚昧と盲目から来たものです。
 ですが、その不可能を知ってなお、「相手の身になる」ことを実行する、それがわたしたちの唯一の自由です(※1)。
 これは「不可能を実行する」ことですから、常識的に考えて馬鹿げたことですし、ただ「できない」ことを示す結果にしかならないでしょう。
 しかし逆説的にも、わたしたちにできるのは「できませんでした」ということを身をもって表現することだけなのです。「できない」ことは初めからわかっているのですが、それでも実際やってみて、「確かにできませんでした」と死す。それがわたしたちが生きているということです。

 根本敬さんの「でもやるんだよ」という思想があります(※3)。
 確かこれは、岩手かどこかの山奥で、「処分」されるはずだった犬を引き取って育てている人の台詞から来たものだったと思います。
 この「捨て犬牧場」では、犬がこれ以上繁殖しないよう、去勢手術を施しています。しかし去勢手術のペースには限界があり、明らかに犬の繁殖スピードに追いついていません。一匹去勢する間に二匹子犬が生まれ、さらに「処分」予定の犬が追加されていきます。そのことは「牧場主」自身もわかっています。
 「やっても意味ないと思うだろ? 無理だと思うだろ? オレもそう思うよ。でもやるんだよ」。
 寛容さと共存が、もしこのような精神で発せられるのだとしたら、それはとても美しい。目が潰れるほどに。
 そして彼または彼女の示した美学と侠気を認め、わたしならその者を決然たるテロルにより滅ぼしたい。その者の吐いた絶望的傲慢に報い、この手でキチンと肉を切り内臓を掴み出し、愛に対し愛をもって答えたい。それだけの愛と勇気が自分にないことはわかっていますが、だからこそ力が欲しい(※4)。

 オルテガはファシストを「オトナの手の中で暴れてみせるヤンチャ坊主」のように扱いました。実際、そうした面はあったことでしょう。少なくとも、ファシズムはデモクラシーの「子供」です。田宮良子が「わたしたちは人間の子供だ。わたしたちは一つの家族なのだ」と言うように(※5)。
 子供ではありますが、「お坊ちゃん」かどうかはわかりません。
 「お坊ちゃん」もやがては歳をとり、丸いオトナになるかもしれませんが、もっと「最悪」の結末もあり得ます。
 わたしたちは、子供として人間たちの呪いを引き継ぎました。人間であるとは、この呪いという負債をギリギリ利子だけ支払って次代に丸投げしてしまうことです。逆説的にも、それが「責任を果たす」ということです(取れもしない責任を「取る」)※2。
 「サイボーグ・ファシズム」で示そうとしたのは、呪いの伝承を<ここ>で止めようとする者です。
 この試みは、もちろん失敗が約束されています。わたしたちの血は人間たちによって引き継がれ、わたしたちの受け継いだ呪いもまた、運ばれていきます。重要なことに、この呪いは、わたしたちが人類の根絶に成功したとしても、やはり伝承されるのです。呪い=負債とは、交通不可能な<他者>を渡る手紙です。
 それでも、敢えて<ここ>で決着を付けようとする者がいます。
 「人間ではない」ということ、それだけがわたしたちが人間になる唯一の方法だからです。


『大衆の反逆』 ホセ・オルテガ・イ・ガセト Jos´eOrtegayGasset 寺田和夫 『大衆の反逆』 ホセ・オルテガ・イ・ガセト 寺田和夫訳

※1
「自由意志、自己決定、『他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え』」参照。

※2
「追い抜いちゃった人たち、愛=暴力、資本」参照。

※3
 根本敬さんは本当にすごい方だと思いますが、正直、彼のマンガにはついていけません。彼の作品は<真理>ですが、真理すぎて目が潰れます。真理だかから、本当に気持ち悪くなって吐いてしまいます。あと、月曜日に会社に行けなくなります。わたしは軟弱者です。

※4
 しかし、もしここで愛=暴力を実践したとしても、何かの「決着」が付いたりはしないでしょう。わたしを含めたある種の人びとはこうした「決着」に心惹かれるものですが、「ファンタジーとファシズム」でも書きましたが、「決着」の後にもまだしょうもない物語は続きます。だから「決着」など滑稽な思い込みにすぎず、現にある砂漠でサバイバルしないといけないのですが、そう言ったからといって(それを選んだとしても)「決着」の魅惑が消えてなくなるわけではない。
 すると「決着」が宙吊りの目標=原因として機能している、ということに気付くのですが、それにツッコミを入れているわたしは誰なのだ、という疑問も残ります。もちろん、この「決着」の最終的「決着」などなく、実際に事態がどう動くのかと言えば、決着の付かなさ自体がある種の「決着」として機能し、ウヤムヤになる、ということです。「決着」と「ウヤムヤ」の間には明白な断絶があり、これはどうしても思考できない。だから一番マシな対処法としては、なるべく考えないようにしてとりあえず状況の中に身を置いてみる、ということくらいしか思いつきません。ただし、なるべく「決着」してしまわないようなバイアスをかけることを忘れずに。
 わたし個人は、身体と数字のことだけ考えるようにして、今に至っています。だから本当は、こういう傷口を開くようなことは書きたくないんよねぇ(笑)。身体に悪いからやめた方がいいですよ。
 ちなみに、この感じをとても正確に描いた作品に町田康の『告白』があります。

※5
 ただし、ここで言うデモクラシーとは、自由主義デモクラシーから社会民主主義までの帯域のものでしょう。例えばジジェクの「ラディカル」なデモクラシー等は、このような「家族関係」全体を不可能性の中に期待するものかもしれません。これは軽々には論じられないので、断言は避けておきます。ゆっくり考えます。
 また、歴史的ファシズムと「今、敢えてファシズムと言ってみる」ことの差異は極めて重要です。二つの「ファシズム」と「民主主義」の関係は類似していますが異なります。

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