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2007年06月21日

『ラカンと政治的なもの』 ヤニス・スタヴラカキス

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『ラカンと政治的なもの』 ヤニススタヴラカキス YannisStavrakakis 有賀誠 『ラカンと政治的なもの』 ヤニス・スタヴラカキス

 隠れた名著発見かもしれません。
 「ラカンと政治的なもの」と、キャッチーな素材でありながら、それほど読まれている本ではないと思います。
 いかにもジジェク的内容を予想させますし、実際帯にはジジェクとラクラウの推薦文があり、両者からの強い影響が見受けられます。しかし論調にはジジェク的アクロバティックさはなく、実に堅実。著者はギリシア人ですが、イギリスで教育を受けた人らしく、英米系ラカン研究者的な落ち着いたトーンです。
 ジジェクの血沸き肉踊るテクストも素晴らしいのですが、ラカンと「政治」についてもう少し平明に整理してくれているものはないか、とお探しの方にはぴったりでしょう。

 前半二章「ラカン的主体」「ラカン的対象」は、ほとんど「ラカン入門」。平易にラカンの基本概念を整理しています。
 第三章「政治的なものを包囲する」以降で、前半の整理を踏まえて、ラカン理論と「政治的なもの」the politicalという概念の関係が展開されていきます。
 個人的関心を追う上でも非常に有用なテクストでしたので、まずはスタヴラカキスの議論を追う形で概観してみます。その上で、応用やいくつかの反論を別記事として立てたいと思います。

 まず、同一性identityと同一化identificationについて理解する必要があります。狭義の「政治」とは、何らかのイデオロギー・政治信条にidentifyすることだからです。もちろん、「政治」にはidentityを巡る様々なダイナミズムが関与します。しかしidentity概念抜きでの政治性とは、個人のレヴェルでも集団のレヴェルでも、少なくとも一般的ではありません。
 しかしidentityとは、本性において不可能なものです。
 なぜなら、まず第一に、主体は想像的な水準で疎外されています。ラカンの最も古い理論でもある鏡像段階論において、幼児は鏡像の中に「統合された身体像」を発見しますが、像とは他我であり、統合の悦びはそれ自体の内に既にズレを孕んでいます。
 第二に、何よりも主体は象徴的水準において疎外されています。象徴界への参入とは、主体が一つの死として、言語経済を流通する貨幣となることだからです。
 従って、同一性は不可能な同一性、同一化の失敗という地点から思考する必要があります。

主体が追求する完全な同一性は、想像的レヴェルにおいても、象徴的レヴェルにおいても不可能である。(・・・)同一性は、失敗した同一性としてのみ可能である。同一性が欲望可能なものであり続けているのは、まさにそれが本質的に不可能だからである。(・・・)われわれがもちうるのは、同一性ではなく、同一化―一連の失敗した同一化であるか、あるいはむしろ、同一化とその失敗の間の戯れ、すなわち深く政治的な戯れ―なのである。
あらゆる(究極的には不可能である)同一性の構成は、例えば、イデオロギーのような社会的に有効なavailable言説的構築物との同一化という過程を通じてのみ、試みることができる

 では、言説的構築物、大文字の他者との同一化により、主体の同一性は達成されるのでしょうか。これもまた、失敗の約束された同一化です。なぜなら、大文字の他者がそれ自体として「在る」ことはないからです。<他者>は想定されますが、全体としての<他者>は存在しません。

<他者>のなかには、何かが失われている。<他者>の<他者>は存在しない。
主体の完全な構成を保証してくれる完全な<他者>は不在なのだから、主体は抹消された主体でしかありえない(・・・)充足を、失われて(禁止されて)はいるが、原理的に可能なものとして―言い換えれば欲望しうるものとして―措定しているのは、主体が抹消されているという事実なのである。

 大文字の他者が存在せず、いかなる同一性も不可能なのだとしたら、わたしたちの現実性reality、一般に「現実」としてわたしたちがイメージしている全体性とは、いかにして成り立つのでしょうか。
 現実性を支えるのは幻想です。そして対象こそが、幻想の構築される結節点となるものです。対象とは、欲望の原因=対象であり、<他者>の欠如それ自体に成り代わるものです。

