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2007年07月18日

恋愛と郷愁

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 ある男友達(もうずっと連絡も取っていませんが、厚かましく友人とさせて頂きます)から、すごいセリフを聞いたことがあります。
「子供は要らないけれど、自分のクローンを作りたい」。
 わたしは「クローンを作りたい」という人の気持ちがまったく理解できないので、「なぜ?」と尋ねたところ、返ってきたのが、
「今まで人生で色々な選択をしてきた。あそこでああしていれば、と思うこともある。別の選択をしていたらどうなっていたのか、それが知りたい」
 という答えでした。
 そもそも、仮に遺伝子がまったく同じであったとしても、それは<わたし>とは全然関係のない人間なわけで、クローンに「パラレルワールドの自分」を託すことは馬鹿げた空想ではあるのですが、そのことは脇に置いておきましょう(当の彼もわかった上で「自分大好きっぷり」の半偽悪的表現としてこう語ったのではないかと思います)。
 今、気になるのは、「あり得たかもしれない自分」という空想がわたしたちの「現実性」の構成において果たす役割、そして恋愛との関係です。

 まず一つ目の論点として、幻想とは「現実性」を覆い隠すものではなく、その一部であり、それがなくてはリアリティと呼ばれるがそもそも構成できない、ということを確認しておきます。
 「幻想を打ち破り、現実を直視するのだっ」などといったお子ちゃま的言説が(左翼・右翼を問わず)見られることがありますが、もしそんなことが本当に実現できてしまったとしたら、きっとその人はムンクの「叫び」のような狂気へと陥り、バラバラに解体し統合性を失った悪夢しか生きられなくなることでしょう。彼・彼女が「直視」しているつもりらしい「現実」こそ、可能的なものに支えられて構成された「幻想的現実」です。そして、この安定した「現実性」を生きるのが真っ当な人間というものであり、ちっとも逃げているわけではありません。
 「バカ正直こそ最も危険な反権力分子」でも触れましたが、わたしたちが「現実性」を感じられるのは、それが否定されるかもしれない「可能性」があってのことです。そして「可能世界(パラレルワールド)」とは、「この世界ではないもの」ではなく、「この世界」が成り立つために必要なフィクションです。

現実からフィクションを取り除くその瞬間に、現実そのものが、その言説的-論理的一貫性を失うのである。<理念>は単に現実に付加されるのではない。それは文字通り現実を代補する。客観的[対象的]現実についてのわれわれの知は、<理念>への参照によってのみ一貫性をもち、意味のあるものとなることができる。(『否定的なもののもとへの滞留』スラヴォイ・ジジェク

 ナショナリズムにおける「ルーツ」の幻想などは典型ですが、加えて「ルーツ」では、この「幻想と相まって成り立つ現実性」のもう一つの重要な局面がむき出しになっています。「来るべき真の社会主義社会」でも「万世一系」でも、それが目の前にはないもので、かつ目の前にあるものより強力に作用する、という点では変わりないのですが、「失われた真の日本」は(もちろんそんなものは初めからない)、「今はないけれど、前はあったのだ」という形で可能性を構成します。つまり過去という時制です。
 これは単に「未来はまだないけれど、過去なら一度はあったのだから、より本物っぽい」という意味ではなく、過去という時制自体が、今=<わたし>が成り立つために切り離したもの自体だからです。中島義道さんが『時間を哲学する』で、(のっぺりとした物理的リニアな時間軸に対して)「過去はいつから過去なのか」という問いに「それが過去形で語られた瞬間からだ」と述べられていますが、過去とは「いま=ここではない」という象徴的切断であり、翻せば「いま=ここ」を成り立たせるために「犠牲になって」くれたもの、<わたし>の根拠そのものなのです。
 奇しくも「しあわせのかたち」さんが当サイトに言及して下さったエントリで、次のように書かれています。

「抽象的な何か(道徳とか倫理とか礼とか生き方とか国家とか星座とかモヒカン族とか)を、最も効果的に“ある”と規定する方法とは、“かつてそれはあった。しかしそれは今や失われてしまっている”(“今は失われつつある”)と語ることだ」ということです。

