革命家は制止を振り切ってゴミを拾え
しあわせのかたちさんに個人主義者は「公園のゴミ」を拾えるか?というエントリがあります。「公園に落ちているゴミを拾うか否か」を素材に、「個人主義」の立場とそこで見落とされている視点を整理したものです。
「公園をキレイにしたい人もいれば汚くても構わないという人もいる。キレイにしたい人が多数派なら、議会等で決めて清掃員を雇えばよい」という「個人主義者」の論理には「人が社会を作る以前に社会が人を作るという視点」、つまり広義の教育的見方が欠落している、という論旨です。
「見落とされている」視点にツッコむ、というテクストですが、そこでさらに見落とされている重要なポイントをツッコませて頂きます。
といっても、別段反論でもなければ、個人主義を巡る議論を発展させるものでもありません。
テクストの本題とは全然関係ない、細部への混ぜっ返し、「ゴミを拾う」こと自体の意味についてです。
このテクストでは、「ゴミを拾う」ことが持つ道徳規範以上のパワーが顧みられていません。
人が掃除をする動機には、「キレイにしたいから」と「道徳規範に従うため」の二つのオプションしかないのでしょうか。
掃除をナメたらいけません。
わたしたちは土地や場所というものが「誰かの」ものである、という視点に洗脳され切っていますが、元々土地は誰のものでもありません。では、「誰のものでもない土地」の最初の所有権を得るのは誰でしょうか。
そこを掃除した人です。
ものすごい飛躍しましたね。順を追って考えましょう。
「オルテガ『大衆の反逆』、空地、国家」でも書いたのですが、(sho_taさんが敬愛しているらしい)オルテガがこういうことを言っています。
もし、大地のすべてが原野であり、原野が無限であれば、どこに行ったらよいのか。答えはきわめて簡単である。原野の一部を壁で囲って、無形の無限の空間にたいして、囲まれた有限の空間をつくればよい。
こうして広場ができる。それは家のような、また原野に存在する洞穴のような、上から閉ざされた《内部空間》ではなく、純粋に単純に、原野の否定である。広場は、それを囲む壁のおかげで、原野の他の部分に背を向け、他の部分を排除し、これと対決する、原野の中の一片の土地である。(『大衆の反逆』 ホセ・オルテガ・イ・ガセト 傍線引用者)
無定形の空間に一本の線を入れる。つまり象徴化です。
これが世界に対し人間が切り込む第一歩であり、土地という「誰のものでもないもの」を「所有権」という人間的・象徴的枠組みに取り込んでいく営みの始まりです。
象徴化以前の「無定形の空間」とは、あくまで象徴化以後に遡及的に想定される不可能なものとしての現実界です。ですから、実体として措定できるものではないのですが、ここでの論旨からは外れるので細かいところはおいておきましょう。
重要なのは、土地が象徴経済において位置づけられ、後に「所有権」につながるような意味づけを得るのは、「自然」(という不可能なもの)に対し、熱力学の第二法則に逆らう「人間的営み」が引かれる時だ、ということです。
エントロピー増大の法則に従いグチャグチャ~となっているところを「キチンと」することから、空間は象徴化されます。
一般的なイメージで言えば「開墾」ですが、これも人類学的な最近時の文脈にひきずられています。オルテガは「広場」と言いますが、もっと言えば「空地」です。まだ鍬一つ入れられていなくても、線が引かれた瞬間に、そこは「人間の土地」になるのです。「キチンと」なるのです。
そして「キチンと」すること、その第一歩が掃除です。
「無定形の空間」にはゴミも非ゴミもありません。「ゴミ」という概念は、「不要のもの」として人間が世界に引く線です。掃除とは、土地の「グチャグチャ」に対して「人間的」枠組みを覆いかぶせることなのです。
もちろん、現代においては、ある土地の掃除をしたからといって、不動産の所有権を獲得できるわけではありません。
しかし内田先生の大好きな「人類学的余響」の効果はそう簡単に消えません。自分のものでもない場所を掃除することによって、何とはなしに空間に対する「覇権」が生み出されます。
今でも道や公園を言われもしないで掃除をしているおばあちゃんなどが時々見られますが、そういう人にはどことなく「ヌシ」のような威厳が宿ります。何ら法的根拠などないにも関わらず、「あの人に黙って勝手に使っちゃマズいんじゃないか」といった負い目が生じるのです。マメに窓を拭いている事務のオバチャン的権力です。
