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2007年07月26日

mixiと女社会と「泥の文明」

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 べにぢょのらぶこーるさんの「やっと分かったよ!ミクシィが”気持ち悪い”理由!!」が注目を浴びていますね。

答えは、”女社会だから。”
もっと正確に表現すると、”女の子社会だから。”
(・・・)
女の子は群れるのが好き。無所属では不安な生き物なのです。
ミクシィがこれだけ流行ったのは、女の子的な男性、あるいは女の子的な空気に抵抗がない男性が増えてきているということかもしれませんね。

 mixiについてはずっと前に「mixi疲れと友達の友達」というエントリを立てたのですが、脱会(敢えて「脱会」と書きたい)して以来、すっかり関心の外になっていました。
 わたしの数少ない友人は、既にほとんどが脱会済み。そのうち一人再入会した子がいますが、水商売バイトの営業用アカウントです。要するに少ない友達のほぼすべてが「友達いない単独者タイプ」ということですね(笑)。「「めちゃモテ」と世界最強」でも書きましたが、もうホント、ああいう虫どもは鬱陶しいです。
 面白いのは、当事者たちでも、少なくない割合の人々が「鬱陶しいよねぇ~」と感じていて、特定の場ではそのこと自体を愚痴っている、ということです。この愚痴がまたウザい
 とはいえ、そうやってほどほどにガス抜きしながら致命的衝突や孤立を避けるのは、女子サバイバル一ヶ条ですから、あながち馬鹿にはできないのですけれど。
 ちなみに、最近のわたしは既に解脱領域で、笑えるほど完全孤立しています(基本男職場ですが)。むしろ積極的に孤立していて気持ちよいくらいです。別に仲間がいなくても、力で制圧する自信がありますし、自信がなくてもあるフリをして力で突き進む道こそ侠気、と信じています。
 喧嘩十段で有名な芦原先生が、確か「前後左右四人同時に相手にできたら、あとは何人いても一緒だ」といったことを仰っていたと思うのですが、平均的日本女子相手なら四人くらい何とかなるでしょう(※1)。
 いや、別に物理的戦闘を構える必要は全然ない、というか構えた時点で社会的に敗北ですけれど。

 興味深いのは、べにぢょさんのエントリそのものはもとより、「女社会だから」とのべにぢょさんの指摘が(とりわけギーク色の強いはてな等で)注目されている、という状況です。要するに殿方たちは、こんな明々白々たる事実すら独自バリアで弾いていた、ということでしょう。
 ただ「女社会」というなら、この国の社会全体がイマジネールで「女社会」的です。
 せっかくべにぢょさんが明瞭かつ分かりやすく書いてくれているものを、ish風にパラフレイズしてしまえば、「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害」で書いた通り、この国の風土自体が「国敗れて山河あり」的に「最後に残る母なる自然」を暗黙的に信じるものであり、「文化」なる「あいだ」の領域を重んじる「泥の文明」に依拠しています。それは、外側にエネルギーを開放していく(侵略する)のではなく、限られた領域の中で集約的に質を高めることで生産力の底上げを図る文明です。翻せば、ドミノ倒しのように緻密に並べられたユニットを崩すことは最大の禁忌になるわけで、正に「女社会」そのものです。
 mixiが「女社会」ここまで煮詰められたのは、mixi自体が「閉じて」いることを前面に押し出したシステムだったからでしょう。怪物的にメジャー化した現在では一概に「閉じて」いるとも言い切れないのですが、少なくともmixiの軸的コンセプトの一つは、その「(良き)閉鎖性」にあったはずです。それが30cm間隔でピッチリ田植えする百姓スピリットに見事に呼応し、エスカレートしていった、と推測できます(同様の現象は、日本に限らず東アジア周縁諸国全般で起こりうる。ただし「中華」中国は少し別格)。

 この国の左翼言説が常にどこか空回り的なのは、彼・彼女らが「父の打倒」を謳っているからです。
 もちろん、「父の打倒」が状況を動かすことはありますし、この種の言説が有効な場というのも存在します。しかし、そもそも倒すべき父すらおぼつかないような里山で「反権力」などと言ったところで、それこそ沼に礫を投げ込んでいるようなものです。面白いことに、この国には「父殺し」の神話も見当たらない(正確にはあるのかもしれませんが、少なくとも文化的基調低音として響くことはない)。
 ですから、殺さなければならないのは、父ではなく母です。
 プロ-セックス(中絶容認)でもプロ-ライフ(中絶反対)でもなく、妊婦丸ごと爆殺する圧倒的テロルこそが革命の必須条件です。
 プロ-セックス/プロ-ライフという議論が欧米で形を成すのは、そもそもライフやボディが父的-象徴的秩序の元に管理されている、という想定があるからです。もちろん、究極の管理者たる大文字の他者は実体としては不在なのですが、その想定と解体、という運動があるのです。
 しかし象徴的介入が不十分な状況では、対立軸(議論-父)よりもライフやセックスそのものが力を持ってしまう。そして、百姓どもはライフやセックスが大好きなので、大勢が勝手に覆ることなど今後千年あり得ないでしょう。

 幸いなことに都市化・孤立化し、かつ「石の文明」にも回収してもらえなかった「永遠の外国人」は増加傾向にあります。依然圧倒的少数ではありますが、まぁ四人倒せれば後は何人いても一緒だそうですから、気合と侠気で前歯の五六本くらいは奪えるのではないでしょうかね。
 「サイボーグ・ファシズム」のラストで使わせて頂いた言葉を、もう一度引用しておきます。

『われわれが強いのは、友人がいないからである』
ベニート・アミルカレ・アンドレア・ムッソリーニ

『砂の文明・石の文明・泥の文明』 松本健一 『砂の文明・石の文明・泥の文明』 松本健一

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※1
 実際には四対一というのは想像以上に大変です。こんなことがサラリと言えるのは、ひとえに芦原先生が神だからでしょう。
 一対一でも死ぬ気で頑張らなきゃならないのに、二人三人と増えて楽に制圧できるわけがありません。若かりし頃に自主練で二人掛け実験組み手をやったことがありますが(無謀)、ヨーイドンでやったら、余程の実力差がない限りまず勝てません。スパーリング的に「倒さないように」やろうとしたら、勝機ゼロです。
 ですから、「ヨーイドン」は絶対ダメで、とにかく先手を出して、一番強そうなのから一撃で戦闘能力を奪わない限り、多人数掛けなど不可能だと思います。革命もたぶん一緒です。

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