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2007年07月02日

遅かれ早かれ破滅でも、遅いか早いかは大問題、しかし問題のすべてではない

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 「めちゃモテと世界最強」を書いていてる時、「遅かれ早かれ」ということが頭をよぎっていました。
 どういうことかというと、ラブリー憎悪のあまり「遅かれ早かれわたしたちには究極の敗北=死が待っているのだ、ならば世界最強を目指して死す方が美しいではないかっ!」という「強者/弱者」以上にマンガ的な発想が湧き上がってきたからです。
 いかに直情経口人間とはいえ、これはちょっと走りすぎ、と一応自己ツッコミが入りました。
 確かに、「遅かれ早かれ」破滅はやってきます。
 でも遅いか早いかは大問題です。
 「遅かれ早かれ破滅」というロジックは、革命家やカルト宗教家がよく口にするものです。
 そして多分、究極的には間違いというわけではありません。
 「遅かれ早かれ」人は死にますし、「遅かれ早かれ」石油は汲みつくされるでしょうし、「遅かれ早かれ」資本主義も飽和するでしょうし、「遅かれ早かれ」バブルは弾けるでしょうし、「遅かれ早かれ」人類は滅亡するでしょう。最後はどっちに転んでも破滅です。
 でもだからこそ、遅いか早いかは大問題です。
 破滅の先は勘定に入らないわけですから、「遅かれ早かれ」だからこそ、遅いか早いかを競い合うのです。
 宗教家は「遅かれ早かれ」の後を勘定に入れるために「死後に徳を積む」的ロジックを展開し、革命家は「革命の暁にはっ」と叫びます。そういうイカガワシイところが個人的には大好きなのですが、それは「遅かれ早かれ」の外部をネタにしながら「遅かれ早かれ」の内部でそれなりに立ち回っているからです。釣られている方はイイ人だと思いますが、オツムがちょっとシンプル過ぎます。
 とは言うものの、「遅かれ早かれ」の内部だけで話が完結するかというと、やはりそうではありません。

 両者はホメオスタシスと死の欲動、熱力学の第一法則と第二法則のような関係ですが、わたしたちの現実性の内側、つまり「遅かれ早かれ」内部には、常に回収し切れない残余があります。
 では「遅かれ早かれ」の向こう側こそ「リアル」な「本物」なのかと言えば、そこは直接的には触知不可能な領域です。「わからないだけでそこにこそ実在があるのだ」という意味ではなく、内側ができた上ではじめて「回収し切れなかった向こう」として措定される「リアル」です。
 わたしたちのほとんどは「遅かれ早かれ」の内部ロジックで生きていますし、その向こう、「破滅」を真に勘定に入れることはできません。「死後に積んだ徳」にペイオフはありません。
 しかし一方で、「遅かれ早かれ」何かがやって来る、ということをわたしたちは「知って」いますし、これについてまったく思考しない、ということはできません。耳に入ってきた日本語を外国語のように「理解しない」でいることができないように、「遅かれ早かれ」の向こうは「計算できないのに、確実にやってくるもの」として常に視野の片隅をチラつきます。
 これはとても不安なことで、気にし始めると止まりません。『ソナチネ』の台詞に「あんまり死ぬのを怖がってると、死にたくなっちゃうんだよ」というのがありますが、「遅かれ早かれ」などと覚束ないことを言われるくらいなら「いっそ今!」とまで追い詰められます。この不安を鎮めるためには、「遅かれ早かれ」の内部に何らかの形で「向こう側」を先取りする必要があります。あるいはむしろ、この取り込み自体が「遅かれ早かれ」を限界付けるのです。

 象徴的秩序は、「不十分な理由の原理[不充足理由律]」によって支配されている。象徴的主観性の空間の内部では、私は単純に私がそうであるところの者を確証することはできない。だからこそ、私の「客観的」な社会的同一性は、「主体的」な先取りを通じて確立されるのである。(・・・)  ここに<象徴的なもの>と死との両義的なむすびつきがある。象徴的な同一性を引き受けることによって、つまり、わたし自身を潜在的には私の墓碑銘である一つの象徴と同一化させることによって、私はいわば「私自身を死に引き渡す」のである。しかしながらこの死への先走りは、同時に、その反対物としても機能する。そこでは、死の機先を制して、私の死後も生き延びる象徴的な伝統の内に私の死後の生を確保することが目論まれているのである―強迫的な戦略であるそのような者がありうるとしたらならであるが。先走り的な同一化の行為によって、私は死を避けるために慌てて死を引き受ける。(下線原文傍点)『否定的なもののもとへの滞留』 スラヴォイ・ジジェク

 「遅かれ早かれ」の内部に参入するということは、「バブルのチキンレース」(石油汲み取り競争)に参加することですが、まず、自明に思われる内部のロジックへの参入自体に障壁があります。「遅かれ早かれ」の向こう側のわけのわからなさに目を奪われがちですが、「遅いか早いかは大問題」にも別の「わからなさ」があります。
 「遅かれ早かれ」の向こう側には<破滅>があります。それはわかっています。ただ、<破滅>とは何か、<破滅>がわたしにとって何であるのか、それが深く深くわからない。
 「遅かれ早かれ」の内側は、人の住む世であり、向こう側との間に横たわるような淵はありません。一見見通しはよろしい。しかし第一に、いかに振舞えば「遅く」できるのかは明示的ではないし、第二に、より根本的なこととして、「遅かれ早かれ」<破滅>なのに、どうしてまたわざわざチキンレースに呼び出されたのか、が決定的にわからない。

 本当のことを言えば、呼び出されたことに大した理由はないのです。
 何か重要な用事があって「コレやって頂戴」とお呼びがかかったわけではないのです。
 しかし手持ち無沙汰でブラブラしているとクビになるので、「わたしはコレです!」というのを飛び出し的に先取しなければならない。そして「コレです!」ということは、翻せば「コレ」以外ではなくなってしまうということで、ある意味自らに象徴的に斜線を引いてしまうことです。漫画家にもプロ野球選手にもなれたかもしれないけれど、係長でいいです、その代わり断固係長です。

先取り的な同一化はそれゆえ、一種の先制攻撃であり、「<他者>にとって私は何であるか」にあらかじめ答えを与え、そうすることで<他者>の欲望に付随する不安を鎮めようとする試みである。

 「わたしはコレです」ということは、「遅かれ早かれ」にやってきた理由=原因になってくれると同時に、墓碑銘という形で「向こう側」を囲い込むことでもあります。予め死んでいることで、死んでも安心なレースになるのです。

 なんだか丸く収まったかのようですが、もちろんこれはトリックであって、「コレです」と言ったところで本当に「ソレ」かはわかりませんし、まして「向こう側」に行った後で人間たちがその名で呼んでくれるか、保証してくれるものは何もありません。だからこそ「コレです」を既成事実化すべく「遅かれ早かれ」内部であくせくするわけです。

 イカガワシイ革命家や宗教家が時々ステキなのは、少なくとも真面目に「あくせく」する人よりはこのカラクリに自覚的だからでしょう。わかった上で、なお大嘘をつこうとする。
 個人的には、ささやかな嘘より大嘘の方が好きで、何よりわたし自身が大嘘つきなのですが、大きな声で言うと「遅かれ早かれ」がとても早くなってしまうので、小さな声で言っておきます。

『否定的なもののもとへの滞留    ちくま学芸文庫』 スラヴォイ・ジジェク 酒井隆史 田崎英明 『否定的なもののもとへの滞留 』 スラヴォイ・ジジェク

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