空間の「ヌシ」とは、その場所を掃除している人です。
ですから、掃除する領域を広げるということは、とてもクリーンな帝国主義でもあるのです。
借主に過剰な権利を与えている、という発想から定期借地権なる仕組みが作られましたが、翻せば単に「住んでいる」ということからも「権利」が生まれます。狭義の「権利」は近代的な法体系によるものですが、法があって初めて「権利」が生まれるのではなく、「だって住んでるからしょうがないやん」という綿々と続いてきた暗黙のパワーが法によって明文化されたのです。
スクウォットという、資本家が投資目的などで所有している家に勝手に住み着いてしまう、という運動があります。オランダでは、一定期間以上居住したスクウォッターに対して「所有権」が与えられています。
「住む」よりもっと暴力的な形態が「掃除」です。
人が住む空間というのは、広げるにしても限界がありますから、掃除はより遊撃的で、論理レベルの高い運動です。
公園の掃除というと、道徳規範のようなウソくさい枠組みをつい連想してしまいますが、掃除にはより「人間的」でエゴイスティックなパワーが秘められています。もしこの「掃除力」を法制度化することができれば、「個人主義者」でもこぞって掃除にいそしむことでしょう。
鶴見済さんが「世界革命の前に部屋の掃除」ということを仰っています。
これは「無力感や鬱に陥っている時は、抽象度の高い大きすぎる枠組みに思考を奪われているものだ。まず身近なところで手を動かすと、我に帰る」という教えなのですが、実際、掃除には素晴らしいパワーがあります。
疲れて帰って何もする気がない時でも、神の命令だと思って部屋の掃除をしてみてください。びっくりするくらい気持ちがスッキリします。掃除を始めるのは確かに面倒ですが、実は非常に有効でお手軽な「ストレス解消法」です。
わたしはほぼ毎日トレーニングする習慣があるのですが、ストレッチや腹筋などをしていると床がよく見えます。フローリングの床に髪の毛や埃が落ちているのは実に不愉快です。腹筋しながら、床のことが気になって仕方ありません。トレーニング終了と同時に軽く拭き掃除したりすると、ものすごい精神が復活します。といいつつ、水周りは放置のダメダメ人間なのですが。
公園の掃除をして気分が爽快になるのは、別段道徳規範に従って「良い子」になったからではありません。
掃除自体が、「世界に鍬を入れてやった」爽快感をもたらすのです。
むしろ自らの領域を強引に広げる「ワル」な心地よさです。
いっそ立ち入り禁止区域に勝手に侵入して掃除するくらいの勢いです。
革命家は制止を振り切って掃除せよ!
万国の労働者諸君、まずは資本家の土地のゴミ拾いからだ!
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革命家は制止を振り切ってゴミを拾え
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どこにコメントするか分からなかったのでここにしますが、日曜日はお疲れ様でした。
呼ばれても無いのに何故か同席させて貰ってしまいましたがお蔭で滅多に聞かれない面白いお話を色々伺わせていただけました。
ところでめっきり専門書以外の読書が減ってしまったわたしなのですが、次に読むのは「ゴルバチョフ機関」と「人権と国家」のどちらが宜しいでしょうか?
投稿者 nuffy
: 2007年07月10日 01:35
どもどもです。
人と会うことの良さは「思わぬこと」が起こるからなので、どっちに転ぼうが神意には沿っていると思います。
「ゴルバチョフ機関」と「人権と国家」、別にどっちを読んでもどちらも読まないでも良いと思いますけれど、買うときはウチのサイトからクリックしてアマゾンで買ってください(笑)。両方買えば送料無料ですよ!
ジジェクは他にもっと読むべきテクストがありますが、慣れていない人にはとっつきにくい部分もあるし、そういう意味では「人権と国家」はお気楽でしょう。
投稿者 ゆ
: 2007年07月11日 07:47
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『人格改造マニュアル』 鶴見済