<他者>の失敗の地点に現れる<対象a>は、このような<他者>の欠如だけでなく、その充足の約束も体現しており(・・・)まさしく、欲望と享楽をつなぐものである。(・・・)欲望は、欲望の再生産それ自体を目指す(・・・)欲望は、われわれを享楽から引き離しておく。

 享楽jouissanceとはモノであること、つまり「全体的であるが、不可能な何か」です。一方、欲望désireはこの不可能性に向かいながら決して到達せず、それゆえにこそ再生産され続ける。対象は「禁じられた充足としての不可能な享楽を体現することによって、欲望に何らかの整合性を与える」ことにより、両者をつなぎ、欲望を駆動します。

幻想の対象は、二重の地位をもっている。主体に欠如しているのは対象であり、主体の欠如を充たすのも対象である。 (Soler,C "The Subject and the Other")

 つまり、全体としての<他者>は欠如しており、同一性は不可能ですが、一方で幻想の対象が欠如を埋めるかのように主体の前に現れる。この対象は主体に欠如している以上、主体が対象を「獲得」し全的充溢を得ることはありませんが、対象=原因により駆動される欲望により、幻想としての現実性、全体性の幻想が成立する、ということです。

 もう一点、幻想による現実性realityの成立における、症候の位置について触れておく必要があります。

症候は、抑圧された享楽―調和に満ちた象徴化から排除された自然の不安定部分―を体現することによって、われわれの現実性―同一化の対象―の構築という領野の整合性の介入する。(・・・)幻想が「われわれが現実性と呼んでいるものに整合性を与えている支え」であるとすれば、(・・・)現実性は、つねに一つの症候である。(・・・)幻想は、それが症候に対抗するものであるがゆえに、言説に整合性を与える。(・・・)幻想における現実界の否認は、症候に対抗し、スティグマ化することによってのみ可能になる。(・・・)幻想的な調和は、症候と現実界の否認によってのみ(・・・)維持することができる。

 つまり、幻想は全体としての現実性という「調和ある世界」を成立させますが、そこにはスティグマ化され、否認されたものがある。それが症候であり、<他者>における不調和、「あってはならないもの」です。

 このような「幻想としての現実性理解」は、単に現実性が社会構築的で相対的なものに過ぎない、ということではありません。そうした不毛な相対主義は、一部のナイーヴな社会構築主義フェミニズム等に見られるものですが、スタヴラカキスは正確にその危険を指摘しています。

構築主義が、社会的に構築された世界は、現実界の全体を包摂しており、社会的構築の外側には何も存在しないと信じるようになった場合には、ある種の本質主義が構築主義の議論を汚染し始めるようになる。というのも、構築が、われわれの世界の本質―社会的構築主義が知っていると主張する本質―という構造上の位置を得るからである。
構築主義の盲点は、一方で、あらゆるものを構築のレヴェルに還元していながら、他方で、自分自身は、構築の外のメタ言語的、本質主義的立場を占めているということである。

 この矛盾を越えるためには、構築の外部にあり構築を駆動するものを想定せざるを得ません。しかしそれを実定的な何かとして措定してまっては、本質主義のトラップに嵌ることになります。ラカンにおける現実的なものの概念は、その外部を、それ自体として指すのではなく、象徴界の内在的限界と示すことにより、メタ言語の罠を抜けようとするものです。

現実界とは、外部の現実性の究極的な指示対象ではなく、外部の(象徴的な)現実性の中立的な表象を遅延させる限界である。(・・・)現実界は、それ自体として象徴化することはできないが、象徴化しようとするあらゆる試みの失敗において示されるのである。(スラヴォイ・ジジェク『幻想の感染』


 以上のような主体と対象、幻想と症候の関係を前提とし、「政治的なもの」について考えてみましょう。
 スタヴラカキスの基本的な枠組みは、「政治politicsと政治的なものthe political」を「現実性realityと現実的なものthe political」のパラフレーズとして解読する、というものです。

