前の記事< ish >次の記事
2007年06月06日

身体を信じることは身体感覚を信じることではない、物質を愛することは自然を愛することではない

はてなブックマークに追加  delicious_s.gif  このエントリをlivedoorクリップに追加

 「スラヴォイ・ジジェク『人権と国家』、寛容と自由」の最後で「物質」というタームに触れました。また「サイボーグ・ファシズム」では「サイボーグ・ファシストは物質を信じる」と書きました。後者ではとりわけ、「身体」が軸になっています。
 こうしたことから、「身体の自然な感覚」を重んじる、といった解釈が予期できます。しかし身体を信じることは身体感覚を信じることではありませんし、物質を愛することは自然を愛することではありません。
 混同しがちな問題なので、ここで整理しておきます。

 身体を基準とする、と言うと、例えばゲノム還元主義であるとか、「頭でごちゃごちゃ考えずに身体の信号に素直に従うんだよ」といった一部のスポーツ指導者のようなノリを連想される方がいるかもしれません。
 しかし上記の文脈で取り上げた「身体」とは、人間的小賢しさを越えた「<知>としての自然」ではありません。
 わたしたちは常にそうした<知>を想定しています。「個」を越えた<知>の想定なしには、そもそも「個-人」など成り立たない、と言って良いでしょう。要するに大文字の他者ということで、そうした「全体」「みんな」「世間」といった統合的<知>、「知っていると想定されるもの」があって初めて、人間は人間になります。「小賢しさを越えた自然」も、この系譜に属するイメージです。
 しかし、大文字の他者は存在しません。
 想定しながらも「本当のところそれほどアテにならないんじゃないかなぁ」というのが「健全な信仰者」、つまり「普通の人間(ほどほどの神経症者)」です。「身体感覚」を信じ、ほどほどに頭で考え、ほどほどに人を許し、ほどほどの距離を保つ。
 逆に言えば、人間たちは「自然」という統合的知性を、ほどほど程度には信じているものです。ほどほど程度だから、その「無さ」について思考する必要もなく、漫然と想定していられるのです。

 しかしまず第一に、「身体感覚」とはそもそも「感覚」であって、既に非-身体の側、イマジネールな領域のものです。そこにあるのは、「統合された身体像」という、既に人間化された世界におけるイメージにすぎません。そこやってくる「感覚」とは、既に象徴化され再編成されたものです。
 たとえば、わたしたちが「食欲」を感じるのは、身体が栄養を欲しているからでしょうか。もちろん、生命維持と無関係ではありません。しかし単に「目新しいものを食べる」や、文化的な味の好悪、摂食障害など、「感覚」自体が言語経済の一部として機能していることは明々白々です。
 ヨガの達人か何かなら「感覚」を透明化して宇宙の真理か何かを直接受信できるのかもしれませんが、そうした「向こう側にある統一的何か」自体が「人間的」幻想以外のなにものでもありません。
 「物質を信じる」とは、こうした感覚を信じることではありません。むしろ感覚などまったく信じないことです。
 「食べたい」だの「休みたい」だのといった感覚を、暴力的に無視することです。

 イメージすべき自然とは、「国敗れて山河あり」の「山河」のような乳臭い幻想(※1)ではなく、むしろ硫化水素の海、水銀の沼、といった非-生命的なものです。これらはまったく分断され、<知>を持ちません。
 そこに人間が読み込むべき<法>とは、「自然の摂理」といった暖かいものではなく、熱力学の法則のようなものです。これらは無秩序でどうしようもない「自然」を、人間的暴力によって支配しよう、という宅地造成的なものです。

 「サイボーグ・ファシズム」は「内面」を信じません。
 そんな安穏な時代はとうに終わりましたし、そもそも最初からありませんでした。「古き良き精神の世紀」とは、地上がニュータウン的に「近代化」された後で遡及的に捏造された幻想でしかありません。
 『人権と国家』にも以下のような下りがあります。

