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2007年07月17日

文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害

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 「webは『砂の文明』である」に続いて、『砂の文明・石の文明・泥の文明』をベースに考えてみます。

 文化と文明。この手垢にまみれた弁別を、松本健一さんは再定義することから始めます。
 彼の認識によれば、文化とは「民族の生きるかたち」であり、文明とは「常に世界文明的」で「普遍性」を持つものです。
 文化cultureは「cultivate 耕す・育む」に由来し、生命的で動かし難いインプリントされたイメージがあります。実際、cultureには「培養」といった意味もあります。
 一方、文明civilizationは「civilize市民化・都市化」に由来し、一段抽象度の高いものです。文化がイマジネールであるのに対し、文明はサンボリックである、とも言えます。
 松本健一さんがこの弁別を敢えて持ち出すのは、サミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』的言説に対抗するためです。ハンチントンは、文化を文明の下位概念とし、文明は文化の総体であると考えます。その上で「文明と文明がぶつかり合う」という構図を描くのです。
 しかし松本氏は、「文明の衝突などあり得ない」と言います。
 文化とは、例えば、スコットランドにおけるバグパイプ、各地の「食文化」等です。これらは普遍性を持たず、「民族固有」である一方、想像共同体としてのネーションのアイデンティティの支えとなり得ます。
 これに対し、文明とは例えば「自動車文明」「漢字文明」です。文明は「便利」で「普遍的」なものであるがゆえに、ネーションの壁を越えて伝播しますが、一方で「より便利」なものが出現すれば簡単に捨てられてしまうこともある。テクノロジーだと思えばわかりやすいでしょう。
 そしてスコットランドの「文化的」誇りのために死ぬ人はいても、自動車文明に殉じる人はいません。それゆえ、「文明の衝突」などナンセンスだ、ということです。
 衝突するとしたら、それは「文化」です。ハンチントンが「文明の衝突」を言うのは、「文化の衝突」を隠蔽するためです。なぜなら、アメリカという国の中には様々な「文化」があり、各文化へとidentificationを阻み一つにまとめ上げるには、「リベラル民主主義」という文明的価値観を立て、外に「文明の敵」を作り出す必要があったからです。

 さらに、文化が文明を飼いならしてしまう場面もあります。
 例えば、自動車というテクノロジは一定の普遍性を持ちますが、使われ方は各「文化」によって異なります。イギリスの埃だらけの自動車と、きれいに洗車された日本の車では、同じ自動車という技術を使っていても、文化的位置づけが相違します。
 また「漢字文明」は東アジア一帯に広がりましたが、その使用法は「文化」的多様性を備えます。日本人は漢字テクノロジーを取り入れる一方、自らの「文化」に合わせて補完的技術としてのカナを発明しました。

 以上の分析は極めてわかりやすく、かつ相当の有効性を備えていますが、いささか「文化」びいきな感も否めません。
 これは、松本氏が「泥の文明」というアジア的でイマジネールな場所に軸足を置いてからでしょう。「泥の文明」は、言わば「国敗れて山河あり」、象徴的なものが滅んでもその向こうには想像的な「自然」、母性的なものが待っていてくれる、という世界だからです(※1)。
 文化と文明の間にある程度の流動性があることは松本氏自身も認めるところでしょうが、文化が文明を飼いならす一方、文明が「文化-化」することもあり得るはずです。
 テクノロジーは移ろうものですが、「古いテクノロジー」に特別の愛着を持つ人もいます。そしてバラバラに分断された都市生活者においては、時に「文化」的なるものより「文明」的なものにidentifyするケースもあります。webには、良くも悪くもそうした「病的」現象を見つけることができます。
 もちろん、生まれて間もないwebのような「文明」が、数千年の歴史を持つ「文化」を覆すことは想像しにくいです。しかし、文化が文明に流れ込む量の十分の一、百分の一程度は、文明の「文化-化」という逆流もあるのではないでしょうか。