政治は、政治的現実性と同一であるのだが、あらゆる現実性がそうであるように、政治的現実性は、第一に象徴的レヴェルで構成されており、第二に幻想によって支えられている。

 つまり、政治が政治的なものを覆いつくせず、その全体性を幻想に負っている、という点から、いわゆる「政治」およびイデオロギーの限界と可能性を模索しよう、というプロジェクトです。
 現実性realityが現実的なものthe politicalの抑圧に拠るように、政治的現実性とは、政治的なものの象徴化の試みであり、政治的なものの抑圧を前提としています。全体としての<他者>が存在しない(<他者>の<他者>は存在しない)ように、社会は存在せず、調和としての社会的全体性とは、幻想に他なりません。そして「象徴化過程を繰り返し導入し、この現実の異なった象徴化の間につねに現れるヘゲモニーを巡る争いを引き起こしているのは、現実界の遭遇としての政治的なものというトラウマ的契機」です。

どのような社会的幻想も、社会がつねにそれを中心に構造化されている欠如を充足することはできない
政治的なものは、現実的なものそれ自体ではなく、われわれの経験が現実界と遭遇する様態のひとつである。それは、この遭遇が、社会的-客観的レヴェルにおいて採る支配的な形態なのである。(・・・)政治的なものは、ある社会的-政治的同一化の混乱と新たな同一化への欲望と創造との間のギャップを印付けている偶然性や決定不可能性に結びついている。

 それでは、政治とは端的に政治的なものの抑圧であり、政治的制度は幻想以上のものであり得ないのでしょうか。

現実的なものの還元不可能性に直面した場合、われわれは、それを象徴化する以外の選択肢を持っていない。とはいえ、そのような象徴化は、少なくとも二つの形態を採りうる。第一は、現実界を抑圧し、その構造的因果性を根こそぎ除去しようと試みる幻想的な形態である。精神分析が支持するのは、第二のより複雑な形態―すなわち、象徴界がもっている現実の限界の認識を含み、現実の欠如の象徴的な「制度化」を試みるような象徴的構築の文節化―である。

 すなわち、スタヴラカキスが試みようとしているのは、政治的なものの不可能性を認識し、かつその不可能性を象徴化(政治化)しようとする試みの失敗を通じて認識する、という道です。
 「幻想的形態」の例として、スタヴラカキスはユートピア論を挙げます。ここで言うユートピアとは、必ずしも「完全なる社会」という狭義の意味ではなく、一般的な政治イデオロギー・政治目標が掲げる「より良い社会」的ファンタジー全般を視野に入れたものです。
 このような「ユートピア」、言わば「社会が存在する」という主張は、常にスケープゴートを必要とします。

ユートピアが暴力の駆逐や抑圧に基礎を置いているとすれば(・・・)それは、ひとえにユートピアがそれ自身の創造を暴力に負っているからである。

 スティグマ化されるスケープゴートとは、わかりやすい例ではナチスにおけるユダヤ人ですが、それは<他者>における欠如としての否認された症候です。
 しかし一方で、ユートピア的なるものの全否定、その不可能性の受け入れには、現存する社会的-イデオロギー的秩序を手放しに正当化してしまう、という危険性が予期できます。ユートピア的イメージとの同一化ではない、希望の政治的プロジェクトとは何でしょうか。スタヴラカキスはそれを「ゴールに到達することの不可能性の受け入れを伴った同一化であり、語のラカン的な意味における症候との同一化」としています。
 つまり、全体としての<他者>への同一化ではなく、<他者>における欠如、<他者>の<他者>という不可能性への同一化identificationという、失敗を約束された同一性identityです。
 <他者>への同一化と<他者>の不可能性への同一化は、厳密に峻別される必要があります。ナイーヴに「寛容」「多様性」「共存」といった美辞麗句を並べる政治的プロジェクトは、往々にして<他者>の受け入れを提唱します。しかし<他者>とは本質的に交通不可能なものであり、「<他者>の受け入れ」とは、<他者>の他者性を踏みにじり、言わば死者の意を捏造することに他なりません。<他者>の不可能性との同一化とは、他者を「理解」することではなく、理解の不可能性を受け入れることです。
 しかしそれは、あらゆる交通の試みの放棄を意味するわけではありません。むしろ交通不可能であるからこそ、交通の試みは「欲望せよ」という倫理に叶うものです。