西洋の、または東洋の教えによれば、「自分の内側を見つめなさい」ということになります。とんでもない! そうすれば、ずたずたになった先人の思想に直面するだけです。

 ここでジジェクが言っているのは、「自分の内側を見つめなさい」という思想が現代においては無効である、ということではなく、「自分の内側」にあるのは「先人の思想」、つまり他者の語らいである、ということです。わたしたちの「内側」とは、わたしたちに語りかけてきたものの集積です。それはわたしたちがもの言えぬ時にかけられた言葉というだけでなく、既にここにいないもの、つまり死者の声までも含めたディスクールの掃き溜めでしかない、ということです。
 そこから「答え」を見つけようとすることは、一足飛びに宇宙の真理に到達することではなく、要するに「先人に学べ」という教訓を実行するのと何ら変わりがありません(だから、時に達人が発見する「宇宙の真理」とは、ただのおばあちゃんの知恵のことです。もちろん、おばあちゃんの知恵は結構役に立ちますけれど)。
 今日「内面」を主張したり、「ココロ」を重んじる語らいを展開するのは、PC的社会民主主義者という、新しいスタイルの匿名的略奪者です。「モノの時代からココロの時代へ」といったキャッチフレーズは、「持たざる者」を代表するそぶりを見せながら自身以外の何者も代表しないリベラルやフェミニストのレトリックです。
 「下流」が石原慎太郎を支持したり、歴史的ファシストが社会ダーウィニズムを信奉したのは、彼らが自らの代表というものを持ち得ないからです(※2)。「代表する」と嘯く伝統的サヨクは、ちっとも「代表」などしていないのです。代表者のいない者は、あらゆる代表者を上から抑圧する「支配者」に希望を抱きます(ボナパルティズム)。
 ココロは何も教えてくれません。おばあちゃんは死にました。

 「身体感覚」も「内面」も否定するなら、「物質を信じる」とは何のことでしょうか。
 それは「ココロ」や古き良き共同体、あるいは「連帯」などによって疎外を回復するのではなく、疎外の回復など一度完全に諦めてしまって、モノをモノのままプラモデルのように組み直すことです。
 疎外された「個人」が幻想的に「連帯」するのではなく、「個人」は「個人」のまま、あるいは「個」すらバラバラに切り離して、パーツにしてしまうことです。
 計器飛行により夜の空を飛ぶ孤独な操縦士をイメージして頂ければ、少しわかりやすいでしょうか。視覚=感覚を切り捨て、疎外され外在化された数値=計器を頼りに飛翔する、ということです。
 「感覚」を信じず、一方で目を閉ざし「内面」を見るのでもなく、数値化され非-人間化された部分だけを信頼する。ですから、「身体を信じる」と言ってもノスタルジックなものではまったくなく、むしろ原野を計測し再占領していく、ある意味極めて「人間的」な営為です。アフリカの国境線のように、身体を分割占領するのです。
 別の言い方をすれば、「これが人間だろ」と人間どもに突きつけ返すことです。