 ハンチントンについても、「泥の文明」的立場からすれば「文化の衝突」の隠蔽と映るわけですが、必ずしも狭義の政治的意図による欺瞞とは言い切れません。「本当に」文明を信じている、という想定もできるからです。
 アメリカという国家が推進するグローバリゼーション、これは確かに「文化の衝突」を隠蔽し、世界のアメリカ化を図る侵略です。「リベラル民主主義」の輸出が滑稽であることは、言うまでもありません。
 しかし、これに対抗するのに「文化的多様性」を持ち出しても、無力です。彼らは「文化的多様性」を認めた上で、なお「文明」を優先する、という思想に依拠しているのです。マルチチュードなる戦略の夢想性は、ここにあります。
 ただし、一つだけ「文化の衝突」が反グローバリゼーションとして機能する場所があります。それはアメリカ国内です。アメリカの内部で、「文化の衝突」、つまりナショナリズムの勃興があれば、彼らは内部から解体するでしょう(それを防ぐためにこそ、ハンチントンもブッシュも外敵を作った)。逆説的にも、この解体の触媒となるのは「リベラル民主主義」自体です。アメリカ国内で急増しているムスリム系移民の人口=票数を考えれば、遠くない将来、アメリカがアメリカにより非-アメリカ化する可能性も否定できません。
 余談ながら、先日当サイトを閲覧して頂いている何人かの方とお会いする機会があり、「アメリカについて必ずしも否定的に捉えていない」と発言して驚かれる、という場面がありました。わたしがアメリカが嫌いでないのは、その内部に「争い」を抱いているからです。日本人は自国の「治安の良さ」を鼻にかけますが、むしろ治安などある程度「悪い」方が望ましい。小さな小競り合いが頻発していれば、大きな爆発に対するガス抜きになりますし、外敵に向かうまえに内輪のケンカで解消してしまうこともあります。「争い」を世界から消去することなど不可能ですから、せいぜい顔の見える領域でキチンと殴り合えば良いのです。
 実際にやってみれば、ケンカというのは大変疲れて、しかも痛い、といことがすぐわかります。物理的戦闘ではなく論戦だったとしても、非常なストレスになる。ヤクザだって、適当なところで「ナシをつける」わけです。

 話を戻すと、「文化的多様性」では「文明の衝突」論には対抗できません(※2)。
 ここにあるのは、「文明の衝突」でも「文化の衝突」でもなく、「文化と文明の衝突」なのです。文明を優先する「石の文明」と、文明の底に文化を見出す「泥の文明における文化」です。そして「泥の文明における文化」は、それが文化である以上、文明に対抗しうるような統一性も力も見出せません。八紘一宇などグローバリゼーション以下の妄想です。実際、アジア「文化」は文明に汚辱され続け、これに打ち返した時も「文明をもって文明を叩」いただけです。ジャンケンのチョキがグーに絶対勝てないようなものです。
 ですから、真に「文明」派に対抗しようとするなら、「文明以上に文明」、文明を軽んじず、乗りこなし、それを「文化-化」する力が必要です。ここでヒントになるのはもちろん、「砂の文明」です。場に依拠せず、空間的故郷を持たない、遊撃的民族。このネットワークの力が、グーに対するパーとなることでしょう。
 そのためには、日本の革命家は一度、想像的なものを殺さなければならない。母を殺害し、泥を捨て、砂塵に帰らなければなりません。「自然」など信じているようでは、一生負けです。
 泥に潜伏し石を撃つ、この砂の民がサイボーグ・ファシストです。


『砂の文明・石の文明・泥の文明』 松本健一 『砂の文明・石の文明・泥の文明』 松本健一

※1
 「身体を信じることは身体感覚を信じることではない、物質を愛することは自然を愛することではない」「自分語り、解読されていない何か、山河」参照。

※2
 「ドリトル先生と差別、なぜ多様性も「アイデンティティ」も無効なのか」参照。

関連記事:
「大川周明とイスラーム、日本のイスラーム化と「さておかれない冗談」」
「『北一輝論』 松本健一」
「『日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」』 松本健一」
「サイボーグ・ファシズム」
「ムッソリーニ、人種、自由」
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