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2007年07月12日

メールを出さなければ電車に乗り遅れられるのか、誰が電車に乗ったのか、愛は終着駅で致命的出会いにたどり着くのか

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 「虚空に向かって書くからこそ丁寧に書く」「なぜコメントの敷居を高くするのか」で、このブログのスタイルが「一方通行」であることについて考えてみたのですが、そもそも私信というものをほとんど書かなくなった気がします(件のエントリで「特定の誰か」という表現をしたため、公開私信的なものと誤解されてしまった方がいるようですが、これは定冠詞の総称的用法というか、「死者への手紙」のような意味で、まったく交通可能性のないものです)。
 何度も同じ言い訳をしますが、「やりとり」のすべてを拒否しているわけではまったくありませんし、壁を作った上でその壁を認識できる人が乗り越えて来てくれた時には、面白い出会いになることもあります(つい最近もありました)。世の中には、壁そのものが見えない恐れ気ない方もいますが。
 かつては人並みにメールや電話を交わしていたこともあったのですが、ここ数年について言えば、PC・携帯ともに業務以外のメールはほとんど書きませんし、電話も滅多に使いません。たまに書くと、およそ私信らしからぬ長大な文章を送りつけたりします。
 しかし端的に「人間嫌い」なのかというと、自分ではそういうつもりでも、実際は会って三十分も話すと憑き物が取れたように晴れやかな気分になり、実はお喋りが大好きなのだ、ということを思い知らされます。フロイト的「煙突掃除」が、笑えるほど良く効いてしまうのです。
 ではなぜ、「個人的なお便り」すら書かなくなってしまったのでしょう。これはブログを極めて「非mixi的」、つまり「非-お付き合いの道具的」に使っていることと、表裏一体でもあります。

 わたしたちは、ものを書くことのは何かを伝えるためだ、という薄ぼんやりとした通念を共有していますが、テクストは常に誤読されるものです。ラカンの指摘する通り、コミュニケーションとはコミュニケーションの失敗において成立するものです。
 では何も伝わっていないのかと言うと、メッセージは常に伝わっています。手紙は必ず宛先に届きます。ただ送信人が、<わたし>がわたしだと思っている場所ではなく、そして宛先も「意図した」地点ではない、というだけです。わたしたちは、真理以外何も口にすることができません。
 ブルース・リーが「わたしはあなたの結果である」と言いましたが、この境地に達して一切の「誤読」を自ら名に引き受けてしまえばカッコイイですが、そんなブッダのような領域にはおいそれとたどり着けません。わたしが「神様=全体=みんな」に対してだけ書くようになったのは、「いや、わたしの言いたいことはそれじゃなくて・・」という強迫的・肛門的見苦しさにも耐えられない一方、受取人指定したテクストという、近代的枠組みの中で超然としているほどの度量も備えていなかったからでしょう。
 言葉には時間差があります。
 書き言葉でも話し言葉でも、発せられ、了解し、決断する、という論理的なステップがあります。
 しかし「お便り」の場合は、これに物理的なタイムラグが加わります。本当はまったく次元のことなる話なのですが、なんとなく両者が重なって見え、「走って追いかければ間に合うのではないか」という淡い希望を抱かされてしまうのです。電車に乗り遅れてタクシーを拾うような感じです。
 本当のところ、乗り遅れた電車には二度と乗ることはできません。それで良いのです。電車は出発し、乗せるべき人を乗せて到達すべきところに着きます。
 頑張ればタクシーで追いつけるかもしれない、などという中途な希望は一番過酷です。この幻想的希望に耐えられないから、私信の数が極端に減り、タクシーではとても追いつけない新幹線にだけ荷物を載せる、つまり「晒された」テクストだけを書くようになっていった気がします。さすがに新幹線なら諦めもつきます。
 この「取り返しのつかなさ」について言えば、「晒された」テクストはメールよりもむしろ直接の会話に近いです。相対してのお喋りも新幹線です。とても追いつけるものではありません。

 しかし一体、電車に乗り遅れるとは何でしょうか。
 「自分であげた比喩に何言ってるの」と思われるかもしれませんが、駆け込み乗車しようとして目の前で扉が閉まり、無情にも去っていく電車を眺める時の、腹立たしさと同時にある奇妙な安心感。それは単に「頑張っても手遅れだから、わたしのせいじゃない」という、責任放棄の気楽さだけなのでしょうか。
 去ってしまった電車はどこへ行ったのでしょう。「向こう」です。みんなを乗せて、「向こう側」に行きました。
 わたしだけは、「残念ながら」乗り遅れました。お陰で今も「こちら側」です。つまり、彼岸に旅立つことなく生き残った、ということです。しかも「必死で走ったのに間に合わなかった」わけですから、わたしのせいではありません。肩を落としながらも、内心ほくそ笑んでいるわけです。