 学天則という「東洋初」のロボットがあります。
 西村真琴さんが1928年に制作し、大礼記念京都博覧会に出品したものです(レプリカが大阪市立科学館にあり、わたしも見に行ったことがあります)。
 西洋の「ロボット」がその名の通り工業的機能優先であったのに対し、学天則は動作の優美さを重視し<全知>を表わすようなものであった、と言います。
 荒俣宏さんによれば、この「ロボット」を作成した西村真琴さんの意図は、わたしたちのイメージする「ロボット」といより、サイボーグ的なものだったようです。
 この「サイボーグ」とは、身体を計器によってコントロールする人工人体です。身体の状態について数値的なフィードバックを受け、これを把握した上で統御する。わたしたちはしばしば「身体感覚」に騙されますが、人体に完全な計器を付けることができれば、「完全な身体制御」が可能になる、というイメージがあったようです。
 もちろん、そんな「サイボーグ」は不可能です。数値化の限界という以前に、仮に「完全な計器」を取り付けたところで、それを制御する「個」は全能ではないからです。
 しかし少なくとも、一度「感覚」を遮断し、身体を物質化してしまう、というところまでは非常に興味深いです。「サイボーグ・ファシズム」も身体を分解します。
 しかし「再統合」の場面で、別のことが起こるでしょう。「再統合」は宅地造成的な暴力です。それを行うのは資本によって「製造」された「個人」です。この「個人」は(みなさんご存知のように)<全知>どころかバラバラに分断され、見当違いの衝動に突き動かされているだけの器官です。
 このような「暴走的個人」により作られる宅地は、極めて資本主義的、資本主義以上に資本主義的なものになることでしょう。人間が作り出した人間によって、人間以上に人間的な「街」が作られるのです。
 この「ニュータウン」は、きっと人の住めない街です。
 サイボーグ・ファシストは、人の住めない<完全な街>を製造することで、人間たちから領土を奪還します。「理想の住家」を提供することで(多分近隣のマンションにポスティングしまくり)、人間たちから家を奪い、その主張と裏腹に守ってきたココロ的幻想共同体を破壊するのです。

 わたしたちは、物質を愛し、自然を憎む。
 なぜなら、その自然とは、人間たちが<わたし-たち>を「許す」ために作り出した信仰だからです。


『大東亜科学綺譚』 荒俣宏 『大東亜科学綺譚』 荒俣宏


※1
 「自分語り、解読されていない何か、山河」参照。

※2
 「優勝劣敗」という原則が有効なら、「負け犬」だった第一次大戦後ドイツは「自然法則」的に滅びる方が妥当でしょう。社会ダーウィニズムをナチスが主張することには、一見すると矛盾があります。そこにあるのは、「競争する複数の個」といった構図を全否定するような力への信奉です。
 本当に恐ろしいのは「負ける」ことではなく、実際には「勝敗」などというマンガ的決着がつくことなどない、ということです。「勝った気になる」という以前に、そもそも「勝敗」というモデル自体がファンタジーです。
 ナチスの主張したような(主張しているフリをした)社会ダーウィニズムはもちろん、こうした安いファンタジーの一つにすぎませんが、そうしたファンタジーが兎に角機能した、ということは故のないことではありません。そしてファンタジーの向こうに何かあるのかと言えば何もない以上、「ファンタジーを実行し解体する」運動を極限まですすめることにこそ、倫理的可能性が宿る、と考えられます。極めて暴力的でパラノイア的営みになることは、避けられないでしょうけれど。
 この点にご関心があれば、「ファンタジーとファシズム」を参照頂けると嬉しいです。
 ちなみに、優生学というとナチスがすぐ連想されますが、優生思想をもっとも長い間制度的に維持し、かつ今も残している国家はアメリカです。だからといって、別にアメリカのこのスタイルを否定する気はさらさらありませんが。

関連記事:
「サイボーグ・ファシズム」
「ムッソリーニ、人種、自由」
「寛容さと共存の何が問題なのか」
「寛容と理解を踏みにじれ」
「自由意志、自己決定、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」」

はてなブックマークに追加  delicious_s.gif  このエントリをlivedoorクリップに追加 FC2ブックマーク ニフティクリップ Yahoo!ブックマーク .

カテゴリ:ファシズム, 文学・思想 <この記事を気に入って頂けたら、同カテゴリの過去ログを参照してみてください
よろしければクリックしてください>人文blogランキング  ランキングオンライン にほんブログ村ブログランキング


身体を信じることは身体感覚を信じることではない、物質を愛することは自然を愛することではない

« スラヴォイ・ジジェク『人権と国家』、寛容と自由 | ish☆手作りスキンケア・サイボーグ | 改造中 »

コメント

サイン・インを確認しました、 . さん。コメントしてください。 (サイン・アウト)

(いままで、ここでコメントしたとがないときは、コメントを表示する前にこのウェブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)


情報を登録する?