コミュニケイションがつねに失敗するということから出発する。さらに言えば、コミュニケイションは失敗しなければならない。また、それが、われわれが話し続ける理由なのである。もしわれわれがお互いを理解したならば、われわれは、皆、沈黙したままだろう。まったく幸運なことに、われわれはお互いを理解していないので、話し続けるのである。(Verhaeghe.P "From Impossibility to Inability : Lacan's Theory of the Four Discourses")

 スタヴラカキスは、このような「政治的」目標をラディカル・デモクラシーという形で提示しようとします。
民主主義は、何らかの実体的、根本的、規準的原理によって基礎付けられたり、嚮導されるものではないのである。反対に、民主主義は、そのような原理は真に普遍的であると主張しえないという事実―どのような象徴的な社会的構築も決して不可能な現実を支配していると主張しえないという事実―の認識に基づいている。

 スタヴラカキスの民主主義とは、「権力の座を空白にすること」であり、統一性をアプリオリに想定するのではなく、政治的なヘゲモニー闘争の結果としての統一性のみを認めるものです。つまり「思想」として、ある種の「ユートピア」として掲げられる「民主主義」ではなく、結果としての「民主主義」です。
 そのために必要なのが、正に症候との同一化、<他者>の不可能を織り込むことです。症候とは、「それがなければユートピア的理想に基づいて調和的に統合された社会に不調和を導入するイデオロギー的思考」です。つまり「調和ある社会」の成立を邪魔している、と想定されるものです。
 しかしながら、不調和は症候に由来するわけではありません。端的に調和は不可能なのであり、社会は存在しません。症候に不調和の「原因」を帰すことは、スティグマ化と引き換えに幻想を維持しようとする試みに他なりません。不調和は初めからあったのであり、むしろ症候こそが<わたし>なのです。
 すると、ラディカル・デモクラシーに必要なのは、むしろ出来合いの制度としての「民主主義」の不可能性、あらゆる政治制度の限界を可視化すること、ということになります。スタヴラカキスは、構成的欠如の可視化と構造の偶然的性質を維持するための条件として、ラクラウのシェーマをひきます。

第一に、異なった政治的プロジェクト―この欠如を充足すると主張する異なった内容(・・・)―の間の(外在的な)紛争を可視化すること。そして第二に、そうしたプロジェクトのそれぞれを印付けている(内在的な)裂け目―(普遍的な)充足の見本としての機能とその具体的な(特定の)内容との間の裂け目を可視化―すること。

 ラディカル・デモクラシーは、こうして政治的現実性の停止自体を包摂し、制度化しなければなりません。スタヴラカキスはまた、そうした「現実界の噴出」として、ジジェクが選挙を挙げていることをひきます。選挙において、社会関係のネットワークは一時停止され、原始的個人の偶然的集合に変換されます。そしてスキャンダルといった、まったく「政治的」でない偶然的要素によって、非合理性が導入される、と言います。
 スタヴラカキスの「民主主義」は、純粋なものとしては「存在しない」ものです。

民主主義が、あらゆる種類の操作や堕落、デマゴギーの支配といったものを可能にすることは、事実である。とはいえ、われわれがそのような歪みの可能性を排除してしまうや否や、われわれは民主主義それ自体を失うことになる。もしわれわれが、それらの歪みを取り去り、完全な純粋性に置いて<全体>を把握しようと望むのならば、われわれはまさしくその反対物を手にすることになろう。いわゆる「真の民主主義」とは、まさに非民主主義の別名なのである。(スラヴォイ・ジジェク『イデオロギーの崇高な対象』

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