 頑張ってなお電車に乗り遅れる、これはなかなかよく出来たホメオスタシスの悪知恵です。お陰で今日も、昨日と同じくらい退屈な日常にグチを言えるわけです。
 「いや、わたしが言いたいのはそういうことじゃなくて・・」という「真の伝達」を目論む無限の空滑りとは、「わたしは電車に乗っていない、キチンと乗り遅れているのだ」という主張です。
 メールには一見、この「言い訳」の余地があるように見える。一方、「晒された」テクストや直接対話には言い訳の余地がない。
 しかしこれでも問題のすべてではなく、言い訳してしまうということは、うっかりすると電車に乗れてしまっているからです。弁解しなければ、電車に乗れた誰か、そちらが<わたし>になってしまうから、必死で弁解して、「いや、<わたし>はそっちじゃない、乗り遅れてホームで息を切らせている方が<わたし>なんだ」と言っているのです。
 つまり、無情にも去ってしまった電車、その電車には確かに乗り遅れたのですが、それでも確実に誰かが乗っています。<わたし>以外ではない、<わたし>であって<わたし>ではない、欠片のようなものが。

 そして直接会話や「晒された」テクストの持つ解放感は、「確実に乗り遅れる」安心であると同時に、「電車に乗れてしまった」安心でもあります。明らかに矛盾しています。
 電車に乗って去っていったのは誰でしょうか。それは死者としての<わたし>です。モノになってしまった、あるいは「かつて<わたし>であったモノ」「永遠に失われた<わたし>の核心」です。
 メールを書いて「送信」ボタンを押す、あるいはブログにポストする、本を出版する、ということは、<わたし>が名となり、不動のモノ、一人の死者となることです。
 そして去り行く電車を力なく眺めているのが、「思考する<わたし>」です。
 ラカンがデカルトをもじって「わたしの存在しない場所で、わたしは考える」と言うのは、そういうことです。
 電車は彼岸に向かうのですから、言ってしまったのは死者=モノとしての<わたし>です。それが存在しない場所、つまり取り残されたホームで、<わたし>は思考しています。

 久しぶりに友人と会って、憑かれたように喋りまくった後で、ハッと我に返って気恥ずかしくなることがあります。
 「我に返る」ということは、その一瞬前まで「我」ではなかった、ということです。
 「我」でないとき、<わたし>は死者の側、つまり思考ではなく存在の側にいます。憑き物の取れたような解放感、手垢にまみれた言い方をすれば「忘我」な時間、それは<わたし>が死者=モノとなっている享楽の時です。
 もちろん、「あちら側」に永遠に留まることはできませんから、どこかで「我に返り」、押入れの隙間から覗き見する思考の側へと帰ってきます。執拗なるホメオスタシスとは、押入れに隠れて世界を覗きながら、息を殺して「生き延びる」ものです。
 この二律背反なあり様へと本質的に分裂しているもの、それが主体=subject=臣下です。

 クローゼットでコソコソするのが見苦しい、という一方、それもまた甘ったるいファンタジーであり、「電車に乗り旅立つことこそ道」などというロマン主義には、少年的乳臭さ以外の何もありません。
 すっかり「モノとしてのわたし」を諦め切ってしまった(どうせいつかは電車に乗れてしまうのだから)オヤジたちが醜悪極まりないのは間違いありませんが、永遠にホームに佇むこともできません。
 ですから、結局、「必死で乗り遅れようとしたのに、うっかり乗れてしまった」という失敗(失敗し損ない)だけが、不可能な美という可能性を僅かに残しています。

 多少自己弁護してみるなら、「晒された」テクストを優先するのは、誤読において死者となり、それでも書き続けられてしまう、という見苦しさを引き受けたいから、とも言えます。
 しかし直接会話における<モノ>となる享楽、これに抗いがたい魅惑を感じ、そのような不可能にだけ生の意義を見出そうとしてしまっているのも事実です。
 わたしは美しい物質になりたい。そして多分、「絶対電車になんて乗るものか」と思っている時にだけ、うっかり乗れてしまうのでしょう。
 これが愛と呼ばれるものの核心の一つです。

 最初の話題に戻すと、それではメールという私信はどのように理解したらよいのでしょうか。
 多分、ここでもまた、乗れてしまった<わたし>と乗り遅れた<わたし>という分裂を引き受けることこそ、倫理的<善>があるのでしょう。しかし、今のところ、わたしにはこれをまっとうするだけの勇気がない。勇気がないというのは、「欲望せよ」という命法に従えるほど「去勢」されていない、ということです。「欲望せよ」とは、<モノ>となることを禁じられたまま、分裂の場に留まり手の届かない場所を永遠に追い求めよ、という命令です(そして多くの大学一年生的ラカン読者が早合点するように「去勢」が「正常な人間の印」なわけでもなければ、「正常な去勢」を全うした人間なども存在しない)。

 しかしながら、これは倫理のすべてではありません。
 一周回って、もう一つの<善>、悪として<善>の生成過程にある、という欲動の倫理があります。
 この倫理は、死に至る倫理です。

 わたしは大変に「欲深い」ので、すべてを了解した上でなお、<モノ>として喋り続ける死者となることを選びたい。
 女たちはしばしば、ただ<モノ>であるためだけに、男たちに話しかけます。死者として、応答の無効なるものとして(それゆえ、男たちの「合理的提案」はしばしば女たちを激高させる)。

 わたしは「我を忘れて」喋る。彼は多分、もう眠ってしまっている。
 「ねぇ、起きてる?」。眠った者には、永遠に答えられない問い。そして多分、わたしもその時「眠って」いる。
 不可能な性関係を越えて、一つの墓標の下で。


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「ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる 」

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