 「来るべき真の社会主義社会」も原始共産主義のファンタジーを語り、「自分探し」も「本来の自分」を見つける旅です。
 ついでに言えば、「自分探し」な人など今の若者にはほとんどいないでしょうが、翻せばもう少し世代が上の人にとっての「自分探しな若者」イメージは「本来の自分」です。そして現在二十歳前後の人々にとっての「自分探しな人たちがいた時代」も「本来の自分」です。

 最初の話に戻せば、クローンに託そうとする「あり得たかもしれない自分」とは、単にオプションの一つとして想定できた、ということではなく、<わたし>があるためにどうしても「あってはならなかった」が故に、「今のわたし」以上に「わたしそのもの」なモノです。
 そして恋愛というものにも、「あり得たかもしれない自分」に「わたし以上のわたし」を求める面があります。
 凡俗な恋愛談義の中で「自分と価値観が似た人に惹かれる」「いや、むしろないものを持っている人がステキ」といったものがありますが、恋愛-対象=客観objectの備えているものとは、「わたしそのものであったにも関わらず、わたしがわたしのために捨ててしまったもの」です。では合体して補い合えばパーフェクトかというと、もちろんそんなわけはなく、「捨ててしまったもの」など最初からないのです。ないにもかかわらず、<わたし>と世界の現実性が成り立つためには、どうしても必要なフィクションなのです。
 恋愛-対象=客観objectには、それを通じて神様=全体とコミットできるような魅力があります。有り体に言えば大文字の他者ですが、つまりは「みんな」なるものです。そして「全体」は存在しないのですが、それがフィクションとして「あって」くれなければ部分としての<わたし>が成り立ちません。
 このフィクションの名が「過去」です。ですから、恋愛とは常にノスタルジア、郷愁の性格を帯びています。

 尤も、これは恋愛の「惚れる」ところまでのお話で、「この世界」の中で「対象」として発見されてしまった側にとっては、青天の霹靂です。
 「対象」な役回りを演じさせられることの多い人々は、ある種の過去、亡霊、「ここにあってここにあらぬもの」として振舞う技術を程度の差こそあれ習得しており、かつ不動の過去そのものである悦びも知ってはいるのですが、一方で「わたしはここにいるんだ! ふざけんな!」という憤りも抱えています。
 恋愛と革命は「統制的理念から行動する」点で似ているところがありますが、革命のガチャガチャに巻き込まれて店を壊されてしまった商店街のオバチャンにはいい迷惑です。「ナンタラ主義でも何でもいいから、普通に商売させておくれよ」というものです。しかも「ナンタラ主義」は偉そうに「革命がなれば、君たち労働者諸君も解放されるのだっ」とか尤もらしいことを言うものですから、また厄介です。
 オバチャンの悩みは大変深く、「対象」問題がこじれて食べたり吐いたり手首切っちゃったりなんてことが世の中に溢れています。ですから、良き革命家とは、革命はやってもオバチャンの店はなるべく壊さないようにし、能書きは述べても「聞いちゃいねぇ」なことをある程度認めてあげるものです。
 逆にオバチャンの知恵は、そういった「程度問題」になかなか収斂しません。というのも、対策として「いっそナンタラ主義を信奉してしまい、一蓮托生になる」と「断固店を守る! どんな主義だろうが店を荒らすヤツは許さないよっ」の二つに割れてしまうからです。
 さらに両派の間には大きな相克があり、加えて「一蓮托生」派内でも、「主義」によっては齟齬をきたすものがありますから、もう三国志状態です。この戦争に比べれば、革命なんてちゃんちゃらおかしいお遊びです。
 個人的には、オバチャン自ら革命を立ち上げ、店を革命の拠点にして他の店をぶっ潰す、という第三の道を提唱したいのですが、当然ながら三国志の中で最初に叩かれる新興弱小国なので、小さな声でこっそり訴えておきます。


 例によって、ものすごい話がズレました。
 無理矢理「過去」の話に戻すと、安倍首相も「美しい日本」などと言わず、「美しかった日本」と言えばもう少し人気が出たかもしれませんね。それはそれで、ただのおじいちゃんと紙一重ですけれど。

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