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2007年07月01日

「めちゃモテ」と世界最強

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 内田樹さんの「めちゃモテ日本」というエントリが、ちょっと前に注目を浴びていました。

 弱者が生き残る道はあまり多くない。論理的に導かれる回答は二つしかない。 一、「強い個人の庇護下にはいる」。  いわゆる「玉の輿狙い」戦略だが、「乗ったつもりの玉の輿」の意外な信頼性の低さに人々は気づき始めている。JJが退けられ、CanCamが選ばれたのは、「玉の輿」戦略のリスクの高さがしだいに知られてきたからであろう。 二、「周囲のみんなからちょっとずつ愛される」  結果的に選ばれたのが、このCanCam的「めちゃモテ」戦略である。みんなに愛される、ラブリーな女の子になること。若い人々はさしあたりもっとも有利なオプションとしてこの方向を採択した。

 なるほど、合理的です。
 大変納得できました。だからわたしは友達がいないんですね。友達いなくて本当に良かったです。

 この議論でストンと抜け落ちているように見えるのは、「ラブリー」戦略者たち間の相互作用です。
 「ラブリー」たち(国民性の話へとパラフレイズされる前の、具体的な女の子たちのこと)は、互いの「ラブリー」を巡って、ものすごい熾烈な牽制と「抜きがけの好機を図る」計算をやりあっています(これは現代に限らず、女子の伝統でしょう)。殿方の視線からでは目に映らないようですが。
 「周囲のみんなからちょっとずつ愛され」れば丸く収まりそうですが、同じ戦略を取る人間が複数いた場合(実際虫のように大量にいる)、核心になるのは「ラブリー対象」に対する「ラブリー」より、むしろ「ラブリー者」に対する「ラブリー」です。「ラブリー対象」に対しては単純に愛想を振りまいていれば結構ですが、「ラブリー者」に敵を作らないようにしようとすると、そう単純にはいきません。むしろ愛想が良すぎることで「出る釘が打たれ」て、ラブリー戦略全体が破綻をきたすこともあります。
 こちらが核心だというのは、為替相場におけるファンダメンタルズを想起すれば自明でしょう。ファンダメンタルズの相場への作用において、「企業価値の反映」とは遡及的に想定される「原-原理」にすぎず、実体は「企業価値の反映」自体を巡る思惑の交錯にあります。

 この「ラブリー者」同士の「ラブリー」模様は、大変醜い。ちっとも「ラブリー」ではありません。
 彼女たちの「ラブリー」は人事のオヤジには通用するかもしれないですが、少なくともわたしにはちっとも通じない。もちろん、わたしに「ラブリー」を振りまいても一円にもならないから非ラブリーにしているだけで、この辺も誠に合理的なのですが、そういう合理性を見習いたいという気持ちより醜悪ぶりに対する憎悪の方が一万倍強いので、仲間にもならないし、愛さない。
 こういう「ラブリー憎悪女子」的ポジションにいるのは世界中でわたし一人なわけではなく、似たような人もいるわけで、ここにもまた「ラブリー憎悪」と「ラブリー」の複雑な相互作用というのが生まれます。内田先生はいつもスパンッと切るようなロジックで明快にお話されるのですが、切り分けに収まらなかった部分が切り分けた部分に対して持つフィードバック作用について、少し疎かにし過ぎている気がします。
 もちろん、この「ラブリー」論は日本の生き残り戦略が主題なわけで、女子的微細に立ち入る必要はないのですが、国家にしたところで一枚岩なわけではありませんし、一億総ラブリーになったとしても同様の戦略を他国が取れば、やはり「ラブリー相互作用」が生じます。それがこのテクストの眼目にないのはよくわかるのですが、サラッと流して話をまとめてよいほど瑣事ではないはずです。

 また「二つの選択肢」とされていますが、選択肢はもう一つあります。
 弱者がド根性で強者になることです。
 要するに上の議論というのは「弱者が弱者のまま生き延びるには」というお話で、「強者/弱者」という少年マンガのような図式と固定的関係が暗黙的に前提にされています。もちろん、こうして模式図を仮に切ってみるからこそ思考が進められるのであって、ご本人は了解の上で敢えて捨象しているのでしょうが、少なからぬ読者が話の本論以上に模式的理解の方を刷り込まれてしまうように感じます。
 ちなみに、女子ネタにまた引っ張るなら、「ラブリー憎悪」組はしばしば実際にド根性を見せます。もちろん「世界最強」になれるわけではないですから、依然として一定の愛想は使うのですが、同時にオヤジにもわかるような「壁」と殺気を用意します。
 壁とは、「あんまり愛されないようにする壁」ですが、この壁が機能するのはオヤジに対してといより「ラブリー」どもに対してです。女子はオヤジの一億倍は愛想と「壁」に鋭いですから、「コイツは何か戦略が違う、マトモに戦おうとしているバカだ」ということがすぐ伝わります。すると逆に「ラブリー」からの攻撃をかわすことができて、戦線を一面に集中することができます。独ソ不可侵条約のようなものです。

 闇雲に「強者」を目指すのはただの無謀ですし、「採集民のススメ」でも書きましたが、「ほどほどに緩く生きていく」のは実はサバイバル的にかなり有効だと思っています。もしかすると、内田先生が「めちゃモテ」で言いたいのは、同じことをマッチョな立場から読み直したものなのかもしれません(彼がマッチョではないとは言わせないし、マッチョで大いに結構だと思う)。
 一方、人の口から「ちょっとずつ愛される」などと出てくるとついムキーッと反応してしまい、かつ実際の社会生活でもちっともそういう生き方ができていない。
 要するにガキということですが、ガキな人間というのは大体一生ガキなもので、しかも人口の一定の割合は常に「ガキ的性格」者によって占められているわけですから、コイツらのもたらすフィードバックもバカにならないはず、と自己弁護して〆ておきます。

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