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2007年05月29日

『日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」』 松本健一

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『日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」』 松本健一 『日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」』 松本健一

 松本健一さんの本は面白いです。
 実は漢字が苦手ということを「世界史は高校2年のリセットボタン」で書きましたが、こういう西洋カブレでゲンダイシソーに洗脳されてしまった類の根無し人間は、「日本近現代史」にとっつけないところがあります。語りたいのだけれど、自然に話そうとするとどうもリベラルで力ないバイアスがかかってしまい、一方で右寄り・土着なテクストになかなか馴染めない。読みたいのだけれど、目が弾いてしまう。
 ところが松本健一さんは違う。多分、彼は右寄りからは「左翼」、左寄りからは「右翼」と僭称されることがあると思うのですが、それは間違っても「中道」だからなどではなく、戦後日本アカデミズムが見ないようにしてきた土着的リアリティにまともに向き合いながら、なおかつそこに飲み込まれず、一定の距離から批判と再評価を加えているからでしょう。
 『日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」』は、松本健一さんの著書の中でも非常にまとまった一冊でしょう。
 とりあえず二点だけメモしておきます。

 一つは「満州事変というファシズム」。
 戦前日本の軍国主義をファシズムとするか否かは意見の分かれるところでしょうが、体制ではなく思想・運動としてのファシズムに限って言えば、ファッショというよりむしろ権威主義的であった、と考えられます。丸山眞男さんが「上からのファシズム・下からのファシズム」という論を展開されていますが、「上から」のものが果たして狭義のファシズムに妥当するのかどうか、疑問の残るところです。
 では日本にファシズムがなかったのかと言うと、それは違う。革命としてのファシズムが権威主義に飲み込まれていった、という構図を個人的に支持したいですが、その「革命としてのファシズム」が純粋な形で表現されていたのが石原莞爾による満州事変でしょう。
 満州事変が日本を泥沼に引きずり込む第一歩となったことは論を待たないでしょうが、ここで覚えておきたいのはそういった「妥当」な批判ではなく、時の関東軍を魅了し暴走させたファンタジーの力です。
 ファンタジーに拠らざるを得ないのは弱さの証ではありますが、ファンタジーを越えた地平などというものに解脱できてしまう時も来ません。「物語」が白々しくなってしまった現代、こうしたファンタジーを鼻で笑う人びとが大多数ですが、一方お仕着せの害のないファンタジー(恋愛であるとか)に転がされているのが現実です。
 管理されたファンタジーとは、疎外を回復させないためのトラップです。もちろん、ファンタジーは常にトラップなのですが、産業資本主義が成熟し「オトナ」になり、「守り」に入るほど、そもそも「安全なファンタジー」にすら回収してもらえない者たちが現れます。
 こうした時、洗練された資本主義が制圧し切れたと慢心していた「大きな物語」が、感染症の再拡大のように再び勢力を取り戻してくるでしょう。「イスラーム原理主義」然りですが、革命としてのファシズムも同様のはずです。
 アカデミズムやメディアはお決まりの「警鐘」を鳴らすでしょうが、そんなものは地雷原の外に農地を持つ者にしか機能しません。

 では、「大きな物語」の方にヤケッパチで行ってしまうかというと、そこまでナイーヴにもなれません。『気分はもう戦争』のハチマキではないですが、「趣味で戦争してるんだよ!」なスタンスでなければ、物語も魅力半減です。ファッショが美しいのは、それが革命であり、思想-運動である場合であり、権威主義に回収されてしまった「上からのファシズム」など、PC的社会民主主義と同じくらい醜悪です。
 これがもう一つの注目しておきたい点、戦争的現実と大衆、という視点につながります。

満州国は日本帝国主義のカイライ国家であるとして、すべてを日本帝国主義の悪のせいにしてしまうのが、戦後日本のアカデミズムであった。しかし、その日本帝国主義を支えていたものこそ、上は満州に「大同の世」を描こうとしたイデオローグであり、下は貧しい満州移民たちだったのである。

 こう語る松本健一さんは、谷川雁の以下のような言葉を引用しています。

 「満州にでもいくか」庶民の底部から、この声がしみだしてきたのは昭和九年だったと思います。すこし腰が浮きかけています。それでもまだ一旗あげるというよりも、の糊口をしのぐ意味の方が強かったようです。・・・  国策など信じているわけでもないのに、庶民の一粒一粒がずるずると日本を離れてゆく。その一粒の過程こそが侵略行為そのものにほかならなかったことを、日本の庶民はまだ認めていません。

 オルテガを支持する層などは、こうしたリアリティを受け止め、だからこそエリートによる支配が重要なのだ、と考えるかもしれません。これは「大衆」を無罪放免しようとしたサヨクたちよりはマシですが、無罪放免もまた暗黙的な「大衆」の切り離しを行っているだけである以上、実は表裏一体であると言えます。また一般的なファシストも大衆を侮蔑し、そこから身を引き剥がすことの重要性を信奉します。
 しかし、どの選択肢を選ぶにせよ、もし「貴族的なるもの」が裸で大衆から独立できると考えるなら、同じ轍にはまることでしょう。「オルテガ『大衆の反逆』、空地、国家」で書きましたが、おそらく唯一の希望は、大衆の中にあって大衆からの離脱を図る、大衆を侮蔑する<大衆>という、潜伏的形態だけではないか、と考えられます。
 本書では中江丑吉の「自覚した大衆(マッセ)」という言葉が引かれています。

「マッセは二つか三つどうしても守ることを決めておいて、あとはできるだけ普通にやるんだ。そうしないと弱くなる」
 知識人(インテリ)は、イデオロギーや体系化された思想を信奉する度合いが大きい。かれらの存在の根拠が知識や思想の体系だからである。それはしかし、日本にあっては大体において外からやってくるものだから、みずからの精神の内なる存在根拠とはならない。それゆえかれらは、知識や体系のぜんたいを守ろうと必死になって「沈痛悲愴」になってしまうのである。じぶんを大衆(マッセ)とおもえばいいのだ、と中江は言う。  大衆(マッセ)は生活にその生の根拠をおく。つまり、戦争の時代にあっては、戦争を生活として呼吸することは自然なのだ。「沈痛悲壮」になるな。戦争を生活として呼吸するなら、そこでは人間として最低限譲れないこと、手放せないことを、「二つか三つ」守ることに決めて、「あとはできるだけ普通にやるんだ」。

 これは別段、戦争という「非常時」に限った話ではないでしょう(外山恒一さんのように「今現在の日本でこそ戦争は進行中なのだ」という主張もありますが)。
 「二つか三つ」が何になるのか、具体的に断定できないのはもちろんですが、この「ささやかなもの」がお仕着せのファンタジーに回収されてしまわないことが、分かれ目になるはずです。「二つか三つ」なスタンスは、実は多くの「大衆」により既に実践されていることです。問題は、ほとんどの場合、知らない間に「二つか三つ」すら都合の良いファンタジーの内部に留められ、体の良い「ガス抜き」にさせられてしまっていることです。そしてこの選び方、選び憤りながらなお大衆的現実に潜伏すること、それが<ここ>にありながら<ここ>から離脱する、微分的貴族性の試金石になるはずです。


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