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2007年06月04日

スラヴォイ・ジジェク『人権と国家』、寛容と自由

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『人権と国家―世界の本質をめぐる考祭』 スラヴォイジジェク SlavojZizek 岡崎玲子 『人権と国家―世界の本質をめぐる考祭』 スラヴォイ・ジジェク 岡崎玲子

 ジジェクの試論二篇とロング・インタビュー。二本目の試論「人権の概念とその変遷」は必読。短いからサクサク読めます(笑)。
 インタビューについては色々批判もあるようですし、実際、日本語がヘン、ジジェクの言葉を受け止められていない箇所が多々見られる、などの難はあるのですが、岡崎氏の若さと根性、兎にも角にもジジェクの本を新書で出した、という功績を考えればお釣りが来るでしょう。
 注目すべき点は多すぎるのですが、まずは「寛容さと共存の何が問題なのか」で話題にしたばかりの「寛容」と自由について。

 例えば、「共同体により思想や宗教が強制されることは暴力であるが、信仰自体は自由である」といった論があります。わたしたちが暮らしている世界は、建前としてはこうした西洋的多元主義を是とするもので、少なくとも「思想・信条に対する寛容さ」を示すことがpolitically correctということになっています。
 しかしジジェクは、アーミッシュの共同体を例にとります。彼らは一定の年齢に達した青年を「外」の世界に出し、奔放な生活を一通り経験させた後で「どちらか選ぶ自由」を与えられます。しかし彼らは本当に何かを「選んで」いるのでしょうか。
 あるいは、ムスリム女性のヴェール着用。それが共同体的制約の元にではなく、「個人の自由」として選ばれた途端、イスラーム共同体への帰属の証ではなく、単なる「個性の表現」となってしまいます。つまり「オプション形式」の中から「ヴェール着用」を選んだとしたら、元々彼女たちが選びたかったはずの「ヴェール着用」は捨てられてしまうことになるのです。
 「選択の自由」とは、複数のオプションの中から「お好きにお選び下さい」と振る舞いながら、その実「オプション形式」にとって有効な選択だけを正当化するトリックに他なりません。

これらの事例から導き出されるのは、選択とは常にメタ選択であるということ、つまり選択そのものの形式を選んでいるにすぎないのだという教訓だ。実質的に選択をしているのは、ヴェール着用を選ばない女性だけなのだ。こうした理由から、宗教への本質的な帰属意識を持つ続けている人々は、選択を主眼とする我々の世俗社会において、従属的な立場におかれている。たとえ自分の信条を曲げずに済んでも、その信条は得意な個人的選択・意見として<許容>されているにすぎない。自分の認識に沿って、信条を本質的な帰属意識として提示するや否や、その<原理主義>を非難されてしまうのだ。

 「君には選ぶ権利があるんだよ」「人それぞれだからね」「色々な個性があるのが世の中じゃないか」。
 「自由主義デモクラシー」の信奉者たちなら、これを自らの「寛容さ」として誇りにでもするのでしょうか(※1)。「選択の自由」を「与えてあげる」寛容さとは、「(ある形式に沿った)選択という自由」に他者を回収しよう、という暴力に他なりません。しかも彼ら自身は、それを暴力とは知らず、そればかりか共存の知恵を提供していると信じているのです。

西洋の<寛容な>多文化主義における<自由に選択する主体>は、固有の生活世界から引き裂かれ、ルーツから切り離されるという、非常に暴力的なプロセスの結果としてのみ、出現することになる。

 <自由に選択する主体>とは、わたしたちが「個人」と呼び習わしているイマジネールなものですが、そもそもこのような「ピザのトッピングを選ぶ主体」として<わたし-たち>を分節すること自体が、産業資本による互酬的共同体解体の営みに他なりません。「個人」は本質的に疎外されていますが、今度はそれを回収する想像的共同体としてネーションが受け皿になる。ここに資本とネーション・ステート(国民国家)という、元々全く別のルーツを持つ二つの力の複合体が出来上がるのです。

今日、他者に対する自由主義的で寛容な態度を決定づける主題は二つある。他者性を尊重する開放的な姿勢、そしてハラスメントを恐れる強迫観念である。端的にいえば他者は、侵入的でなく、存在感が薄い限りに置いて許容されるのだ。こうして寛容は、逆の概念と重なり合う。相手に対して寛容であるという私の義務が実質的に意味するのは、近づきすぎるな、彼・彼女の空間に踏み込んではならないということなのである。言い換えれば、自分が距離を縮め過ぎた事実に対する相手の不寛容を、尊重する必要があるのだ。

 「それならどうしろって言うの? わたしは精一杯寛容さを示しているのに!」。
 そう、確かにあなたは寛容。心が広い。しかし残念ながら、わたしはあなたの許さないことしかしないでしょう。なぜならわたしは、選べるものを選んだりしないからです。
 こうした<寛容>とは、結局のところ他者の他者性を踏みにじることに他なりません。しかしながら、「踏みにじる」ことなく「他者の他者性を尊重する」方法があるのかと言えば、そんなものはもちろんありません。<他者>とは、尊重する・しないといった選択の向こう側にいるものだからです。死者の「本意」を問い尋ねる、あるいは千年後の子孫の益を考える、などといったことが可能でしょうか。
 これに対し「確かに<他者>と交通することは不可能だ。しかし一定の範囲までであれば理解することもできるだろう。交通可能な範囲でのみ、分かち合えるものを共有すれば良いじゃないか」といった反論が予想できます。しかしその「共有できる範囲」はどのようにして定められるのでしょう? 交渉のテーブルに永遠に現れないものとの合意とは、一体何なのでしょうか?
 例えば死者の「遺志」について、様々な証拠から推測することはできますし、また一定の量的基準に達すれば、それを「事実」とみなす、という枠組みがわたしたちの社会にはあります。しかしそれは、どこまで行っても生きている者同士の約束事にすぎません。

