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2007年06月17日

ドリトル先生と差別、なぜ多様性も「アイデンティティ」も無効なのか

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 長年、AFNと共にNHKラジオ「ビジネス英会話」のファンなのですが、その6月号テキスト掲載の上智大学講師ドミニク・チータムさんによるコラムで、衝撃的事実を知りました。

先日、ドリトル先生のことを尋ねる息子に説明していて、本を買ってみよう、ということになった。そして私たちはショックを受けた。ドリトル先生シリーズの英語版は、第一巻以外既に絶版になっている。

 チータム氏によると、ドリトル先生には今読むと人種差別的と受け止められる表現があり、それが絶版につながったのでは、とのこと。
 視界が暗くなるほどの怒りを覚えました。

 何が差別だ。お前らのやっていることこそ焚書坑儒ではないか。

 もしかすると英語版「ドリトル先生」が絶版になったのは、「差別」とは別の理由によるものなのかもしれません。ただ、「差別」を振り回す態度というのは、市民派やリベラル、一部フェミニストにまま見られることなので、「差別」一般に関することとして整理してみます。

 このような規制に対抗するものとして最初に登場するのが、「当時は普通の表現だった」「差別的意図(あるいは帝国主義的意図)を込めたものではない」という、「文脈による相対化論」です。
 大変わかりやすい反論ですから、戦術的有効性は認めるに吝かではないですが、どこか腰が引けています。本音は、実際「差別的意図」はあったかもしれず、「あぁ差別的だよ! でも面白いんだからいいじゃないか!」と言いたいところを、グッとこらえてオトナぶっているところがあります。「良識」を示すこと自体で、既に相手のルールに呑まれてしまっています。これこそ、PC的「お上品な抑圧」の思う壺です。

 「差別をなくす」とは、平等・等質性を実現することですが、等質となる先の「枠」は、常に「差別する(していた)」側によって用意されています。「寛容さ」が真綿で首を占めるような否認を生み出すように、暗黙的にスティグマの不可視化として働いてしまいます。<他者>を「被差別者」として取り込み、次いで「差別の撤廃」により完全に「無きもの」にするのは、ネーション・ステートによる帝国主義の常套手段です。
 もちろん、「差別」という形での問題の切り出しが戦術的に有効な局面はあるでしょう。「等質化」されることも、必ずしも不利益を生むとは限りません。当事者が自らの名においてこれを選択するなら、「差別」は彼・彼女らのカラシニコフとなるでしょう。
 しかし今日この語を振りかざしている者の多くは、既に等質化による権益を獲得した体制か、あるいは「被差別者」を代表する素振りを見せながら、その実自身以外の何者も代表していない「リベラル」たちです。彼・彼女らの「差別」は巡航ミサイルでしかありません。
 「差別」が有効な抵抗の道具であった時代から、「管理」と抑圧のシステムは遥かに洗練されています。かつて「左派」と呼ばれていた者たちは、「害のない反-体制」として体制化され、PC的な「お上品な抑圧」の担い手となっています(これは外山恒一さんがまったく新しい左右対立等で指摘されていることでもあります)。
 リアルな「差別」の現場にいる者の多くは、もう彼らを信じていません。代表を持たない者は、すべての「代表者」たちを抑圧する「支配者」を望みます。

 しかし一方で、「差別の撤廃」を自ら拒み「アイデンティティ」を称揚する、という戦略も有効とは言いがたいです。「差別撤廃」と同じく、「アイデンティティ」も戦術的効果を持つ場合はあります(あった)。しかし同一性identityとはそもそも同一化identificationの過程、正確にはidentificationの失敗です。わたしたちは自分が「何者か」など知りません(※1)。ただ「何者として呼び出されたのか」を虚空に尋ね、「何者か」であろうとし、そして成り損なう(予想外の名が墓標に刻まれる)のです。
 今日「アイデンティティ」などという大衆向けの武器を取ることは、単にわかりやすいレッテルを提供し、体よく分類されてしまう結果しか招きません。もちろん、「分類されてしまう」ことは(商業的)有効性を持ちますから、計算尽くで利用するのも一手段ですが、より強力な武器を取りたいなら、identificaitonの失敗を言説化する、つまり「不可能な現実を象徴的に包囲する」必要があります。

 「アイデンティティ」でも「差別撤廃」でもないもの、これを具体的に示すことは困難ですが、一つ可能性として挙げられるのは「潜伏」という様式です。これは「差別撤廃」に抗って「アイデンティティ」を示すのでも、「差別撤廃」と「寛容」の恩恵により「受け入れてもらう」のでもなく、むしろこちらから積極的に彼・彼女らの中に紛れ込み、「受け入れてやる」判断を下す契機を奪ってしまうことです。「差別する」対象(あるいは「アイデンティティ」を振りかざすヘンな人たち)として括り出すチャンスも与えないのです。
 「潜伏者」に求められるのは、「たとえ自分に課した高度の要求を果たせなくとも、他人より自分にきびしい要求を課す」オルテガ的エリート意識です(※2)。紛れ込みながらも交わることなく、常に躊躇なく原住民どもを切り刻めるよう、高いタスクを自らに課し続けなければなりません。
 わたしは一時期、就労上等で割とわかりやすい「差別」を受ける立場にありましたが、その後「人間たち」を模倣することで、安全と優位を確保しています。お陰でにこやかに「寛容さ」を示す者たちの背後に回り、トリガーに指をかけるところまで来ることができました。
 もちろん、容易に引き金を引くことはできませんし、するつもりもありません。背後にはまだ「ニコニコした人たち」が沢山いますし、前の人々のさらに前には、弾丸の巻き添えを食ってしまいかねない「同胞」がいるからです。しかしこれは、単に浪花節的同胞意識を盛り上げているのではありません。この同胞意識こそ幻想です。そして「潜伏」には、遡及的に幻想共同体を立ち上げ、失敗を運命付けられたidentificationを宙吊りにする効果があります。
 「敵」と「同胞」などという図式はいかにもマンガ的で、世の中はそんな簡単に線を引けるものではありません。そんなファンタジーがとにかく成り立つのは、ある意味、「敵」の方が「同胞」の盾となってくれているからです。この盾とは、<わたし>と「同胞」との<出会い>を阻んでいるものです。つまりidentificationを宙吊りにし、達成されないが故に幻想のidentityとして機能させるものです。「同胞」は、出会ってみればちっとも「仲間」などではないのものです。
 「約束の地」は大抵美しいものではありませんし、ミニスカートの下に幻想のファルスがあることもありません。「アイデンティティ」でも「差別撤廃」でもないものとは、この諦念の元に模索された以上、「潜伏」に解放はありません。再会の日など永遠に来ないことでしょう。
 現実界とは不可能なものであり、ファンタジーの向こう側に直接到達することは出来ません。しかし不可能性を象徴的に包囲することは可能です。「潜伏」もまたファンタジーに他なりませんが、欠如を織り込んだファンタジー、達成不可能性自体によって成立するファンタジーです。「潜伏」とは、「アイデンティティ」と「差別撤廃」が相反するようでありながら共に目標として詐称する同一性の達成を、無効化するものです。

 大分話がズレましたが、強引にドリトル先生に話を戻すと、「差別表現」という攻撃に対して「表現の自由」を立てる、というスタイルでは、まったく釈迦の掌です。そんなショボい「割り当てられた自由」などにしがみついているから、ババァリベラルに丸め込まれるのです。
 「表現の自由」を訴える論が、まるで「不自由な表現」に縛られている、という状況がまま見られます。「外山恒一&松本哉イベント@ネイキッドロフト」で書きましたが、「表現の自由」を言うなら「自由な表現」をパフォーマティヴに実践しなければなりません。ここでの「自由」とは、「自由」として括り出されることもない「自由」です。「自由」などと言葉にしてしまった途端、提供されるオプションから選択する「自由気分」に堕してしまいます。「<それ>から自由になれないもの」として自由が実践された時のみ、つまり当為としての自由のみが、不可能性としての唯一の自由なのです。

 「差別ではない」「差別ではなく、多様性」いずれも無効であるなら、真にラディカルな回答とは何なのでしょうか。
 端的に言えば、「差別です」と答えてしまうことです。
 これは、ジジェクが「それは原理主義ではないのか」との非難を、一度「然り」と受け止めてしまえ、とういうのに等しいです。
 もちろん、これだけではエサを撒いているだけなので、その後の戦術を考えないといけません。一つは「差別です、すいません、改めます」と答え、過剰に改めてしまうことです。この方法の最も成功した例に、高橋源一郎の『ジョン・レノン対火星人』があります。

金・銀・さんご・あや・にしきのスパンコールをつけた片方の足が他の足に較べて短いので円滑な歩行が困難なモデルや口のきけないモデルや両手あるいは片手が欠けているモデルや足の筋肉が衰えて、自力で歩行することが困難なモデルや鼻が欠けているモデルがイルミネーションで輝く車椅子や松葉杖と共に出現した。

 これはこれで大変美しい方策なのですが、どこか軟弱というか、苦渋の選択、という印象は否定し切れません。理想としては、「差別です」と答え、なおかつ一切改めたくありません。ただ、これだけではわかりやすい「対立軸」に回収されてしまいますので、「差別です」という回答すらせず、とめどなく表現を垂れ流してしまうのがベターです。この「とめどなく」は、「否応もなく」ということで、つまり自由が不自由性として課せられている、ということです。

 「差別される側」と「差別する側(差別表現として告発される側)」は、一見対立しているようですが、この対置図式そのものが「差別」という切り出しによって状況をまとめた人々による演出に他なりません。
 ですから、いずれの場所から反撃するにせよ、土俵そのものを無視し、ブルドーザーの如く打ち砕いていかなければなりません。それは「自由」を謳うことではなく、義務としての自由にうっかり殉じてしまう、ということです。

『ドリトル先生航海記』 ヒュー・ロフティング 井伏鱒二 『ドリトル先生航海記』 ヒュー・ロフティング 井伏鱒二


※1
「自由意志、自己決定、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」」参照。

※2
オルテガについて否定的なことを書きましたが、エリート意識については学ぶところが大きいと考えています。「オルテガ『大衆の反逆』、空地、国家」参照。

関連記事:
「寛容さと共存の何が問題なのか」
「自由意志、自己決定、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」」
「サイボーグ・ファシズム」
「「人間のフリをする人間」」
「強迫行動、コンラート・ローレンツ、ドリトル先生」

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