 しかし「無理だから諦めよう」というのではありません。むしろ「不可能だから、やるしかない」ということは「寛容さと共存の何が問題なのか」で書きました。「一定の範囲での理解」などできるわけもないのですが、無理を承知で「理解」と暴論を吐いてみる。「理解し、許す」を暴力として実行する
 「許されることと許されないこと」あるいは「共有できることと共有できないこと」のボーダーを越えて(ボーダーに気付かずに)、過剰に「許す」、過剰に<寛容>であること。自由が試されるのは、このギリギリの隙間だけです。
 駄洒落にしてみるなら、ボーダー=境界例ではなく、パラノイアとして突き抜ける、ということです(※2)。

 資本による個人=労働者=消費者の産出を批判することはたやすいです。しかしこれに「対抗」しようと、反-個人的なるものを求めたとしても、釈迦の掌です。
 今日、グローバル資本主義に対する「反動」として、ナショナリズムや宗教原理主義が挙げられます。しかしまず第一に、ナショナリズムが世俗主義的なものとして掲げられるなら、それこそ資本=国家のフィンガートラップにはまっていきます。一方、極端な復古的民族主義や宗教原理主義は、「コレがウワサの原理主義」という形で<寛容>を信奉する人々の物語に回収されてしまいます。「不寛容な原理主義者」は、「寛容で民主主義的社会」以前の生き残りなどではなく、<寛容>による支配が確立された後になって遡及的に想定されたものです。そして「原理主義者」たちは、正にその物語の中で「悪役として」生み出されました。
 これは「アメリカ人は彼らを原理主義者と言って非難するけれど、本当は素朴でイイ人なんだ」という意味では全然なく、「原理主義者」もまた、このファンタジーの中で「原理主義者」として目覚めてしまった、より正確には、「原理主義者」という呼びかけにうっかり振り返ってしまった、ということです。
 しかし、「他者の他者性に対する『真の寛容さ』」が無いように、別の正義や対立軸、といったことが想定できるわけではありません。ですから、「それは原理主義ではないのか」「ファシズムではないのか」という批判に対する有効な回答は一つしかありません。「然り、ファシストである」。
 そして原理主義者(あるいはファシストでも、お好きな役を)として、圧倒的な<寛容>というテロルを実行するのです。人造人間が、人間の作った規則によって人間に牙をむくように。
 あるいはこう答えることもできるかもしれません。「わたし個人としては、原理主義者だ」。

 繰り返しますが、これは資本への対抗ではありません
 また「相互不干渉」という<寛容>に、徒に抗うことでもありません。
 ルールを守るのでもルールに対抗するのでもなく、ルールなど知らない、知らないモノによってわたしがうっかり駆動されてしまう、ということです。
 本当のことを言えば、<わたし>はルールを知っています。<わたし>とは、正に個人として、「相互不干渉=寛容」の世界に呼び出されたもののことだからです。
 だから重要なのは、<わたし>の選択について<わたし>が知らない、物質的な闇の力によって駆動されてしまう、ということです。それはもしかすると、「疎外」に対する回復の運動として起こったものかもしれませんが、そんな安い物語など所詮は<わたし-たち>の箱庭の中の話です。たまたま「回復」にもつながるかもしれませんが、そうでないかもしれない。自然災害的な愛=暴力が、テロルとしての<寛容>をブルドーザーのように実行するのです。

 最後に付言しておけば、ここで「物質」「知らないモノ」等と呼んでいるものを、(ニューエイジ環境主義者のように)超人間的秩序を司るものとしての「自然」と解釈してはいけません。

ヨーロッパにおいては通常、自然は調和のとれた閉回路である、人間が異常なのだという対立概念が浸透しています。とんでもない! 自然界の歴史こそ、大惨事の物語です。

 物質は統合された「自然」などではなく、何の約束もしてくれません。だからこれは、<人間的>秩序によって支配しなければなりません。原野に一本の線を入れて「空地」と宣言するように。
 自然災害的な愛=暴力とは、個人という「人工的自然」から予期せぬ副作用として生まれたものですが、その毒の湿地帯を、工業団地の造成のように再-人間化するものです。もちろん、これはテロルです。


※1
 もちろん、大いに「誇り」にすれば結構でしょう。「寛容さ」を掲げる唯一の効能とは、彼らの幻想的充足なわけですから。
 そして彼らは、彼らが「許し」た者からこそ、別の「寛容さ」という予想もしない(理解を越えた)暴力的反撃を受けることなるでしょう。例えば、「ポア」して救済してあげよう、といった<愛>によって。

※2
 いわゆる「境界例」や人格障害が高度資本主義と大変相性が良いのは、精神病院の待合室に行けばすぐわかります。それに比べ、伝統的な「神経症」や「パラノイア」はすっかり陰を潜めてしまいました。DSM的には既に「病名」ですらありません。
 わたしの友人でソーシャルワーカーをやっている方がいますが、たまに陽性症状の激しい統合失調症の患者さんが来て「妄想」を語ってくれたりすると「もっと聞かせてっ」と思うそうです(笑)。

関連記事:
「『イラク』スラヴォイ・ジジェク」
「『斜めから見る』スラヴォイ・ジジェク」
「寛容さと共存の何が問題なのか」
「寛容と理解を踏みにじれ」
「自由意志、自己決定、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」」
「ムッソリーニ、人種、自由」
「『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』 柄谷行人」
「サイボーグ・ファシズム」

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